01 その者、番犬。あるいは狂犬。
「好きです! 俺と、付き合ってください!」
昼休みの裏庭。男女一組。ありがちなシチュエーションと言えるだろう。しかし、かたや顔を真赤にした男子生徒、かたや何の感慨も浮かべていない女子生徒。双方の温度差は見る者に説明するまでもないほどだ。
告白した男子生徒は緊張で体を硬くし、真っ赤な顔でじっと相手の女子生徒を見つめていた。
告白された女子生徒は、とても可愛らしい容姿をしていた。まだ幼さの残る柔らかな輪郭に、大きくくりっとした瞳。すっと通る鼻筋に桜色の小さめな唇。肌はどちらかというと白く、手足はほっそりとしている。そして、小さな体に不似合いなほどの豊かな胸。女子生徒がわずかに姿勢を変えると、同時に軽く揺れた。男子生徒は思わず生唾を飲み込む。
女子生徒はそれに顔を顰める事もなく、答える。
「あの、ごめんなさい。わたしそういうのに興味ないです」
「そ、そうですか……」
男子生徒はあっさりと引き下がった。女子生徒からの返答は、噂通りのものだった。何人もの男がこうして彼女に告白し、こうして同じように振られてきている。この男子生徒からしてもダメ元の行動だった。
「ほんとにごめんなさい」
女子生徒は律儀に再度謝罪して、男子生徒に背中を向けた。その動作にも、やはりたゆんと胸が揺れた。
男子生徒の顔を赤みは消えなかった。
× × ×
裏庭は三階の廊下からは丸見えだった。一人の男子生徒がそこから裏庭を見下ろしていた。彼は一般より少し視力がよく、聴力もよかった。そこで誰と誰がやりとりが行ったのか、彼はその一部始終を見ていた。
とはいえ、彼以外にその光景を見ている者はいなかっただろう。裏庭は特別教室ばかりを集めた棟に隠される形になっている。昼休みにまでこの棟にやってくるのは一階にある購買を利用する生徒くらいだが、その光景は購買からは死角になっていた。
男子生徒は女子生徒の姿が完全に視界の外へと移動すると、小さなため息をこぼした。それから窓を離れ、一般棟の屋上へ向かった。
× × ×
――ジュースを買おう。
ふと、女子生徒はそう思い立った。弁当はすでに食べ終えている。一緒に食べていた友人たちにジュースを買いに行くことを告げ、教室を出た。
「よお」
「あ、おっす」
そこで小学校からの腐れ縁となる男子生徒と出くわした。小さい頃は一緒に泥だらけになって遊んだものだが、最近では少しぎこちない空気が流れている。
「どっか行くのか?」
「ジュース買いに」
「そっか。あ、なんか急に俺も飲みたくなった」
ぎこちなくゆるい会話を交わして、揃って歩き出す。昼休みの廊下は一時的に授業から解放された生徒の群れで大いに賑わっている。
「そだ。お前さ、今日英語ある?」
「あるけど」
「じゃあ、六限ちょっと教科書貸してくれ。忘れた」
「いいけど。ラクガキはダメだからね」
「わかってるって」
自販機は一階の購買横にしかない。購買は特別教室を集めた棟に入っており、二人で購買に一番近いところに繋がっている階段へ向かう。
そこで、昼休みにすれ違うわけがないクラスの友人とすれ違った。踊り場を通り抜け、てってって、と駆け上がるように足を動かす姿に、思わず振り向いて声をかける。
「ひめ? 今日は屋上じゃないの?」
すると、急いでいる風だったはずの友人は律儀に足を止め、女子生徒を振り向いた。少しばかり息を弾ませていた。
「これから行くのー。ちょっと用事ができちゃって……」
「ははーん、さては告白だな?」
「あれ? どうしてわかったの?」
きょとんとする友人に、女子生徒は苦笑を隠さない。
「カマかけただけなんですけど。で?」
「ごめんなさいしてきたー」
「だろうねー。っと、引き止めてごめん。早く屋上行きなよ」
「うん、またあとでねー」
これから屋上に行くのであれば、先ほどまでの急いでいる様子も納得というものだ。昼休みはすでに三分の一終了している。
手を振って踵を返す友人に手を振り返してその背中を見送った。隣にいた腐れ縁がうっとりとしたため息をつく。
「はぁ……市ノ瀬さん、可愛いなぁ」
「なに、あんた狙ってるの?」
こちらもカマをかけてみると、腐れ縁は「別にそういうわけじゃ」ともごもご気まり悪げに言う。女子生徒は一瞬だけ顔を顰めたが、その後はいつも通りを装った。
「やめときなさいよ、ひめは。《番犬》に噛まれても知らないから」
「……《狂犬》の間違いじゃね?」
× × ×
「せーんちゃーん! おまたせー!」
「っ、《せんちゃん》はやめろって何度も言ってるだろ、市ノ瀬!」
屋上に、男女一組の生徒の姿。男子生徒は少し前から一人でこの場に居座っており、女子生徒は今しがた階段を登ってきたところだ。
女子生徒は、先ほどそこの裏庭で告白されていた。名前は市ノ瀬ひめ。一年生ながら、その可愛らしい容姿と大きな胸によって注目を集め、すっかりこの高校のアイドルだ。本人は気づいていないし、気づいても特に気にはしないだろう。
男子生徒は、先ほど三階からひめが告白されているところを見ていた。名前は犬山千里。顔のパーツはそれなりに整っているが、眼が少し大きめだ。身長も百六十八と、あまり高くない。男らしさが全くないわけではないが、どうしても中性的な印象を相手に与えてしまう。
ひめは彼を《せんちゃん》と呼ぶが、本人は勘弁してほしいと本気で思っている。
二人は、いわゆる幼馴染だ。
「ごめんねー、お腹空いてるよねー。はい、せんちゃんの」
「……サンキュ」
千里の怒鳴り声などなんのその。ひめはいつも通りのほわほわした空気を垂れ流した状態で、千里に大きめの弁当箱を渡した。千里は諦めのため息をついてから、それを受け取った。
千里が弁当箱の蓋を開け、きっちり手を合わせてから食べ始める隣で、ひめも腰を下ろして自分用の小さな弁当箱を広げた。二人の弁当の中のおかずは、同じものだった。
もくもくと、千里とひめは会話なしに食事を進めていく。
「……ごちそうさま」
「おそまつさまー」
千里が食べ終わっても、ひめはまだ三分の一残っていた。千里は広げた弁当を片付ける。
「美味しかった?」
「ああ」
「今日の煮込みハンバーグは自信作なの」
「ああ、美味かった」
弁当はひめの手作りだ。ひめのファンが知ったら発狂するだろうな、と千里はぼんやり考えた。
千里の母が小学生の頃に他界してから、千里の弁当はいつでもひめ作だ。小学校は基本的に給食だったが、週に一度弁当の日というものがあった。最初こそ、完全に料理初心者ゆえに思いっきりまずいものを食べさせられていたものだが、今ではどこに嫁に出しても恥ずかしくない腕前になっている。
美味しいものを食べられるのは千里としても嬉しい。だが、千里はこの状況はどうしたものかと、最近よく考えるようになった。
「……市ノ瀬」
「なーにー?」
「毎日弁当作るの、大変じゃないか?」
「えー? もう日課だから、むしろ作らないほうが大変かも」
「……そうか。でもさ、お前、高校上がってから友達と一緒に食べたりとか、一度もしてないだろ。別に毎日俺に付き合わなくても……」
「わたしがしたくてやってるんだよ」
「いや、でもだな……」
「……じゃあー……」
「な、なんだ?」
「その《市ノ瀬》ってやめてくれたら、考える」
「…………」
千里はぐっと言葉に詰まった。ひめはわくわく感いっぱいの瞳を千里に向けている。ひめが何を期待しているのかは、わかっている。しかし、それを承諾する勇気は、千里にはない。そして憮然とした気持ちになる。
「……お前、恥ずかしくねーの?」
「ないよー」
「俺はすっげー恥ずかしい」
「えー? 《せんちゃん》、可愛いのにー」
「可愛くない! あーもうあれだ、そんな言うんなら《いっちー》とか呼ぶぞ!?」
さすがに気に入らないだろうと思ってのやけくそな提案だった。しかし、ひめはしばしきょとんとした後に、ぱっと笑った。
「わあ、それも可愛いかも! それでもいいよ!」
「……やっぱ、今のなし」
「えー」
ぶーぶー、と不満いっぱいのひめから目を逸らし、ため息をつく。結局恥ずかしいのは千里だけらしい。選択肢は二つに増えたようだが、どちらも恥ずかしいのでは意味がない。
「ほら、とにかく食え。昼休み終わっちまうぞ」
「ああ、そうだった!」
ひめは再び食事をすすめる。口に運ぶ量が毎回少量、しかもゆっくり噛んでから飲み込むという馬鹿丁寧な食べ方なので、食べるスピードは相当遅い。
「頑張れ。今日は食べ始め遅かったからな」
「うぅー……呼び出しさえなければなー」
「また告られてたろ」
「うん。何にもなかったよ」
「知ってる。見てた」
「心配した?」
「多少は」
「えへへー」
「なに笑ってんだよ」
「何でもないのー」
ひめの食べるスピードが、少しだけ上がった。それを見て、千里は嫌な予感を覚える。
「……あんまり急ぐと吐くぞ」
「平気だよー」
ひめはスピードを緩めなかった。
× × ×
千里は呆れた。背中には顔を真っ青にしたひめを背負っていた。体勢的にやわらかな女性の象徴が惜しげなく千里の背中に押し付けられているわけで、千里とて男なのだから当然それについて思うところがないわけではないのだが、それを上回ってしまうほど呆れていた。
「だから言ったろ」
「ごめんー……」
調子に乗ってぱくぱく箸を進めていたひめは、案の定、体調を崩した。
幼少時には虚弱体質らしいところもあったが、現在ではそれほどでもない。しかし、ゆっくり食べないと消化がうまくいかないのか、吐いてしまうのがひめの常だ。
目的地である保健室に到着し、養護教員にひめを引き渡す。
「とりあえず五限目は寝てろ。終わったら様子見に来るから」
「うんー……」
ひめの頭を一撫でしてやってから、養護教員から保健室利用証明書を受け取り、千里は一人教室に向かった。授業はすでに開始しているため、廊下に千里以外の姿はなかった。
進行方向の関係で教室前方のドアのほうが近いのだが、千里は後方のドアへと足を伸ばす。遠慮の気持ちを込めて、ドアを引く。ガラガラと音がした。授業中のため、その音はよく響いた。もう少し静かに開かないものかと真剣に考えた。
ざわりとした視線と意識が、遅刻してきた千里に集中する。心地良さは欠片もない。そもそも注目される事自体、あまり好むものではなかった。
「い、犬山っ……遅いぞっ!」
古典担当教師の震えた声が千里まで届いた。五限目は古典だったか、と千里はぼんやり意識にとめる。見やると、教師は妙に緊張した面持ちだった。
「すいません、保健室に寄ってました」
「ほ、保健室……?」
「市ノ瀬が体調崩して、保健室で休んでます。これ、証明書……」
「あ、ああ! いい、いいから! さっさと席につけ!」
「……はい」
その処置は寛大と見えなくもない。しかし、そうではない事を千里は知っている。
無駄は反抗はせずに自分の席に着く。その後、授業は滞りなく進み、多少の課題を与えられて終わった。
千里は素早く次の数学の用意を整えて席を立った。休憩時間は十分しかない。しかし、五限が終わったら様子を見に行くとひめに約束していた。
急いでいたため、少々注意力散漫になっていた。机と机の間にできている通路で、授業が終了した開放感から友人と笑い合っていたクラスメートの男子と軽くぶつかってしまう。
「あ、すま、」
「す、すみません!」
普通に謝ろうと思ったら相手にすごい勢いで謝られた。明るい喧騒が一瞬で反転した。千里はまたか、と内心で愚痴る。
「……いや」
短く答えて、逃げるように教室を出る。
「あああ、びっくりしたー!」
「気をつけろよなー、相手は《狂犬》だぜ?」
教室の中の声を、優秀な千里の耳はしっかりと拾ってしまった。そんなんじゃないのに、と千里はため息を隠さなかった。
千里は教師や生徒に怖がられている。千里自身もそれを知っている。周囲は千里への恐怖心を隠そうとはしなかったのだから、気づかないほうがどうかしているというものだ。
原因は一年程前の事。当時、千里はまだ中学生だった。
強く性質が悪いと地元で有名だった高校生の不良一味をぶっ潰してしまったのだ。
たった一人で。
その話は瞬く間に中学校に広まってしまい、それによって千里についたあだ名が《狂犬》。まったくもって不本意だ。
何故そんな事をしてしまったのかと言えば、きっかけはその不良一味のリーダーがひめに惚れ込んでしまった事だった。
ひめは男を惹きつける特別なフェロモンでも持っているかのように、異様なまでにモテる。異様だと、千里は常に思っている。
もちろん、ひめが可愛い事は千里にも異論はない。だが、それにしたって惹きつけすぎだと思うのだ。今日告白してきたような害のない男ばかりならそれでも大した問題はないのだが、ストーカーだの変態だの、そういった面倒なものまで惹きつけてしまう。あまり知られていない事だが、小学生の頃に一度、見るからに怪しい奴らに誘拐されかけた事だってあるのだ。
だから、千里は登下校を必ずひめと共にする。これはひめの両親に頼まれたからでもある。
件の不良リーダーも、なかなかに厄介な手合いだった。真っ向から誘いをかけてもひめがまるで乗ってこないものだから、強硬手段に出たのだ。ようするに誘拐まがいの事をしようとしたのである。
それは下校途中の事だった。当然千里はその場にいたわけで、そんな事を許すわけもない。不良一味対千里という構図の出来上がりだ。
別に余裕で勝ちを取ったわけではない。出会い頭に力の限り殴り飛ばされた。意識が飛ぶ事はなかったが、歯が欠けて鼻血も出た。正直なところすぐさま反撃に出たいところだったが、ひめが暴力をあまり好まないので、一応少しくらい話をしてみようと思っていたのだ。
……その時点では。
不良リーダーが泣いて千里を呼ぶひめを力任せに引き寄せるその姿を認識した瞬間、そんな穏健思考は宇宙の彼方へ吹っ飛んだ。
ぶち切れた千里は素早い動作で持ち歩いていた竹刀袋から木刀を引っ張り出した。
千里は剣が扱えた。もちろん、真剣ではなく竹刀や木刀の類だ。実家が剣道道場を営んでおり、千里は物心ついた頃から父に剣を教わっていた。しかし、公式の試合などには出た事がなかったものだから、自分の腕前がどれほどのものなのかは、いまいちわかっていなかった。千里は門下生として剣を教わっていたのは小学校中学年までの話で、以降は自主練習ばかり。対人練習は時折父親が相手をしてくれる程度だった。
得物があれば有事の際に、主にひめを守るのに役立つかもしれないという単純思考で、千里は日常的に竹刀を持ち歩いていた。ただ、この事件の時には、発生前からすでに不良リーダーから不穏な雰囲気を感じ取っており、念には念を入れて攻撃力アップを意図して市内ではなく木刀を持ち歩いていたのだ。
簡潔な結果を述べるなら、千里は十人を超す年上の不良たちを一人で薙ぎ倒し、ひめの死守に成功した。
当初は不良リーダー含め三人しかいなかったはずのに、いつの間にか仲間を呼んだのか、それとも遠くから様子を伺っていたのか、または偶然通りかかっただけなのか、続々と集まる不良相手に千里は木刀を振るい続けた。
気がつけば、立っているのは千里一人になっていた。
不良たちは誰も彼も地面に倒れ、痛みに悶えのた打ち回っているか、意識を手放すかしていた。
ひめは泣いて千里にしがみついていた。でなければ、千里はその瞬間でさえ、不良を痛めつけ続けていただろう。正気を失っていたようだ、とその時初めて自覚した。
騒ぎを聞きつけて千里の父とひめの母が駆けつけてきたのだ。ひめの母にはものすごく感謝されたのだが、父には「やりすぎだ」と拳骨を食らわされ、その日は夕飯抜きにされた。
その次の日、頬に大きな絆創膏を貼りつけて登校した千里を迎えたのは、クラスメートの恐怖に染まった視線だった。
不良一人二人程度であれば、英雄視されたのかもしれない。しかし、父の言ではないが、十人超えは確かにやりすぎだったのだ。
リーダー一人ぶっ飛ばせばそれで片がついた話だったかもしれない。しかし、渾身の力で殴り飛ばされた千里は、頭に血がのぼってしまい、「全員ぶっ飛ばす」しか考えられなくなっていたのだ。
後悔はしている。しかし、何度あの時の状況を思い返しても、あの場で冷静でいられる自分を思い浮かべる事はできなかった。
結局のところ、なるべくしてなってしまった事態だと言っていいだろう。
そう分析はできても、やはり自分の事を《狂犬》などと称されるのはあまりいい気分にはなれないのだった。