嘘つきワルツ
これは、特別なことなど何もない、普通のお話。一人の少女と一人の少年が嘘をついた。ただそれだけのお話。……の、はず。
短編という割には長め、ギリギリ短編という感じ。
可愛いものが好き。
女子にはそういう子が多いのではなかろうか。かくいう私も例外ではない。
ただ、私の場合は多分、自分が可愛くないから可愛いものが好きなのだと思う。自分にないから、その要素を外部に求めるのだ。
なら少しくらい努力したらどうだと言われそうだが。実際、考えないわけではない。しかしどうも乗り気になれない。
色々ぐるぐると自分の中で考えて、考えて、私は結論を出した。
まあいっか、と。
そんな私だから、男子と縁なんてそんなにないよねー、むしろおばあさんになっても年齢イコール彼氏いない歴とかなりそうだ、なんて。
思っていたんだが。
「つ、付き合って、くれない、かな?」
ぽけっと目の前の男子を眺めた。
知らない相手ではない。というかそれなりに知っている。相手はクラスメートであった。
柴田友樹。顔は悪くない。かっこいいよりは可愛い寄りの容貌。可憐というのではなく、幼い。成績はクラス内底辺組。反面、運動神経はよく、クラスのムードメーカー的存在でもある。
しかし言動が少々お子様じみているため、「彼氏にはちょっと……」と評価する女子多数。あと、背がそんなに高くないせいもあるのだろう。個人的には背の高さなんぞどうでもいいことのように思えるのだが、一般女子的には背が高いほうがいいらしい。よくわらかん。
で、その柴田友樹が私に向かって「付き合ってくれないか」と言っているらしい。
場所は教室。もうすぐ下校時刻。
私は図書委員であり、今日の放課後は図書当番だったのだ。仕事を終え、帰ろうとしたところで英語のテキストを教室に忘れてきてしまったことに気付き、面倒くさいながらも教室まで戻って来たわけだ。
すると、教室には柴田君がぽつんと残っており、私を見ながらとても言いだしづらそうに三分くらい口ごもり続けた挙句、そう言ったのだ。
「どこに?」
とりあえずボケてみた。
「あ、じゃあそこのコンビニまで……ってちがーう!」
ノってくれた。しかもノリツッコミ。さすがだ。
「ということは、つまり男女のお付き合い?」
「そ、そう……そういうこと」
視線が泳いでるぞ、柴田君。ちらちらと教室前方に視線を向けている、その様はまさしく挙動不審。
私もそちらを見てみるが、とくに変わったところはないように思える。さりげなーく教室の中を見回してみる。寂しく放置された鞄が三つ。
……うん、なんとなく読めた。
少しだけ考えて、結論を出した。
まあいっか、と。
「いいよ」
「え!?」
「だから、いいよ」
「え、えー!? マジで!? いいの!? いいのかこれ……!?」
「言いだしたのはそっちなんだけど」
「それはっ……そう、なんだけど……」
柴田君は相変わらず挙動不審。了承の返事は予想外だったんだろうか。
ちらりと私も柴田君同様教室の前方を見る。異変はない。まあいっか。
「じゃあ帰ろうか」
「お、おう」
こっちとしてもこの展開は予想外だけど。害はさしてないだろうし。
ぶっちゃけ、柴田君の容姿は可愛いもの好きな私の好みどストライクだし。
一応これで、おばあさんになっても年齢イコール彼氏いない歴という寂しい結末は免れることになるわけで。
ちょっと付き合ってやるくらい、むしろ役得ってものだろう。
柴田君が先を歩き、その数歩分ほど後ろを私が歩く。その間お互い無言。
彼はしゃべったり動きまわったりしてる時が一番生き生きしていると思うのだが。息苦しくないのだろうか、今。
とは言っても、私もどんな話題を振っていいかわからないのだが。
そもそも、私は柴田君とは逆で、自主的に会話を始めるということをしない。どうしていいかわからない。はっきり言って、私は人付き合いが下手くそなのだ。
先ほどの返事を後悔し始める。しかし発言にリセット機能なんてものはついていない。困ったな。
唐突に、柴田君が軽くこちらを振り返る。
「えっとさ、前沢って、家どっちのほうだっけ?」
「あっち」
「そうなんだ。俺はあっち」
私は右側を、柴田君は反対側を指差した。
「じゃあそこの交差点で曲がったり?」
「そうそう」
「私もだ」
「そうなんだ」
会話はそれだけだった。
そのまま話題の交差点まで来てしまい、私たちはそこで数秒立ち止った。
「……じゃあ、また来週」
「う、うん。そんじゃ……」
そう言って、お互いに軽く手を振って別れた。
今日は土曜日だから。明日は日曜日で、学校はないから。また来週。
携帯電話でも持っていれば、メール機能を使って気軽に連絡くらいできるのかもしれないけど。私は持ってないし、柴田君も持ってないと思う。
柴田君、しんどくなかったかな。月曜日、早速ギブアップされたりして。
家に帰り着き、リビングに向かう。床に散乱している本の山をまたいで移動するお母さんの姿を発見。
「ただいま」
「おかえり、侑花。遅かったのね」
「今日、図書当番」
「あら、そうだったかしら」
「言った」
「はいはい」
答えながら本棚の整理を続行するお母さんからすいっと視線をそらし、自室へ向かった。
♪ ♪ ♪
日曜日を流れるように過ごし、月曜日。
さすがに少し緊張した心地で教室の前で立ち止まった。
柴田君は……まだだろうな。いつも私より後に学校来るし。でも、もしもう来ていたら? やっぱり「おはよう」と声をかけた方がいいのだろうか。席、そんなに近くないのに、わざわざ? 今まで一度もちゃんと挨拶したことなかったのに、突然?
むー……。
「あれー? 前沢さん、おはよー」
「教室入んないの?」
「……おはよ。今から入る」
後から来たクラスの女子につっこまれてしまった。
私は人付き合い下手くそだけど、別にクラスからはじかれてるわけではない。ただなんとなく溶け込めていないだけ。だからこうして近距離遭遇でもすれば挨拶くらいはするし、簡単な言葉を交わしたりはする。
けど、どうにも私はとっつきにくい印象を相手に与えてしまうらしい。普通に返事をしただけのつもりなのに、向こうはなんだか居心地悪そうにする。
まあここで突っ立っていても始まらないし、その時になればどうにかなるものだろう。悩むことを放棄して、教室に踏み入った。
柴田君はまだ来ていなかった。
柴田君は、結局朝のHRが始まる五分前くらいによく一緒に行動しているお友達とともに駆け込んできて、席に着いた。
早くに来ることはないが、これほどぎりぎりに来るのも珍しいなあ、と思いながら眺めていると、ばちっと視線が合った。直後、柴田君はあわあわと見るからに取り乱しつつ、私から視線をそらす。
……乙女か。
事件一つなく授業が進む。休憩時間の度にちらちらと向けられる視線があったが、私がそちらを向くとあわててそっぽ向いてしまう。窺うだけで寄ってはこないので、私もぼけーっと自分の席について時間が過ぎるのを待った。
まあこんなものか。
お昼休み。
うちの学校の昼食は給食ではなく、基本お弁当。そうでなければコンビニや購買で入手できるパンとかおにぎりとか。私はお弁当だ。
鞄の中からお弁当袋を引っ張り出し、お弁当を机の上に広げようと思ったその時、ぬっと影がかかった。顔を上げると、すぐそこに柴田君がいた。なにやら非常に困っている様子で視線が右往左往、口が金魚みたいにぱくぱくしている。その右手にはお弁当袋を提げている。
……なんとなく事態把握。待つべきか、と思っているうちに教室中の視線が集まってくる。かつてないほど居心地が悪い。待つという選択肢は放棄。
「一緒に食べる?」
「お、おう」
「じゃあ行こう」
「え……? えっ?」
戸惑っている様子の柴田君の背中を押す形で教室を出る。
「ま、前沢?」
「あんな注目浴びた状態でお昼食べたくない」
「……え? そんな注目されてた?」
柴田君は鈍感らしい。少し羨ましい。
教室を出て、連れ立って歩く。行き先は私が提案することになったので、必然的に私が少し前に出る形になった。
屋上前の踊り場に到着。屋上は立ち入り禁止なので、ここに用事のある生徒はいない。こうしてごはんを食べるのに使う人がいそうなものだけど、これが滅多にいないのだ。みんな教室でお友達なんかとわいわいがやがやしながら食べるのが好きらしい。だから、静かなところで食べたい気分の時は、ここに来たりする。
柴田君がきょろきょろと物珍しそうな動作で周辺を見る。仕草が小動物みたいだ。
私たちは一番上の段に腰をおろし、膝の上にお弁当を広げた。
私の膝の上のお弁当をじっと見て、柴田君が言う。
「ちっさ……」
別に私のお弁当箱が極端に小さいわけではない。女子の標準的なお弁当箱なんて、こんなものだろう。
柴田君のお弁当箱を見る。男子の標準的なお弁当箱サイズ。たしかにそれに比べたら、私のお弁当箱はちょっと不安になるくらい小さいのかもしれない。
「そんなんで足りんの?」
「男子ほど食べれるわけがない」
「そういうもんか?」
「そういうものだよ。だいたい、私が柴田君と同じ量食べてたら、すぐ太っちゃう」
「ふぅん……?」
色気づき始めた女の子たちほど気にしちゃいませんがね。でも肥満は病気の元だからね。痩せすぎもあまりよくない。ほどほどが一番だ。
私はしっかりと手を合わせて、柴田君はおざなりに「いただきます」を言って、もくもくと食事に集中する。
そういえば、誰かと一緒にお弁当を食べるのは、小学校卒業以来かもしれない。誰かと一緒に食べてるのに、会話がまったくないというのは初めての経験だ。私は別にいいのだが。
柴田君はどうかなあ、と思ってちらりと横を見る。一心不乱におかずを口の中に詰め込んでいた。……やっぱり居心地悪いのだろう。
だからと言って提供できる話題もないので、私もただもくもくとお弁当を食べ続けた。
結局無言のままお互いにお弁当箱を空にした。
「……戻ろうか」
「お、おう」
教室に戻る間も、無言だった。
その後も柴田君と特に会話をすることもなく。教室戻って囲まれることもなかった。……私は。柴田君はよく一緒にいるお友達を中心に囲まれていた。そんなにとっつきにくいのか、私。
放課後は、クラスメートたちからの控えめな注目を浴びつつ、土曜日と同じように一緒に帰ってみたりはした。が、やっぱり会話らしい会話はなくて。
こんな調子で一週間もつのかなあ。
そんなことを思いながら、土曜日と同じ交差点で、同じように数秒止まって、「また明日」をしたのだった。
♪ ♪ ♪
火曜日。
今日こそはギブアップを言い渡されるかと思ったが、そうでもなかった。というか、
「前沢ー、メシ食おーぜ」
……免疫でもできてきたのだろうか。
またクラスメートたちからの控えめな注目を浴びつつ教室を出て、屋上前の踊り場に向かう。柴田君も道を覚えたようで、今日は柴田君が前を行く。身長はあまり変わらないはずだが、柴田君の方が歩くのが速い。うっかりすると置いて行かれそうだ。
昨日と同じように並んで一番上の段に腰かけ、お弁当を食べ始める。やはり沈黙。こんなのでいいのかあ、と思いながらちらりと横の柴田君を窺う。
柴田君の視線は、私のお弁当にくぎ付けになっていた。
「……柴田君?」
「あ、いや、ごめん!」
「何か気になることでもあった?」
「えーっと……おいしそうだなーって……」
言われて自分のお弁当を改めて見た。その中から柴田君が好みそうなおかず――ミートボールを一つお箸でつまみ、掲げて見せる。
「実は私が作った」
「マジ!?」
「うっそぴょーん」
「……は?」
柴田君はぽかんとした顔で固まってしまった。
……はずしたか、な。反応がないとか、居たたまれなさマックスだ。
その、せっかくだからもうちょっと話をしやすい雰囲気作りを、だな……意識したつもりだったんだけど……。慣れないことはするものじゃない。
「……ぶっ」
ん?
「は、あはは! なん、なんだよ、それ!」
……柴田君、大笑いの巻。目じりに涙がたまってます。
「そんな、大真面目な顔してっ……ぴょーんって! ないだろ、ないって!」
「……ぴょーんぴょーん」
「ぶっふ! やめて、マジやめて! 腹筋壊れる!」
本気でおかしいらしい。涙目になって、顔を真っ赤にして、階段を手すりを叩いて。
どうやら私の発言は時間差でバカ受けしたらしい。よかった、迷った末に「ぴょーん」つけて。「うっそー」にするか悩んだのだ、二秒くらい。羞恥心? そんなもの大笑いする柴田君見てたら吹っ飛んだ。
それからしばらく、柴田君を襲う笑いの波は収まらなかった。収まったと思って私を振り向いたらまた思い出してしまって笑う、ということを三度ほど繰り返し、四度目にしてようやく本当に落ち着いたようだ。苦しそうに長い息を吐き出した。
「ごめん、すっげー笑った」
「なんで謝るの?」
「やー、だって、なんか失礼じゃね? 本人目の前にしてこんな馬鹿笑いって」
「いや、別に。むしろ笑ってもらえて万々歳」
「え?」
「土曜日も、月曜日も、息苦しそうだったから。笑いを取るために言った」
「……マジ?」
「マジ」
「あれ、計算?」
「滑ったかと思った。柴田君、反応ないから」
「それは、その……思わぬ衝撃がだな……」
「責めてるわけでも怒ってるわけでもない。結果オーライ」
まさかあんなに笑ってもらえるとは思わなかったが。恥を忍んで阿呆なセリフを言ってみた甲斐があったというものだ。
「柴田君が笑ってくれて、嬉しい」
「っ……そ、そっか……」
お、顔が赤くなった。照れているのか。
「さて、柴田君」
「な、なに!?」
持ち上げたままだったミートボールを柴田君の口に向ける。
「あーん」
「あー……んぐんぐ……ぐっ!?」
私の動作につられてか、素直に口を開けてミートボールを迎えた柴田君。ぱくんと口を閉じ、もぐもぐと幸せそうにミートボールを食べる。しかし飲み込んだ時点で、自分が相当恥ずかしい行動をしたことに気が付いたようだ。さっと顔を赤くして固まってしまった。
「一緒に食事をする彼氏彼女の定番」
「そ、そうだけど……」
一応そっちから付き合おうと言いだしたのに。まあいいけど。可愛いから。
「あ」
「え?」
「間接キス」
ちょん、とお箸の先を自分の唇につける。柴田君はさっきまで私が使っていたお箸からミートボールを食べたわけだし。お互い間接ちゅーしちゃったわけだ。柴田君の分は、別に意識したわけじゃない。私のはわざとだけど。
「~~~~っ!?」
首まで真っ赤にしてのけぞるように私から逃げる柴田君。その様子を間近で見た私が、今度は笑いをこらえられなくなる。
「ふっ……くっくっ」
「ま、前沢ぁ……」
「あは……ごめん、ごめん。にしても、柴田君、からかい甲斐ありすぎ」
「うぅ~……」
悔しそうに唸るが、それすら可愛くしか映らない。
「おいしかった? ミートボール」
「……ん」
「もう一個いる?」
「……いい!」
そう言って、柴田君は顔をそむけてお弁当のおかずをかきこみだした。顔は赤いままだ。
返答までタイムラグがあったのは、やっぱりちょっと食べたかったのかなあ。別に自分のお箸を使って食べていいのに。気がついてないんだろうなあ。お馬鹿だから。
そういうところも、可愛いなあ。
「前沢、帰ろーぜー!」
……お昼休みより元気になってませんか、柴田君。いや、元気なのはいいことだけど。元気だと柴田君の可愛さ二割り増しくらいになるから。ぴーんとたった犬耳とぱたぱた踊る犬しっぽが見える気がするよ。柴田君だし、柴ワンコだな。
「前沢はさ、もっと笑った方がいいと思うな」
通学路の上で唐突にそう言われ、私は思わずきょとんとしてしまった。
「なんで?」
「んー、なんつーかなあ……前沢ってクラスの中で笑ったことないだろ?」
「……そうだったか」
意識的に笑ったことはない。笑うのは無意識の行いだから、数えているわけもない。
「笑ってない時の前沢って、なんか怖いんだよな。不機嫌そうに見えるっつーか」
「へー」
「へー、って……もうちょっとなんかないのかよ」
「そう言われても。私はこれが地だから……」
「だから、笑った方がいいって。そしたら絶対友達増えるよ!」
「……面白くもないのに笑えない」
まったく笑っていないことはないと思う。授業中に先生が変なこと言ったとかで。しかし、そういう時に周囲まで見渡せる人はいないだろう。
「……面白ければ笑う?」
「面白くても嬉しくても楽しくても笑わない人間だったら、柴田君がお昼休みに見た笑った私はまぼろしということになるな」
「……前沢ってさー、回りくどいよな」
「そうかな」
そんなこんなを話しているうちに、交差点。
「んじゃな、また明日!」
「うん、また明日」
自宅へと針路を取って、ふと気付く。
今日は立ち止まらなかった。
♪ ♪ ♪
水曜日。
「おっはよー、前沢!」
なんと柴田君が先に教室に来ていて、足を踏み入れたばかりの私の挨拶をしてきたのだ。しかも大声。グラウンドまで聞こえてるのではないかと思うほどだ。窓閉まってるけど。
「おはよ……」
少し足が止まったが、なんとか立ち直って自分の席へと向かう。もちろん、挨拶へのお返事も忘れない。
柴田君はお友達から離れ、私の席までやってきた。
「前沢さ、漫画とか読む?」
「読むよ」
「少年漫画は?」
「……読んだことない」
「おっしゃ!」
何故か柴田君がガッツポーズ。それからすぐに、飾り気のない袋を押し付けられる。
「これ貸すよ! 俺のおすすめ! すっげー面白いんだ!」
「……どうも」
話の流れ的に、漫画なのだろう。それも少年漫画。袋の上から触った感じ、三冊くらい。
「それ最新刊が三十一巻なんだけどさ」
「ながっ……」
「だからちょっとずつな。読み終わったら言ってよ、続き持ってくるから」
「うん……」
受け取った袋を眺める。
どんな話だろうか。少年漫画だから、バトル物か。それともスポーツ物かな。恋愛よりは友情要素強めか、
「ひゃわ!?」
「お?」
突然、脇腹の辺りに違和感を覚えて咄嗟に飛び退く。
……なんか今、変な声出た。
反射的に、私の一番近くにいた柴田君を見る。柴田君は両手を緩く前に突き出すような姿勢で静止している。
「……な、なに……?」
「いや、くすぐったら笑うかなって」
昨日の帰り道のことを思い返せばその唐突な行動の理由は納得できるが、それを許容するかどうかはまったくの別問題だ。私は柴田君が貸してくれた漫画を盾のように体の正面に構え、じりじりと柴田君から距離を取る。
妙な緊迫感に若干戸惑っている様子の柴田君の横に、二つの人影。
「ほっほーう」
「どうやら前沢氏は脇腹が弱点のようだぞ、柴田」
「え? そうなの?」
柴田君のお友達ズがにやにや笑っている。
私は何も言っていないが。もう行動が物語ってるよね。知ってる。でも本当にだめなんだって。
理解したらしい、柴田君までにんまりと笑った。
……やな予感。逃げるが勝ちだ!
「あ、待て、前沢!」
「待てと言われて待つのは馬鹿だけだ!」
素早く駆けだし、教室を飛び出す。ここまでは問題ないが、
「まーてーっ!」
……後ろから追いかけてくる柴田君を振りきるのはさすがに難しい気がする。
それでも精一杯走った。漫画を持ったままだが知るか。とにかく走った。けど、運動神経抜群の柴田君から、凡人の私が逃げ切れるわけもなく。
「あっ!」
「つっかまーえた!」
「わぁ!?」
足がもつれて体勢が崩れた隙に捕獲されました。しかも柴田君は勢いを緩めもしなかったので、二人して前方に倒れてしまう。当然私が下敷きだ。腕でガードしたので顔をぶつけるという間抜けはしなかったが。でも痛い。というか、柴田君が腰に抱きつくような形になっているのだが。柴田君じゃなかったらセクハラで訴えるところだ。
なんて阿呆なことを冷静に考えようとするあたり、脳に酸素が足りていない気がする。
「あってててっ……ごめん、前沢! 大丈夫!?」
「……痛い……」
「ほんっとごめん!」
柴田君はぱっと起き上がり、私の上からどいた。
とても久しぶりに全力疾走なんてことをしてしまったので、朝っぱらから疲労困憊。なんてことをしてくれるんだ。
「立てる?」
「……無理」
「ええ!? どっか怪我した!?」
「……違う……息……」
「あ、息切れ?」
小さく頷く。それからすぐに、顔のすぐそばでぺたんと座りこむ気配がした。そして、頭をなでなでされる。
「前沢、体力ないなー」
世間一般的な女子は世間一般的な男子に比べて体力値が劣っているのは常識だ、とでも反論してやりたかったが、そんな体力も気力もない状態だ。私は大人しく黙りこむ。
それからしばらくじっと廊下に寝そべる形で呼吸を整えていたのだが、正常に戻りきるより先に、学校全体に電子的な鐘の音が鳴り響いた。
「あ……」
「HR……」
思わず呟くが、時すでに遅し。朝のHRは始まってしまった。今から教室に向かっても、遅刻確定だろう。
私と柴田君は顔も見合わせて、そろって噴出してしまった。
「そろそろ動ける?」
「それなりに」
「じゃあ移動しよう。このままここにいたら、そのうち見つかりそう」
「サボり?」
「いーじゃん、一時間くらい。言いわけはあいつらがしといてくれるよ」
あいつらというのは、柴田君のお友達ズのことだろう。私は少し考えた。五秒くらい。
まあいっか。
柴田君の手を借りて立ち上がり、どこに行こうかと迷うことなく二人で屋上を目指した。お昼休みのように階段に腰かけるのではなく、屋上へと繋がる閉ざされたドアに背中を預けるように座りこむ。手すりが私たちの姿を隠してくれる。
サボりなんて初めての体験だから、少し緊張する。心臓の音がいつもより大きく聞こえる。
「……ごめんな」
しばらくお互いに無言でぼーっとしていると、柴田君がささやくような声で言った。声が響かないようにとの配慮だろう。
「なにが?」
「嫌がってんのに、追っかけたりして」
「あー……」
確かにあれはまいった。本気で走って疲れたから、まだ一時間目すら始まってないのにもう家に帰りたいとか思ってしまう。
「……脇腹はだめ」
「そんなに弱いの?」
「本気で弱い」
「……そんなん言われるとうずうずしてくるんだけど」
「耐えて。じゃなきゃ本気で殴る。これで」
「げ、痛そう」
持ち上げたのは、教室からずっと持ったままだった、お借りした漫画の束。手で殴ると私も痛そうだが、これなら私の手は痛まない。どんなに力いっぱい殴っても、痛いのは殴られる方だけだ。
「それ、今読んじゃうってのもありだな」
「……いや、やめとく」
「なんで? サボりっつても何もないから暇じゃん」
「疲れた。眠い」
「……サーセン」
「悪いと思うなら肩ちょーだい」
「切り落とせってか!?」
「間違えた。肩貸して」
「……わざと? 今のわざと?」
「どっちだと思う?」
「……」
「で、貸すの、貸さないの」
「……俺の肩でよけりゃ、いくらでも」
「じゃあ遠慮なく」
こてん、と柴田君の左肩に頭を載せる。身長がそれほど変わらないのであまり楽ではないが。まあこれもオツキアイの醍醐味ということで。
「おやすみ」
言って、目を閉じる。視界を閉ざしたからと言ってすぐさま眠れるわけではない。しかし、この状態で起きっぱなしというのも精神的に辛い。寝たふり万歳。
静かな時間が流れる。
「……俺も寝よ」
ぽてん、と頭に何かが載った。それを確認することなく、私は寝たふりを続けた。
気がつくと結局マジ寝してた罠。
目が覚めてからそのことに気付き、慌てて腕時計を確認する。一時間目が終わるまであと十分。マジ寝と言ってもそう長い時間ではなかったらしい。よかった。
……首がちょっと痛い。しかし頭を動かせない。何かが載ってる。何かってそりゃ、柴田君の頭だろうが。
健やかな寝息がすぐ上から聞こえてくる。こっちは正真正銘マジ寝らしい。
むー、寝顔、見てみたいけどなあ。今動くと起しちゃいそうだなあ。
十秒ほどそうして迷い、もうしばらく待つことにした。
それから七分経過。そろそろと頭を動かすと、柴田君の体がぐらあっとこちらに向かって傾いてきた。慌てて支え、そうっとその体を降ろす。最終的に、柴田君の頭は私の膝の上に移動した。膝枕。これもありがちだ。
起きる気配がない。せっかくなので、寝顔拝見。あどけない顔だ。警戒心ゼロ。可愛いったら。
ふと、先ほど頭を撫でられたことを思い出したので、私もやり返してみることにする。おそるおそる、ゆっくり触れた柴田君の髪は、ぱっと見の印象ほど硬くはなかった。もちろん猫毛と言えるほど柔らかくもないのだが。ほどよい弾力のある感触がなかなか心地よい。
なんだか本当に彼氏と彼女みたいだ。おかしくなって、口の中だけで笑う。
そうしている内に、チャイムが鳴った。一時間目の終了だ。
「柴田君、柴田君」
「う……うーん……ふぁ……?」
「おはよう、柴田君」
「んー……おは、よ……? ……っ!?」
自分の状況に気付いて、眠気なにそれおいしいの状態で柴田君は飛び起きた。改めてこっちを振り向いた柴田君は、ちょっと可哀想になるくらいまっかっかだ。
「もうそろそろ一時間目終わるよ」
「あ、ああ、うん……さ、サンキュ……」
「いえいえ。私の膝枕は気持よかった?」
「~~~~っ!」
「……ぷっ」
「ま、前沢ぁ!」
「あっはっは、ごめんごめん。安心して、ほんの一、二分程度のことだから」
「……なんだ、そっか……」
「残念だった?」
「違う!」
ぷいと顔を逸らされてしまった。
寝てたのだから気持ちいいかどうかなんてわからないものだと、何故気づかないのか。
まあ、そんなところが可愛いからいいのだけど。
一時間目の終了を告げるチャイムを聞き終えてから、私たちは教室へと戻った。
戻った途端に教室中の注目を浴びてしまい、居心地の悪さに顔を顰めそうになったが、その前に柴田君のお友達から声がかけられた。
「前沢ー、逃げ切れなかったのかー?」
「柴田君から逃げ切れたら私の100M走のタイムはもっといいはずだ」
笑いを含ませたような声に、真剣に言い返す。
すると教室中がしーんとなり、直後どわっと笑いが爆発した。
「そりゃそーだ! 柴田うちのクラスで上位だもんな!」
「俺も柴田に追っかけられんのは嫌だな!」
「んで、二人揃ってボイコットしちゃったわけだけど、なにしてたわけ?」
「走り疲れたから寝てた」
「俺もー」
「色気ねえ!」
またどわっとクラス中が笑った。
……なんだろう、この状況。頭の中を「?」でいっぱいにしつつ自分の席に戻ると、前の席の子がイスに座ったまま振り向いていた。何故か笑顔。
「大変だったねー、前沢さん」
「……いや」
「一時間目、あとでノート見せてあげるね」
「……ありがとう、助かる」
「どういたしまして。そ・の・か・わ・りー、後で話、詳しく教えてよね!」
「え……」
「あ、私も聞きたーい」
「は?」
後ろからも声をかけられ、思わず振り返る。なんだかものすごく楽しそうな女子生徒諸君の視線が私に突き刺さっているような気がするのは、私の気のせいだろうか……。
「ほらほらー、もうすぐ二時間目始まるよ! 準備しろ!」
オトコ前と名高いクラス委員長(女子)が手をたたき、クラスメートたちを促す。それを受け、素直に次の授業の準備を始めるクラスメートたち。そんなみんなを横目に、委員長はぽん、と私の肩をたたいた。
「覚悟しといたほうがいいぞ、昼休み」
「は……?」
にやり、と片方だけ口の端を引き上げて笑ったその顔が、妙に印象的だった。
それから、休み時間の度に視線を向けられた。昨日からよく視線は向けられているが、ここまで露骨ではなかったと思う。
お昼休みになって、柴田君が私の机まで寄ってきて、前の席の子に声をかけた。
「ここ借りていい?」
「いいよー」
前の席の子は笑顔で場所を譲った。そのあと、何故か私まで笑いかけられた。
なんなんだ……?
というか、何故柴田君が私の前の席を陣取ってるんだ? 何故私の机の上にお弁当を広げ始めるんだ!?
「今日は教室な!」
ですよね。
逃げたい。と思いつつ、柴田君の輝くような笑顔に負けた。更に、朝の全力疾走の影響で疲労にプラスいつも以上に空腹感がある。屋上前まで向かうことが億劫に思えてきた。
あきらめて机の上にお弁当を広げる。それを柴田君が覗き込む。
「前沢の弁当っていつもうまそうだよなー」
「そうかな」
「そうだって! なんつーか、凝ってる!」
「ああ……お母さん、こういうの好きだから」
お弁当用の仕切りやらカップやら串やら。私が女子だからできることだ。男子だった場合、仕切りやカップくらいはあって当たり前かもしれないが、この可愛らしい串はさすがに使いづらいだろう。できて小学生までだ。
あとは、ご飯の上に海苔やそぼろを使って模様を描いたりも時々する。今日はそぼろでお花だ。やはりこれも、男子相手にはできないだろう。
「すげーな。うちの母さんなんて、弁当作るのめんどくさいっていつも言うんだ。こないだなんて日の丸弁当持たされた」
「……マジ?」
「マジ! この弁当箱いっぱいに白い飯詰め込んで、真ん中に梅干ぽつん」
「おかずゼロ?」
「なかったなー」
「それは、辛いな……」
「だろ? うちもさー、前沢んとこほどじゃなくていいけど、もーちょっとやる気出してほしいんだよな。おかずも、あってもあんまり変わり映えしないしさー」
「そうか。じゃあ今日はこのたこさんウィンナーを進呈しよう」
「……え?」
「……安心して。さすがにアレは教室じゃやらない」
「あ、そ、そっか! そうだよな! あー、一瞬ビビった」
濁すように笑う柴田君。顔が少し赤いのは、昨日のことをフラッシュバックでもしたのだろう。
さすがにこんな衆人環視の中で「あーん」はしない。私も恥ずかしい。
お箸で持ち上げたたこさんウィンナーを、柴田君のお弁当箱のふたの上に移動させる。
「サンキュ!」
「いえいえ」
もぐもぐとお弁当を食べ進め、お互いのお弁当箱が空になった頃、柴田君に声がかけられる。
「柴田ー、サッカーしようぜー!」
「おー! ……あ、や、えぇっと……」
元気よく返事をしたと思ったら、困ったように私と彼らを見比べる。何度も何度も行き来する視線に、小さく笑った。
「行ってきなよ」
「で、でも……」
「最近、私と一緒にいるからお友達とあんまり遊べてないじゃない。行ってきなよ」
「……行ってきます!」
「はいはい」
手を振られたので、振り返すことで送り出す。
いっちょまえに気遣っちゃってまあ。そんなに気にすることもないだろうに。まあ、そういう妙に素直なところも、彼の魅力なのだろう。
「まーえーさーわーさーん」
「……ん?」
呼びかけられ、振り向いて、少しだけ後悔。なんというか、好奇心に満ちた笑みを浮かべ視線を突き刺してくる女子生徒諸君が、じりじりと私との距離を詰めてくる。
今なら逃げられるのではないか。そう思って腰を浮かせたが、遅かった。別働隊により私は逃げ道を阻まれ、椅子に腰を押し付けられた。そのまま包囲されてしまう。
見事なチームプレーだ……。
「もー、前沢さんってば、興味なさそうな顔してやるじゃない!」
「へ……?」
「でも柴田とは意外だったなー。前沢さん落ち着いてるから、もっと大人なひとが似合うかなって思ったのに」
「は……?」
「そうかなー、柴田君といい感じだったじゃん」
「でも姉と弟みたいだったよ?」
「ははーん、朝のアレを見てないね、キミタチ。普段は冷静沈着を地で行くような前沢さんが、柴田君の行動で乙女のように取り乱したあの瞬間を!」
「えー! なにそれ見たかったー!」
誰が乙女だ。
……って、いやいや、待て待て。
「何の話」
「えー? だからー、前沢さんと柴田君! 付き合い始めたんでしょ?」
「……柴田君が言った?」
「柴田君も何も言ってなかったけど。でもわかるよー。今までほとんど話したことがないような二人が突然急接近なんだもん!」
……そうか。私たちの距離が表面上縮まった事実は、彼女らにはそういう風に見えているのか。女子は恋バナ大好きだなあ。……まさか自分がその餌食になる日が来るとは思わなかったぞ。
「ね、ね! いつから?」
「……こないだ。土曜日」
「どっちから?」
「……向こう」
「オッケーしたってことは、前沢さん、前から柴田君のこと……?」
「いや……可愛い、から?」
「おおーっと、前沢さんてば可愛いもの好きか! ショタコンか!」
「何故そうなる」
「少年趣味なんでしょ?」
「違うから」
「でも可愛いもの好きなんでしょ?」
「好きだけど。ショタコンは違うから」
「むふ、こだわるねー。これは怪しいですなあ」
……女の子コワイ。
「前沢、大丈夫か……?」
ぐったりと机に突っ伏す放課後。横までやってきた柴田君がしゃがみこんで声をかけてきた。
「やっぱ俺、一緒にいたほうがよかった?」
「……いや、多分いても同じだった」
あー、しょぼくれた表情にすら癒される。
しかし、女子のにやにやとした視線のせいで落ち着かん。
何故同い年の男子を可愛いって称した程度でショタコン扱いを受けねばならんのだ。あれ、ていうか私まだ中学生なんだから小学生が許容範囲でも倫理的には問題ない気がしてきた。中学一年生なんて小学生とそう変わらないじゃないか。そう考えるともうショタコンでもいい気がしてきたな……。
「あ、図書室に本返しに行かなきゃ」
「付き合うか?」
「いいよ、待ってて。すぐ戻るから」
鞄から先日図書室で借りた本を引っ張り出し、気持ち早足で教室を出る。
昨日今日でどえらい進歩じゃなかろうか。本を返しに行かなきゃとか、付き合おうかとか……待ってて、とか。一緒に帰ること前提だ。気負いも一切ない。私は元々あまりないが。柴田君の慣れのスピードは少し想定外だな。
「あ、前沢さん」
廊下で呼びとめられた。担任の先生だ。
「今日、朝のHRのみならず、一時間目までサボったわね?」
ばれてら。
うっすら口紅をひいたその口からお説教の言葉が出てくる前に逃げようかという考えが過ったが、実行に移す前に先生がからからと笑った。
「そんなに警戒しないで。お説教なんてしないから。楽しかった? 初ボイコット」
「……ちょっとドキドキしました」
「何してたの?」
「寝てました」
「……健康的ねー」
「朝っぱらから全力疾走して疲れてたので」
「ああ、聞いたわよ。柴田君と追いかけっこしたのよね」
「……なんで知ってるんですか」
「柴田君と追いかけっこした前沢さんが酸欠で倒れたので保健室へ急行、責任を感じた柴田君が付き添いって話だったわよ。虚実混ぜるっていうのは、なかなかうまい手だったと思うけど」
どうやら私と柴田君のサボりはそういうことになっていたらしい。確かに、酸欠辺りについてはあながち嘘でもない。しかしそれ、保健室の先生にも頭を下げて口裏合わせてもらないと、すぐにばれるって。実際ばれてますって。
まったく、理解のある先生でよかった。
ふいに、先生が声のトーンを少し落とした。
「ねえ、前沢さん。本当にいいの?」
「……私、もう行きますね」
「前沢さん」
「教室で人を待たせてるので。失礼します」
私は先生が具体的な内容を言いだす前に、先生に背中を向けて、歩き出した。追いかけてくる気配はない。
先生が言わんとしていたことはわかる。けど、今更だ。もう今更なのだ。
楽しいけど。本当に楽しいのだけど。
それは全部嘘で成り立っているのだと、私は知っているから。
図書室で本を返し、教室へ戻る。お友達と談笑中だった柴田君はそれを切り上げ、一緒に教室を出た。柴田君のお友達からはからかいの言葉を向けられたが、私たちは困ったような顔をするばかりだった。
「ほんとはさー……教室で、前沢が笑えば、みんなも前沢のこと怖いとか思わなくなると思ったんだ」
通学路の上。私の前を歩きながら、柴田君が言った。
「失敗しちゃったけどさ。でも、なんかよくわかんねーけど、みんな前沢と話してたし。結果オーライってやつだな!」
「……私は疲れた」
「そっか? 楽しくなかった?」
問われて、少し考える。十秒くらい。
「……ちょっとは、楽しかった。あんなにいろんな人と話したのは初めてかも」
「前沢、友達少ないもんな!」
確かに、否定はできないのだが。しかし笑顔でそれを断言するのはいかがなものかと。
「でも、これからは大丈夫! 前沢はいっぱい友達できる! 俺が保証する!」
「……なにゆえ」
「勘!」
「じゃあ当てにはならなさそう」
「ひでぇ!!」
大げさに傷ついたような顔をする柴田君に、笑ってしまう。
「あー……ほっぺ筋肉痛になりそう」
「え? ほっぺたって筋肉痛なんの?」
「なるかもよ? 筋肉だし」
「……ほっぺたって筋肉なの?」
「……人体、いや生物のお勉強をしようか、柴田君」
「うわー、やめて、俺勉強嫌い!」
「知ってる」
柴田君が両手で耳をふさぐ仕草をした。仕草だけで、音を遮断する役割はあまり果たしていないだろう。
「……前沢は成績いいんだよなー」
「それなりに」
「……前沢先生! 数学教えて! 明日当たるんだ!」
「その前にまず努力。答え合わせくらいは付き合うよ」
「ちぇーっ」
そんな馬鹿らしい話に花を咲かせていたら、いつの間にか分岐点だった。
昨日と違い、なんとなくお互い足が止まる。けれど、そこにある空気は、土曜日や月曜日とは、どこかが違っていた。
「……また明日」
「あ、うん……また明日」
私から手を振って、家路に着く。少し歩いてから、足を止めて振り返った。柴田君も自分の家に帰るための道を進んでいる。私には彼の背中だけが見える。遠ざかっていく。
だからどうということはないのだが。
♪ ♪ ♪
木曜日。
挨拶もそこそこに、柴田君はノートを手にして寄って来た。
「とりあえずやってみたからさ、合ってるか確認して!」
柴田君の努力の跡が残されたノートを確認し、溜息をつく。
「柴田君、小学生の算数をみっちりやりなおすべきだと思う」
「えぇ!? なんで!?」
「こことここ、掛け算の結果が間違ってる」
「……」
「九九、間違って覚えてない?」
「……あ、あれー?」
「あれー、じゃない」
「前沢さーん、これどうやって解くのー?」
振り向くと、女子生徒二名が数学の教科書とノートを持ってそこに立っていた。示された問題を読み、自分の教科書をめくって見せる。
「……この公式」
「あ、そっか」
「前沢ー、英語わかる? ここの訳なんだけどさ……」
は? 英語?
「あ、私も英語聞きたい! 教えてもらっていい?」
「いや、え……?」
便乗してくる生徒も数名。焦りのようなものを覚えつつも英語のノートを引っ張り出して質問に答えていく。
「何故私に聞く……?」
「えー、だって前沢さんの訳きれいって、先生前に褒めてたし」
そうだったか……?
困惑したままの私を柴田君がにやにやと眺めている。
「前沢教室開講って感じだな」
「……柴田君は九九を一から全部書き出して」
「……前沢、目が怖いよ」
私、からかうのは好きだけど、からかわれるのは好きじゃないらしい。
「……なんだか異様に疲れたぞ……」
夕焼けに包まれた通学路。
ため息を吐くように出たつぶやきを聞いた柴田君が、おかしそうに笑った。
「前沢って頭いーよな。俺の周り、みんな数学嫌いだから助かった!」
あんなのは公式とそれを使用する問題のタイプさえ把握していればどうにかなるものであって、頭がいいとかそういったことはないと思うだが。しかしそもそも九九からしてミスの乱発だった柴田君からしてみれば、確かに私は「頭がいい」部類になるのかもしれない。
「大変だったろうけどさ。人に頼ってもらえるのって、嬉しくない?」
そう言われて、少し考えた。十五秒くらい。
「……面倒くさい」
「えぇー?」
「でも、柴田君のあたりまでだったら、わからなくもなかった、かも」
付けくわえた内容に、柴田君がびっくりした様子で目を丸くした。それから、なんだか自分のことのように、嬉しそうに照れた。たったそれだけで疲れが吹っ飛びそうになる。
ふと、柴田君が足を止めた。それに気付いて私も足を止める。すると、柴田君はむっと不機嫌顔になった。
「なんで前沢まで止まるんだよ」
「いや、柴田君が止まったから」
どうしたのだろう。私がここで立ち止まったことが不満らしいので、柴田君の手前まで歩み出た。柴田君の不満顔はそれで少し薄らいだ。
それから、柴田君は無言で歩きだした。私もそれについていく。と、柴田君が歩くペースを落とし、私の隣に並ぶ。驚いて隣を見ると、柴田君はどこかバツの悪そうな顔をした。
「……姉貴がさ。女置いてさっさか歩く男は最低だって言ってたから」
なるほど、それでか。柴田君のお姉さんはそういう男とお付き合いしたことがあるのだろうか。というか、お姉さんがいるのか。初めて知った。
ゆっくり、私に合わせて隣を歩く柴田君の顔は、ほんのり赤くなっているように見えた。
先を行く柴田くんの背中を追いかけるのも嫌いではなかったが。確かに、それは置いて行かれるようで、少し寂しいのかもしれない。そして、横からぼんやり伝わってくるような気がする、柴田君の存在感、みたいなもの。
「うん、なるほど。同じペースで歩けるというのは、結構嬉しい」
「……そっか、そうだな!」
柴田君も嬉しそうだった。私はますます嬉しい気がして、表情が緩んだ気がする。
「そうだ。漫画、もう読み終わるから」
「お、じゃあ明日続き持ってくるな」
家に帰ってリビングに入ると、テーブルの上に見慣れないものが乗っていた。
「……お母さん、これどうしたの?」
「ああ、それね。ご近所さんにもらったものなんだけどねー。捨てるのももったいないし、誰かにあげようかなって。あ、侑花、学校のお友達にあげる?」
それは二枚のチケット。遊園地の割引券だ。
じっと眺めて、考える。
「……お母さん、お願いがあるんだけど」
♪ ♪ ♪
金曜日。
「前沢ー、おはよー!」
「おはよ、柴田君」
今日も今日とて朝一番に柴田君とご挨拶。ここのところ朝早いなあ。どうしたのだろうか。
席に着くと、柴田君がまたまたこちらに寄ってきた。そして、先日と同じような飾り気のない袋を差し出してくる。
「これ、続きな!」
「……ありがとう。こっち返すね」
「おう。どうだった? 面白かった?」
「うん」
「よかった!」
新たに渡された袋入りのコミックス。また三冊分。コミックス三冊くらい、本当は一日で読めてしまいそうではあるのが。しかしそれをしてしまうのは少し勿体無い気がして。ゆっくり、ゆっくり、何度か読み返して、ようやく次に進む。
今日は金曜日。明日は土曜日。……今日中に三冊とも読んで、明日返せばいいか。
「この辺も充分面白いんだけどさ、これ、巻が進むほど面白くなってくんだ。俺的には八巻九巻あたりがおすすめなんだけど、もうちょっと先だな」
「そうなんだ」
それは、少し残念だ。
お昼休み、私と柴田くんはまた教室でお弁当を食べた。一昨日からの流れで、なんとなく自然とそういうことになっていた。
一足先に食べ終わった柴田君は、今日もお友達と一緒にグラウンドへ出ていった。もう本格的に冬だというのに、よくやるものだと少し感心してしまう。
「うーん……やっぱり柴田君はちょっと子供っぽすぎない? 前沢さん」
「そうかな」
そして今、私は何故かクラスメートの女子と恋バナらしきものを繰り広げている。もちろん餌食にされているのは私だ。でなければ私がこの輪の中に加えられる理由がない。
「そうだよー! 今だって前沢さんほっぽってサッカーしに行っちゃうし! 曲がりなりにも彼氏ならもっと彼女を大事にすべきじゃない?」
「……そういうもの?」
力説されたが、どうにも釈然としない。首を傾げる私の背後から、ぬっとまた別の女子が顔を見せる。
「こらこら、個人的な価値観を押し付けるもんじゃないぞ」
「委員長……」
「それは君らの理想だろう。前沢さんと柴田君には、二人のやりようというものがある。型にはまるだけが全てではない」
「委員長、ばばくさーい」
「なんだとー」
……楽しそうなところ申し訳ないですが何故委員長までここにいるんですか。彼女の定位置は私の席から離れていた気がするのですが。
「前沢さんは、随分表情豊かになったな」
「え?」
「いつも、こーんな顔を、していたからな」
委員長が表情を固まらせた。……私はそんな顔をしているのか。
ふと、柴田君に「不機嫌そうに見える」と言われたことを思い出す。私が本当に委員長が見せたような表情を始終していたのなら、それは確かに近寄りがたいものだっただろう。
「……面白いことがあれば、ちゃんと笑ってるつもりだったけど」
「他者に見えていないのなら、意味がないな」
ばっさり切られた。まったく正論だ。
「柴田君と一緒にいるのは、楽しいかい?」
「……じゃなきゃ、一緒にはいない」
「今は? 一緒にいてほしいとは思わないのかい?」
「授業中でもないのに席に着いたままなんて、柴田君らしくないから」
「……なるほど、確かに」
委員長はきょとんとして、すぐに小さく笑った。女子生徒諸君からは「愛よ、愛!」などという甲高い声が上がった。
「……どうもな、私たちは前沢さんのことを勘違いしていたようだな」
「勘違い?」
「前沢さんは、『構われたくない』タイプの人かと思っていたんだ。ほら、漫画とかでもさ。クラスに仲の良い友人がいなくて、それを気にかけて声をかけたらつっけんどんな反応しかなくて。体中から『放っておいてくれ』オーラが出ているような人。私は、前沢さんはそういう人かと思っていた」
「あ、それわかるー。触るな危険、みたいな? 私は人嫌いなんだと思ってた」
クラスメートからすると、私はそういう風に見えていたらしい。なかなか面白い発見だ。
「あと、難しいことばーっかり考えてるのかと思った。政治についてとかー、海外との交易についてとかー」
「そんな中学生、私も嫌だ」
簡潔すぎるくらいの私の反応に、委員長が苦笑した。
「その反応からも、勘違いだったとよくわかるな」
「そう?」
「ああ。前沢さんは『構われたくない人』んじゃない。『頓着していない人』なんじゃないか?」
む、それは結構当たっている気がする。
「話しかけられれば応対するが、嫌われたところで特には気にしない」
「多少ショックは受けると思う」
「けど、関係修復のための行動は取らないだろう?」
「そうかも」
「えぇー! うそ、なんで!?」
「面倒。嫌いなら嫌いでいいと思う。万人に好かれるなんて、そもそも無理な話だし」
「うー……信じられなーい。嫌われるの辛いじゃん! みんな笑顔がいいじゃん!」
前の席の彼女はなかなか平和的思考回路の持ち主らしい。そんな無茶な、と私は思うが、まあそれも彼女の自由だ。
「やっぱりな。あと、言葉というか、話し方がだな……結構端的かつ淡々としているだろう? 勇気を持って話しかけても、つっけんどんに対応されたと思い、二度目をしり込みしてしまうんだ」
「はあ、なるほど」
「……本当にわかってる?」
「なんとなく」
「……なんというか、前沢さんは、あれだな、『ぬかに釘』みたいな人だな」
「ぬか漬けは好き」
「聞いてないぞ」
「知ってる」
私たちは顔を見合わせて、なんだか妙におかしく思えて、ほぼ同時に笑いだしてしまった。私の笑い声の方が明らかに小さかったが。
「前沢さんは私や他のクラスメートに比べて、感情の波が低いのかな。私たちなら大笑いするところでも、前沢さんはちょこっと笑う程度。ツボが違うとかではなく、表面に出すためのハードルが高いような気がするな」
「……そうかも」
それは考えたことがなかったなあ。しかし、言われてみるとその通りかもしれない、という気がしてくる。委員長マジック。周囲にいた女子も「委員長かしこーい!」と感心した声を上げている。賢いというよりも、素晴らしい観察眼だ。
「柴田君に感謝だな。あいつが前沢さんと付き合わなければ、私たちはみんな、今も前沢さんの人柄を誤解したままだった。それでも、今日までの時間が悔やまれるな。もうあと数カ月でクラス替えだなんて」
「でもクラス四つしかないんだから、全員バラバラってことはないと思うよー」
「それもそうか」
賑やかな教室。賑やかなみんな。それを眺めながら、思う。
確かに、もったいないことだったのかもしれない。そう思う私がいる。
けれど、これでよかったのだと、そう思う私もいる。別にクラスメートたちに悪意はない。自分の心の安寧のため、ただそれだけだ。
何が良くて、何が悪かったのか。最近は本当に色々ありすぎて、判断がつかなくなってしまった。
放課後、柴田君と一緒に帰るのもすっかり定番扱いになってしまった。軽いひやかしはあれど、誰も私たちを否定的には見ない。
柴田君は私の歩調に合わせてゆっくり歩く。お姉さんの発言は効果覿面らしい。
「あー、やっと金曜日! 明日終わったら休み!」
「一日半だけどね」
明日は、土曜日。明日で……。
「柴田君」
「ん?」
「日曜日、何か予定ある?」
「ん? ないよ」
私は鞄から二枚のチケットを出して見せる。
「遊園地、の割引券?」
「お母さんにもらったの。日曜日、空いてるなら行こう。それとも、遊園地は嫌い?」
「そんなことない!」
「じゃあ行こう。日曜日、十時、駅の改札前でいい?」
「おう!」
簡単に待ち合わせを決めて、チケットは私が預かっておくことになった。柴田君いわく、自分が持っていると当日忘れそうだから、だそうだ。
「前沢、だいぶ女子としゃべるようになったよな」
「……向こうが寄ってくるだけ」
「でも、なんか委員長とは気が合ってるみたいじゃん」
「委員長は性格がさばさばしてて、話しやすい」
「よかったなー! 友達、増えたな!」
「……柴田君のおかげ」
「俺?」
「柴田君がいると、不機嫌顔が崩れやすくなるみたい」
「……あの、もしかして何気に根に持ってる?」
「全然?」
「疑問形だよな今の!?」
別に、本当に根に持っているわけでも怒っているわけでもない。柴田君はからかった時の反応が楽しい。
「冗談冗談」
「……前沢ってさー、基本真面目そうな顔してるから、どこまで冗談なのかわかりづらい」
「仕様です」
「マジでか!?」
「マジです」
これは本当に。冗談抜きで。
顔は生まれつきだし、表情があまり動かないのも昔からだ。赤ちゃんの頃から、感情の起伏というものが表情に出ることは少なかったらしい。
「柴田君はころころ表情が変わるね」
「そっかー? 普通じゃね?」
「可愛い」
「……は?」
「あれ、口に出た?」
「……なんか、『可愛い』とか聞こえたんだけど?」
「うん」
「何が?」
「柴田君」
「何の冗談!?」
「100パー本気」
「性質悪い!」
柴田君が頭を抱えた。
「……それ男にとっては褒め言葉違うぞ」
「知ってる」
「やっぱ性質悪い!」
怒っている、らしいが。あまり怖くないのは、じゃれあいの域を出ていないからだろうか。
「そうやって拒絶するところも可愛い」
「……視力は大丈夫か、前沢」
「そろそろメガネが必要かな」
「……」
「うっそー」
「だよな!」
なんだか妙に楽しく思えて、私はまた笑う。柴田君が呆れたように溜息をついた。
「……楽しいか?」
「うん、かなり」
答えると、柴田君は複雑そうな顔をして、また溜息をついた。
「みんなの前では言うなよ、可愛いとか」
「…………」
「……なんで黙っちゃうの?」
「いやいや、気にしないで。深い意味はないから」
もう言っちゃったんだよね、と。こそっと口の中で呟いた。
♪ ♪ ♪
土曜日。
半日の授業を終えて、帰り支度をする。
「前沢ー、帰ろうぜー」
「前沢さん、また来週ー」
「うん。それじゃあ……」
周囲の席の子に軽く挨拶をし、柴田君と一緒に教室を出る。
「あ、そうだ。漫画、返すね」
「え!? はや!? なに、面白くなかった!?」
「逆。面白くて先に先にって読み進めちゃっただけ」
「あ、なんだ……よかったー。でも、今日続き持って来てねーしなあ。あ、明日持って行こうか?」
どう返答すべきか、少しだけ考えた。一秒くらい。
「……それもありだけど……重いよね。身動きとりづらくなりそう」
「それもそっか。じゃあ、月曜な!」
あっさり引いた柴田君に、気付かれないよう小さく息を吐き出した。
「ああ、前沢さん! よかった、間に合って」
昇降口のところで、先生がぱたぱたと駆け寄ってきた。
「これ、プレゼント」
「え……」
「もらって。ね?」
右手を取られ、そこにきゅっと小さなの何かを渡される。包装用の紙で作られた小さな袋なので、中身はわからない。困惑して見上げると、優しく微笑む先生の顔。
どうしたものかと五秒ほど悩んで、まあいっか、と自分の意思でそれを握り締めた。
「ありがとうございます」
「……それじゃあ」
先生は、私と柴田君に手を振って、昇降口を離れた。きっと職員室に戻るのだろう。
私の手元を、柴田君が脇から覗き込む。
「なに?」
「さあ?」
「前沢、今日誕生日かなんか?」
「違うよ」
「じゃあ、なんで?」
「さあ?」
もらったものを鞄の中にしまい、柴田君を振りかえる。
「さ、帰ろう」
「気になるなー」
ぶつぶつと呟く柴田君を促し、自分も上履きから運動靴に履き替える。上履きは持って来ていた布袋に入れ、鞄に詰め込む。
そのまま、職員室がある方向を見つめて、口の中で感謝の言葉を紡ぐ。
「前沢ー?」
「……はーい」
私と柴田君は、並んで学校を後にした。
家に帰ってから、先生にもらったプレゼントを開けてみた。
シンプルだけれど少し可愛い感じの、二本セットのヘアピンだった。
♪ ♪ ♪
日曜日。
身だしなみを整えて、忘れ物がないかをチェック。最後に、鏡の前に立って、昨日先生からもらったヘアピンを髪の毛にセット。……似合う、だろうか。こういうおしゃれ用のヘアピンは、したことがないからよくわからない。
お父さんに駅前まで送ってもらう。徒歩では少し遠い。普段なら自転車を使うのだが、残念ながら現在は使えない状態だ。
改札前の壁にもたれて待つこと数分、私服姿の柴田君が駆け寄ってきた。柴田君とは出身の小学校が違うので、私服姿はお互い初めて見たことになる。
「悪い、ちょっと遅くなった!」
「気にしてない。おはよう、柴田君」
「はよ、前沢」
「じゃあ行こうか」
「おう」
切符を購入し、改札を抜け、ホームに出て電車に乗りこんだ。
ふと、じっとこちらを見ている柴田君に気付く。
「なに?」
「いや……前沢が髪いじってんの、珍しいかな、と思って」
「ああ。まあヘアピンだけだけど」
「そんでも、結構イメージ変わるな」
「似合う?」
尋ねてみると、柴田君は困った様子で顔をしかめ、首を軽く傾けた。
「……よくわかんね。変ってことはないと思うけど」
「ありがとう」
地元の駅から電車で十五分。目的地である遊園地はそこにある。休日ではあるが、もう随分外気が冷え込んでいるせいか、来場客は思ったほど多くない。これなら存分に遊べそうだ。
母からもらったチケットは、フリーパス券の割引チケットだ。私たちはお金を払って受け取ったフリーパスチケットを身につける。
「何から行こうか」
「ジェットコースター!」
パンフレットの地図を片手に、ジェットコースターへと向かう。
「こういう絶叫系、ダメなやつとかいるけど、前沢は平気なのか?」
「わからない。乗ったことないから」
「マジで!? もったいねー! よし、今日はとことん行くぞ!」
「お手柔らかに」
数分後、真っ青な顔をしてベンチに座りこむ私の姿があった。
「だ、大丈夫か……?」
「……大丈夫じゃない」
「ですよねー……」
ジェットコースターは、私には合わなかったらしい。残念。
「……内蔵引っくり返るかと思った。寒いから耳痛いし」
「でも、風切り裂く感じで気持ちよくね?」
「通常味わえない感覚であることは認める。でももう絶叫系パス」
「えぇー!?」
不満の悲鳴を上げる柴田君。
「そんなこと言うなって! ほら、あれとかはもうちょっと軽いからさ! な、行こうぜ!」
「えぇー……」
柴田君は私の抗議の声をきれいに無視し、私を次なるアトラクションへと引っ張って行った。
その数分後、やっぱり真っ青な顔でベンチに座り込む私の姿があり、その傍らで柴田君がひたすら謝っていた。
「やっぱり絶叫系はなし」
「……はい」
柴田君が未練たらたらの顔で頷いた。合わせてあげられなくて申し訳ないなあと思いながら、パンフレットを開いて周辺情報を確認する。
「ここから一番近い絶叫系以外のアトラクションは……ホラーハウスか」
「いっ!?」
過剰反応を示した柴田君を振り返った。柴田君はふいと私から目をそらす。顔色が悪そうに見えるのは、寒いせいだろうか。それとも。
「……よし、ここ行こうか」
「いいいいいやいやいや! 冬にお化け屋敷って、季節外れじゃん!」
「別にお化け屋敷なんていつ行ってもいいじゃないか」
「いやでも、やっぱなんつーか、おばけって夏の風物詩って感じじゃん!?」
「それは偏見じゃない? おばけは出現する季節を選ばない。さあ行こう」
「待ってー!!」
……数分後。今度は柴田君が真っ青な顔をして私の上着のそでをがっしりと掴んでいた。
「やだ、もーやだ! 前沢なんで平気なんだよ!?」
「あんなの、作りものじゃない」
「作りものでもびっくりくらいするだろ!?」
「むしろ柴田君の悲鳴にびっくりした」
「わーっ!」
報復成功。どうやら柴田君はホラーものが完全にダメらしい。
その後も、休み休みいくつかのアトラクションをめぐり、気付けば十二時を回っていた。
「どっか入ってメシにするか」
「それですが」
「ん?」
振り向いた柴田君に強調するように、下げていた鞄を胸のあたりまで持ち上げる。
「ここに二人分のお弁当が入っていたりして」
「マジで!?」
というわけで、私たちはフードコートに向かった。もうちょっと暖かければ、そこらでビニールシートでも敷いてピクニック気分でお昼ご飯、とかできたのだろうが。さすがに冬にそれはない。
フードコートのテーブルとイス二人分を確保し、鞄から取り出したお弁当箱を並べる。
「これはおにぎり。しゃけと梅と焼きたらこ。好きなの食べていいよ。こっちはおかず」
「おおー!」
おにぎりはとりあえず三種類二つずつ用意してきた。おかずは、まあ色々。二人分のお箸を出して、一組を柴田君に渡す。
「どうぞ、召し上がれ」
「いただきまーす!」
柴田君が元気よくおにぎりを食べ始める。それに数秒遅れて、私もおにぎりに手を伸ばす。柴田君が選んだおにぎりは焼きたらこ、私は梅だ。
「梅ってさ、すっぱすぎねえ?」
「そうかな。柴田君はたらこ好き?」
「おう。でもさ、おにぎりって塩だけのやつが一番うまいと思うんだ」
「ああ、それはわかる気がする。シンプルでいいよね」
「な!」
おにぎりを一つ食べたあと、柴田君のお箸がおかずに――ミートボールに伸びる。大きく口を開けて、それを放り込み、もぐもぐとかみしめる。幸せそうだ。
「……おいしい?」
「おう!」
それはそれは。
「早起きした甲斐があった」
「……へっ?」
柴田君がきょとんとした。
「自分が作ったものをおいしそうに食べてくれる相手がいるのは、なかなかいいな。癖になりそう」
「え、あれ、じゃあこの弁当……」
「お母さんに教えてもらいながら、私が作った」
「えぇー!?」
「そんなに驚くこと?」
「や、だって、これかなり立派な弁当じゃん!」
「だから、お母さんに教えてもらいながら、だよ。ちゃんとお母さんに味見もしてもらったし」
さすがに一人でこれを作り上げるスキルはない。作るものだけ考えて、あとはお母さんに横についてもらったりしながら作り上げた。全部朝用意するのは大変なので、昨晩のうちに作って置いたものもある。ミートボールは昨晩のうちに肉だんごを用意し、今朝ソースと絡めたのだ。
「……大変だったんじゃね?」
「それなりに。でも楽しかったよ」
「……そっか」
それから、柴田君は食べるスピードを落とした。意欲がなくなったのかとも思ったが、どうやらそうでもないらしい。ゆっくり、いつもより味わうようにおかずを咀嚼していく。
「ごちそうさま! すっげーうまかった!」
「おそまつさま」
お弁当箱を空っぽにした柴田君は、とても満足そうに見えた。
その後もいくつかのアトラクションで遊び、あっという間に十五時を通り過ぎていた。
これを最後にしようと、私たちは観覧車に乗り込んだ。
ゆっくり、ゆっくり、地上から離れていく。二人だけの空間。冬の冷たい空気は内部にまで浸透していて、コートを着込んでいても少し寒いくらいだった。
窓の外を見る。小さな密室の中から、私たちは街を見下ろした。さすがに、学校が見えたりはしないけれど。夕焼けに染まる街の姿は、なんだか胸につんとくるものがあった。
「……ここの観覧車、カップルが乗ると破局するんだって」
「は!?」
「うっそぴょーん」
ごん、と鈍い音が密室に響く。柴田君が頭をガラスにぶつけた音だ。
「……前沢ぁ~」
「そんなに動揺するとは」
「するわ!」
「ごめんごめん」
怒ったふりをして笑う柴田君に、私も声を出して笑う。
笑った。楽しいから。
楽しいんだ。
それでも、
――終わるんだ。
「……柴田君。そっち行っていいかな?」
「いいけど……」
柴田君を許可を得て、柴田君の隣に腰をおろす。ぴったりと。肩と肩が触れ合うくらい、近く。
緊張しているのか、動きが強張っている柴田君の手を、自分の手で取る。
「ま、前沢……?」
「はい、恋人繋ぎー」
「ぶっ」
交互に絡み合った指を見せつけると、柴田君は慌てた様子で顔をそらした。耳が赤いのは、絶対、夕焼けだけのせいじゃない。
すぐそこにある柴田君の頬に、キスを一つプレゼントしようか、少し考えた。一分くらい。
でも、やめておいた。この状態でそんなことしたら、柴田君の頭、沸騰してしまいそうだ。
観覧車を降りるときに、繋いだ手は解いた。手に残る柴田君の手のあたたかさが逃げてしまうのがなんだか惜しい気がしたけれど、どうしようもないことだ。
「あー、遊んだなあ」
「そうだね」
遊園地を出て、足を止める。柴田君が数歩先を行く。遠くなる背中を眺める。
ふと、隣にいない私に気付いたのだろう、柴田君がこちらを振り返った。
「とうした? 前沢」
あどけない顔が問いかける。
「柴田君」
「ん?」
「お別れしよう」
柴田君が固まった。……ように見えた。
「え……?」
彼の口がわずかに開いて、零れた音は疑問を表すものだった。声は少し、震えているようだ。
「元々、君のことが好きだからという理由で了承したわけじゃないんだ。ごめん」
そう告げると、柴田君はなんだかとても傷ついたような顔をした。罪悪感はある。謝罪の言葉はだからこそ自然に出てきた。
「けど、お互い様だよ。柴田君も、私が好きだからという理由でお付き合いを申し込んだわけじゃないよね」
柴田君は、今度は信じられないと言いたげに眼を丸くした。それは「気づかれていた」ということに対する驚愕なのだろう。
「あの日、教室には私たち以外にもいたよね。教卓の中かな。鞄、柴田君の分を合わせて三人分残ってたし。罰ゲームかなにかだったのかな。放課後、教室にやってきた相手にお付き合いを申し込む。私はてっきり、了承した瞬間に笑い者にされるかと思ったんだけど……断られることを前提としていたのかな」
「……っ」
柴田君が何かを言おうとして、そのまま口を閉じた。何も言わないのは、事実だからか。
私には彼を責める理由はない。怒る理由もない。それは、柴田君にも言える。罰ゲームで告白して、予想外にお付き合いすることになってしまっただけ。私が別れを切り出したところで、文句を言う権利など、彼にはない。
柴田君は俯いてしまっている。両手は固く拳を握り、小刻みに震えていた。彼の心中は私にはわからない。それでも、今、彼が傷ついているのだろうということはわかる。それがどういった傷なのかまではわからないが。
「けど、まあ、楽しかったよ。柴田君も、少しでも楽しいと思ってくれたんなら、嬉しい」
ぴくり、と柴田君の肩が跳ねた。
私は、記憶にあるかぎり初めて、意識して笑みをつくろうとした。
「さようなら、柴田君」
柴田君を置いていくように離れて、駅へと歩いて行く。けれど、改札には向かわない。用があるのは、駅前の小さな喫茶店。中に入って、待ち合わせ相手の元へ行く。
「お待たせ」
「いいのよ。お父さんと喫茶店でのんびりするなんて、何年ぶりかしらねえ」
「そうだな、母さん」
お父さんとお母さんが陣取っていた四人席の傍らに立つと、お母さんの隣の席をすすめられた。
「侑花も何か飲む?」
「ううん。いい」
「でも、疲れたでしょう?」
「大丈夫」
ふと、お母さんとお父さんの顔が、少し陰った。
「……お友達と、お別れできた?」
「……うん」
「じゃあ、行こうか」
「うん」
喫茶店のお会計を済ませ、駐車場に停めてあった車に乗り込む。
きっと、私がこの土地に足を踏み入れることはもうないだろう。
引っ越しをすることは、結構前から決まっていた。時期が少し中途半端だが、そういうこともあるだろう。
クラス中に知れ渡り、お別れ会なんて話になると面倒だと思い、先生にお願いしてクラスのみんなには黙っていてもらった。
こんな風にこの日を迎えるなんて、想像したこともなかった。
笑われても、嫌われても良かった。けど、どうせだから楽しく過ごしたいと思った。
……そう思った時点で、手遅れだったのかもしれない。
じわじわと、頬を涙が伝った。泣き叫ぶほどの衝動はない。けれど、どうしようもなく空虚だ。私の手に移っていたはずの柴田君の温度は、すっかり溶けて消えてしまっていた。
そういえば、彼氏彼女らしいことは色々したくせに、「好きです」のたった一言は、最後まで言えなかった。
♪ ♪ ♪
私は柴田君に恋をしていたのだろうか。
ぶっちゃけた話、よくわからない。その時はそんな気がしていたのだが、少し時間を置いて冷静になるとわからなくなってしまった。気持ちが盛り上がっていたとか、そういう気もしてくる。
それでも一つ言えることは。
私は、柴田友樹が好きだったのだ。恋かどうかはさておき。でなければ一緒にいて楽しいと思うことはなかっただろう。
最後はやっぱり悲しかった。どうして引っ越しのことを、嘘から生まれた関係でも一緒に過ごせて嬉しかったということを、素直に伝えられなかったのか。時々思い返しては後悔しているけれど。
それはそういう思い出として、大事にしておこう、と思う。
♪ ♪ ♪
あれから二年と少しが過ぎた。
中学一年生だった私は、今日から高校生だ。
身長は五センチほど伸びた。胸も少し大きくなった。髪を少し伸ばすようになった。先生に貰ったヘアピンは、今もよく使っている。
これから通う高校は、電車で三十分、そこから徒歩で十五分ほどかかる私立の学校だ。当初は家からさほど遠くない公立高校を狙っていたのだが……。
「あー、ゆーか! おっそーい!」
教室に踏み入った直後、甲高く甘え上手さを感じさせる声が耳に飛び込み、振り向くと見慣れた顔がこちらへ駆けてくるところだった。
「おっはよー、ゆーか!」
「うん、おはよ、にーな」
にーな――高橋仁菜は私の右腕を自分の腕で絡みとり、まるで恋人同士がそうして歩くようにひっついてくる。振り払うなんて無駄な抵抗はしない。害があるわけでもないし。にーなもちゃんとわきまえていて、誰彼構わずこうするわけでもないし。
ちなみに、彼女の名前の読みは「にな」なのだが、本人が「にーなって呼んで!」とうるさい上に呼ばないとむくれてしまうため、彼女の周辺は「にーな」と呼ぶ方針で固まっている。
ふわふわと風に泳ぐような長いやわらかそうな髪の毛、愛らしい容貌、スリムながらも女性らしさのある体型。そんなにーなは、何故か私に懐いてしまった。私もなんだか気がついたらほだされていた、という感じだ。
このにーなが、この学校を一緒に受験しようと言ったのだ。
何故わざわざ県外なのかと問えば、「小学校も中学校も地元だったもん! 地元飽きた!」とのこと。私がその地元に二年くらいしかいなかったことは思考の埒外らしい。
もともとそこまで公立にこだわってもいなかったので、親と相談してここを第一志望ということにしたのだ。
「あのねー、あのねー! にーな、またお友達できたのよー! すっごいイケメン君! にーなときめいちゃう!」
にーなはだいたいこんなノリだ。本人美少女、イケメン好き。まあ、個人の趣向はそれぞれなんだからとやかく言うつもりはない。
……ない、が。
「……いっつも思うんだけど。彼女これでいいの、西脇君」
「うーん、惚れた弱みかなあ」
にーなの後ろを、背後霊のようにくっついて来ていた男子、西脇裕介君。彼こそがこのイケメン大好き美少女の彼氏殿である。ちなみににーなの幼馴染みでもある。
穏やかに笑ったその表情、物腰柔らかな喋り方。顔立ちも全体のバランスも私からしてみれば充分整っており、世間一般的にも充分かっこいい男子に類されると思うのだが。そんな彼氏がいても、イケメンを見ると無警戒で近づき騒いでしまう。これはもう一種の習性かもしれない。
「ユースケは別だよぉ。特別なんだもん!」
「うん、ありがとう、にーな」
「えへへー! ユースケ、大好き!」
にーなが私から離れて西脇君に抱きつく。西脇君もにーなを抱きしめ返す。
ここ、これからお世話になる新しい環境のまっただ中なんですけど。呆れしか含んでいない視線を西脇君に向けると、西脇君はにーっこりと微笑みでお返事くださった。訳、そんなの知ったこっちゃない。
「また一年、にーなともどもよろしくな、前沢」
「こちらこそよろしく。このクラス、あとは甲斐君も一緒だっけ」
「そう。あとはクラス別れちゃった」
甲斐君もにーなの、そして西脇君の幼馴染みだ。
ぐるっと教室を見回す。甲斐君は同年代の中に入ると頭が一個飛び出しているので見つけやすい。座ってるとあまり関係ないが。
窓際の席を陣取って、誰かと話しているようだったが、こちらに気付いてひらひらと手を振った。
余談だが、甲斐君も西脇君同様、その外見は並以上。にーなの幼馴染みはもう二人いるが、その二人も同様。世の中どうなっているんだと、知り合った頃は真剣に考えてしまったものだ。
荷物を席に置くと、にーなに腕をぐいぐい引っ張られる。
「はやくはやくー!」
「……はいはい」
この物怖じしない性格も、嫌いじゃない。が、その強引さはもうちょっとどうにかならんものかと時々思う。腕が痛いよにーな。言ってもすぐ忘れるから言わないけど。
「じゃっじゃーん! ゆーかちゃんでーす!」
新しいお友達とやらの前に引き出され、顔を上げる。
……心臓が止まるかと思った。
私は目を丸くした。相手も立ち上がり目を丸くした。だからきっと向こうを気付いているのだろう。
私よりずっと高い身長。全体的に骨ばり、シャープな印象を与える輪郭。ああ、確かにイケメン君だな。にーながテンション高いのもわかる気がする。これはもう西脇君や甲斐君とはなんというか、レベルが違う。
いやあ、育つものだなあ。さすが男の子。成長期恐るべし。
……じゃ、ないだろ。
「ま、前沢……?」
「し、柴田君……?」
嘘と嘘で始まって、終わってしまったはずの一つの思い出。
ここから、嘘じゃない、私たちの本当のお話が始まる――
かもしれない。
(2012/01/01)