第5話 選択
02 リデルの選択
* * *
異変に気づいたらしく、姫の自室に踏み込んできたローザさんも侍女の方々も、そこで展開されている現実に驚き、嘆き悲しまれたが、私ほど泣いてはいらっしゃらなかった。涙の量で悲しみの大きさを量ろうなんて愚かなことはしないが、私は私の悲しみだけで手一杯で、次になにをすべきか、頭にはひとつも浮かんでこなかった。
私は周囲に促されて姫の部屋を退室した。その際に、カイルのプレートタグはローザさんに渡してきた。できるなら、姫と一緒に……。そう頼むと、涙を流しならもしっかり頷いてくれた。それでひとまず、私がしなくてはならない用事は片付いた。
ふらふらとした足取りで繁華街の自宅に戻った。やはりなにをする気にもなれず、私は自室でベッドに腰かけてぼんやりしていた。現実がどこか遠かった。
しかし不思議なもので、時間が経過するほどに徐々に現実感が舞い戻ってきて、喉が締め付けられるような苦しみを思い出させる。
なにが魔術師だ。なにが天才だ。どれほど特別だともてはやされたとしても、そんな言葉に意味はない。
私はカイルを守れなかった。姫を救えなかった。この事態を止められなかった。
――私は、無力だ。
ふと、視線がサイドテーブルの上に固定された。正確には、その上に置いてある、小さなクリスタルが入っている二つの小瓶に。
それがなんなのかを考え、推測し、私は途方にくれた。
これは、姫とカイルの魂だ。
証拠を見せろ、と言われると困ってしまうのだが、これは二人の魂だ。私はそう確信している。
一つからは最近馴染んでいたカイルの魔力を、そして私が分け与えた《風》の魔力を感じられる。どうやらカイルに渡した魔力は、そのままカイルの魂に溶け込んでしまったらしい。こうなってしまっては、もう私に戻ることはないだろう。失くして惜しいほどのものでもないので、別に構わないが。
もう一つからは、なにも感じない。だからこそ、それは姫の魂に違いないと思った。姫には魔力がない。私が感じ取れるものがないのだ。それは確証にはつながらないかもしれないが、あの場所での出来事なのだから、やはり姫の魂に違いないと思う。
魂を捕らえる魔術があることは知っていた。知ってはいたが、試したことはなかった。そもそも使い道が思い浮かばなかった。他者の魂を捕らえてどうするのか、ということを考えた時に真っ先に浮かぶのは、王族にまつわる伝説だ。王族の魂を食べれば寿命が百年延びるとか、その特殊能力を手に入れられるとかいう、あれだ。そんなことに興味はなかったので、試そうなどと考えたこともなかった。
ではなぜ私はこんなことをしてしまったのか。
私にも、その答えはわからない。完全に無意識に行ったことで、自分が呪文を唱えたのかどうかすら、よく思い出せない。そもそも既存の呪文を知っているわけではなかったのだ。魂を捕獲する魔術の存在は知っていたが、それについて記された書籍は図書館にも保管されていない。どこかにひっそり残っているかもしれないが、基本的には法で禁止された時点で書物は処分されたのだろう。
「……まったく。魂だけになってなお、姫を守ろうというのですか」
私が今回行使した術は、その場に存在する魂を結晶化し、瓶に詰めるものらしい。当然、瓶も魔術により作り出されたものだ。姫の魂だけでなく、カイルの魂までここにあるということは、この魂はあの時あの場所に存在していた、ということになる。
本当に、どこまでシルヴィア姫馬鹿なんですか。……まあ、それでこそカイルだ、とも言えますけど。なんだからしすぎて、笑いたい気分になった。結局笑えなかったが。
「……どうしましょう、これ」
とっさの行動、しかも無意識だったものだから、その先のことなどなにも考えていなかった。魂を捕まえたからと言って、なにができるわけでもない。ようやく少し冷静さというものを取り戻し、己の愚行にため息が出そうになる。
……気が動転していたんですよね。
人形の中に魂を入れれば、その魂により人形が人間のように動く、という説をどこかで見た気がする。実験した者がいたのだったか、それともただの試論だったか……。しかし、それをしてみたいとは思わない。
王族の魂を食べれば寿命が百年ほど延びるだとかその特殊能力を得るだとか言われているが、何度考えてみてもそれには興味が抱けない。そもそも、姫の魂を食べるだなんて言語道断。無益にもほどがある。
おそらくは、この小瓶を割れば中の魂は解放される。そうしてまた、どこかで生まれるかもしれない。
生命の誕生について細かに正しく説明できる者などいない。誕生というものは神秘なのだ。
国教では、死者の魂は死後の世界で生前の行いについて審判を受け、その結果によって次に生まれ変わる先が決定するというような内容だった。まあつまり、生まれ変わって幸せになりたければ善行を積んで生きろ、ということだ。この場合の善行とは、当然罪を犯さないこと、そして熱心に国教を信じることだ。
私はそれを、特に信じてはいない。死後の世界など、死んだ者にしかわからない。生きている間は絶対に知ることのできないものだ。そこでなにがあるのか、なにが起こるのかなど、どうしたって生きている者の想像の域を出ない。
ただ、魂が魂のまま世界をさまようものであるという仮定は成り立たないだろうと考えられる。もしそうだったとするなら、世界中魂でいっぱいだ。その場合、私が術を使った時だって、二人以外の魂も捕まえられたはず。けれども私の手元にあるのは二つだけ。姫とカイルだけ。ということは、あの場には二人の魂以外は存在しなかったと考えていいだろう。
だったら、魂はいずれその存在を変えるのではないだろうか。死した者の魂は、いつか再びなんらかの形で世界に誕生するのかもしれない。それが人間としてかはわからない。犬猫などの動物だという可能性もある。けれどそうやって、始まりと終わりを繰り返し、そのうちにいつか、二人の魂からなる子が産まれてくるのかもしれない。
「……割ってしまいましょうか」
なら、それを妨げる理由は、私にはない。もう二度と二人に逢えないとしても、いつか二人の魂が再び産まれてくるのであれば、きっとそれが一番いい形なのだ。
二つの小瓶に手を伸ばした――
「っ!? 《セーロ》!!」
異様なほど強い《力》の波を感じ、とっさに杖を手にして室内に結界をはった。杖も体も本の山も壁も、すべてがビリビリと震えた。本の山はいくつか崩れてしまい、どさどさと音を立てて床に本が散らばった。
その波は、ほんの一瞬で収まった。影響はこの部屋の中だけで済んだだろうが、もしとっさに結界を展開しなければ外にまで及んだかもしれない。部屋の状態を見るにさほど被害が出ることはなかっただろうが、それでも安堵のため息がこぼれた。
いっそ狂風とも呼べそうなほどにあふれ出たその《力》は、私にとってとてももなじみの深いものだった。
「……今のは、魔力……?」
過去に一度だけ、魔力を暴走させた経験が閃く。今しがた発生した出来事、感覚は、その時のものによく似ていた。
……魔力の暴走? いったいなぜ? どこから?
呆然と、けれど結界は解かないまま、先ほどの魔力の発生源でもある小瓶を見る。
カイル……では、ない。今もなおたゆたう水のように存在し続けているこれは、カイルの魔力とはまったくの別物だ。カイルの魔術の初歩を教えたのは私で、カイルの魔力の質はおそらく誰よりもよく知っている。これはカイルではない。
ならば、弾き出せる答えは一つしかない。もう一つの瓶の中身。
「……ひ、め……?」
……馬鹿な。
姫のはずがない。姫には魔力がなかった。それは私自身がこの目ではっきりと確かめたことだ。
けれど、カイルであるはずがない。この魔力はカイルのものではない。絶対だ。カイルのものだったならそうとわからないはずがない。となれば消去法で、やはり姫のものだという結論しか出てこない。
では、これだけの魔力がありながら、シルヴィア姫は魔術が一つも使えなかったというのか。そんな馬鹿なことがあるわけがない。そもそも、姫の魔力については姫に協力していただき私自身が間違いなく確かめたのだ。魔術の基本となる四つの属性は、一つとして姫に反応を示さなかった。だから姫は魔力を有していらっしゃらないのだと、私は結論付けたのだ。
しかし、それなら今私の目の前で起こった暴走したような魔力の波はなんだったのか。いや、暴走と言うよりは溢れ出てきたような、あれは。
……埒が明かない。前提を変えてみよう。とにかく、今私が感じている魔力はシルヴィア姫のものだとする。
そうだとして、解せない点がある。
室内に満ちる魔力はかなり質が良いもの感じられる。これほどの魔力を秘めながら、姫は魔術が一つも扱えなかった。私が魔力を込めたカードは、一枚も姫の魔力に反応しなかった。
それはなぜか。
カードは、反応することができなかった。原因として考えられるのは、触れてきた指先から魔力を感じなかったのではないか、ということ。しかし、現状から考えるに姫は間違いなく魔力を有していらっしゃった。魔力を有していらっしゃるのなら、髪の毛一本であろうと魔力が感じ取れたはずだ。しかし、カードは反応できなかった。
「……まさ、か……封じられて、いたのか……?」
たどりついた答えを、愕然と声に出す。
たとえどれほど質の良い魔力を有していたとしても、魔力を封じられていたなら魔術など使えるわけがない。カードに届く前の段階で遮断されてしまっているのであれば、カードが反応を示すはずもない。封じられていたと考えれば、先ほどの溢れ出てきたような魔力の波にも納得がいく。今まで無理矢理押さえつけられていたものが、急にふたをはずされた反動で溢れ飛び出てきたのだとしたら。
その封印に姫の《開閉能力》が影響しなかったということは、彼女の《力》は《開こう》、《閉じよう》という意識によって発現するものであって、無意識では周囲に影響を及ぼすことができないということなのだろう。魔術で鍵をした本は、私が開くように、閉じるようにと指示を出したからこそできたのだ。姫は自分の魔力が封印されているなんて自覚もなかっただろうから、《開く》ことができなかったのだろう。
ですが、封印なんて……誰が、いったいなんのために……?
「…………」
誰が、はまったく予想がつかない。しかし、なんのためにかは、なんとなく想像がついた。
魔術が使えない姫は、危険に対して取れる抵抗手段がほかの王族より少なかった。その上、おそらく護衛もいなかった。簡単に王城を抜け出せてしまうほど、彼女の周りの警備は雑なものだった。
姫は、いつ、誰に殺されても、おかしくない状態だったのだ。
その奥にある真相は、私には見えない。今私に見えているのは、姫が常に命の危機にさらされていたということ。そして、今この時に姫に施された魔力の封印が解かれたということは、姫の魂を探している誰かがいるということだ。あれだけの魔力の放出だ。ある程度魔術が使える者なら、場所を割り出すことなど雑作もないだろう。とっさのことだったが、結界を展開したのは正解だった。おそらく、相手に感知できたのは私が結界を展開する直前の一瞬だけだ。それだけでこの場所を割り出すことは、さすがにできないだろう。
姫の魂が求められる理由。そんなものは一つしか思い浮かばない。
――王族の魂を食べれば、その能力を手に入れることができ、寿命が百年延びると言われる。
ぞわりと全身が粟だった。
このままでは、姫の魂が永久に失われてしまう。
「……逃げ、なくては……」
けれど、どこへ? どこへ逃げればいい? 今のこの世界に、姫にとって安全な場所などあるのでしょうか……?
エタニアールの王族の魂に関する伝説は有名な話だ。世界中に知れ渡っていてもおかしくない。エタニアールで暮らしていれば、知らないことのほうがおかしい。
この世界のどこにも、安全な場所などない。
――なら、《この世界でなければいい》。
その答えを弾き出してからの行動は迅速だった。
まず姫の魂に再び封印を施し、念のために姫の小瓶の周りにのみ結界を展開させてから部屋に展開していた結界を解いた。姫の血で汚れたままだった上着を脱ぎ捨て、別の上着を羽織る。それから、二つの小瓶といくらかのお金を持って、家を飛び出した。大通りにある馬を貸し出している店に行き、そこで馬を一頭借り、その場でまたがり、馬を走らせた。
まだだ。
まだ、終わっていない。
悲鳴が上がったような気がする。大通りは当然ひとが多いので、馬は歩かせるのがマナーだ。驚いた誰かが悲鳴を上げ、怒号を上げても少しも不思議はない。ただ、今の私にはそのことを気に留めるだけの余裕はない。
周囲になど目もくれず、都市を囲む壁の門からリオールを飛び出した。
私はカイルを守れなかった。姫を救えなかった。
しかし、ここはまだ終わりではない。
まだ、できることがある。
――私が《魔術師》だからこそ。