02 届かない、それでも伸ばす。
結局ひめは、六限目も保健室で休んだ。
帰りのHRまで終了すると、千里はひめの荷物を勝手にまとめ、二人分のかばんを持って保健室に向かった。養護教諭にあいさつをして、保健室から直接昇降口へと向かう。
校門を出て少ししたところで、ひめがおずおずと口を動かした。
「……ごめんね、せんちゃん」
「別に気にしてないけどさ。でも、自分の食べる量くらい、自分でセーブしてくれ」
「以後、気をつけます!」
ため息混じりに千里が頼むと、ひめはノリよくピシっと敬礼の真似事をした。
千里はもう竹刀袋を持っていない。あの事件の後、体術が達者な父の友人に教えを乞い、徒手空拳でもそれなりに荒事が可能なレベルになっているため、竹刀及び木刀を持ち歩くのはやめた。
あれは危険過ぎる、と例の一件以来千里自身が強く意識するようになった。おまけに、体術の師には「お前はセンスがよすぎる」などと言われもした。この場合のセンスというのは当然体術だの剣だののセンスだ。果ては「生まれてくる時代を間違えたんじゃないか」とさえ言われ、千里は唖然とするしかなかった。
高校生になった今も、千里は相変わらずひめと登下校を共にしている。
少し前から引っ付いていたストーカー野郎は昨日警察に突き出してきたのだが、油断はできない。と、無意識に警戒心を強めようとする自分の気づき、千里は再びため息をこぼす。この行動の延長線上に不本意極まりない《狂犬》などというあだ名があるのだと思うと、とてつもなく苦い気持ちになる。
もともと、小学生以前からずっとひめと行動を共にして彼女を不貞な輩の手から守ってきていた千里には、《番犬》というあだ名がつけられていた。行動がそう映ったのもあるだろうが、「犬」の部分はおそらく名字である「犬山」に掛けたのだろう。
そこから発展して《狂犬》となってしまったのは、状況を考えれば仕方のない事なのかもしれない。確かにあの時あの瞬間の千里は、そう表現するにふさわしい状態だっただろう。自分ですら正気を失っていたと思うほどだ。クラスメートたちが怖がるのも無理はない。
とはいえ。
別にいつもいつもとち狂っているわけではないのに、そうあからさまに怯えられるのは不愉快でしかなかった。
プラス、少し寂しかった。
昔からひめとばかり一緒に行動していたため、特別仲の良い友人はひめ以外にはいない。しかし、それはまではからかい半分でも声をかけられる事も多かった。
あの事件以来、みんながみんな千里を避けるようになった。さり気なくではなく、あからさまに。プリント一枚渡すのすらクラスの中で押し付け合う。教師でさえ、千里と話をする時はひどく落ち着かない様子を見せていた。
それは高校へ進学しても変わらなかった。何故ならば進学先の高校は完全に地元、歩いて通える距離であり地区は中学とまったく変わらない。レベルもさほど高くないため、地元の子供が集まりやすい。結果、高校にも《狂犬》の話を知っている人間は大勢いて、入学当初は知らなかった新入生の間にもあっという間に広まってしまったのだ。
それならば地元から離れた遠くの、例えば県外の高校にでも行けばよかったのではないか、という考えはまったく浮かばなかった。そうするとひめが危ないのだ。電車やバスなんて使ったら痴漢の餌食間違いなしだ。どんなに遠くてもせいぜい自転車で通える距離が限界……。
はたと気がつく。
千里はすっかり物事の中心にひめを置いて、ひめと一緒に行動することが当たり前になっているが、はたしてそれが千里にとってプラスになった事はあるのだろうか。
ひめを守ろうとして、怪我を負って、父に怒られて、食事を抜かれて、学校中から避けられて。
それだけではない。
小学生の頃にあった誘拐未遂事件だって、ひめを連れて行かせまいと体を張った結果、右腕と肋骨一本を骨折したのだ。小学生だったのだから、当然大人相手にたいした抵抗などできなかった。とにかく連れて行かせまいと必死で食い下がったのだが、それにイラつきを覚えたらしい相手に容赦ない蹴りを胴体に入れられ、意図的に腕の骨をやられた。その時に、強烈な痛みに耐え切れず大声が上がったお陰で人を呼ぶ事ができ、結果的にはひめの誘拐は未遂に終わったわけだが。
他の事件はそれに比べればどれも大した事はないが、ひめに惚れ込んでしまった男に因縁を付けられる事多数。これも暴力なしで解決できる事は半分以下の件数でしかなく、それが結果として千里の喧嘩能力を上げていく事となったのだろう。しかし、千里は必ず一発は攻撃を受けてから反撃する。正当防衛を主張するためだ。つまり、一度喧嘩になった場合、千里は絶対無傷では済まないのである。
――なんか、損ばっかしてないか、俺……
「あわ!?」
「ん?」
マイナス思考が過ぎった次の瞬間、ひめの奇声が上がった。千里はそれから一秒遅れて横を振り向いたが、そこにいたはずのひめの姿がない。
「い、いたぁいぃ……」
アスファルトの方からひめの声が聞こえ、千里は自然な動作で視線を下へと向けた。アスファルトの上にぺしゃりと座り込んでいるひめの姿があった。そこから更にひめの向こう側へと視線をずらすと、排水口のフタになっているブロックが斜めになっており、つま先が引っかかりやすくなっている事がわかった。おそらく、ひめはあれに躓いたのだろう。
視線をひめに戻す。座り込んだまますんすんと泣いている。膝を擦り剥いているかもしれない。
いつもなら、仕方ないとため息でもついてからひめに手を貸して立ち上がる手伝いをしてやるところだ。しかし、今日の千里は少し違った。泣いているひめを見て、少しイラッとした気持ちを覚えてしまった。
ひめはいつもそうだ。千里にとってのトラブルの渦中はいつだってひめなのに、当人はこうしてめそめそ泣いているか、わけがわからずきょとんとしているかのどちらかだ。必死になるのはいつも千里ばかりで、大怪我を負ったり周囲から避けられたりと損をするのも千里だけ。
ひめは一人っ子の上、よくトラブルに巻き込まれるせいで両親も揃って過保護のきらいがある。また千里も、初めてにして唯一の女友達がこのように可愛らしくか弱い女の子という事で、男の自分がしっかりして守ってやらねばと思ってきた。そして実行してきた。
過去を振り返った千里は思う。
自分も、自分以外の人間も、ひめを甘やかしすぎているのではないだろうか。
もちろん、逆立ちしたってひめの手に負えない事態はまた必ず発生するだろう。ひめが好まない暴力が必要な時だってあるだろう。そういう時は千里が動かなくては仕方がない。しかし、今までのように日常的にも常に気を配り守ろうとするのは、おかしいのではないか。やりすぎなのではないか。ちょっとしたトラブルくらい自分でどうにかできるようにならなければ、ひめは将来的にひとりでは何もできない、どこにも行けない人間になってしまうのではないか。
今だって。
ひめには千里と違って他にも友達がちゃんといるのだから、彼女らと一緒にランチタイムを楽しめばいいのに、毎日千里と屋上で二人の世界だ。ひめと距離を置けば千里にも他に友達ができる……事はさすがにないだろうが。それについては、《狂犬》の噂がある限り望み薄だろう。しかし、男子生徒から大人気のひめとばかり一緒にいるよりは多少確率は上がるはずだ。たぶん。きっと。
千里はたった今決断した。これからは少し距離を置いてみよう。
そして、千里は早速それを実行に移す。
「……怪我は?」
「て、てのひら、と……ひざ……痛い……」
案の定擦り剥いているらしい。手のひらの傷は、転んだ瞬間に手で体を支えようと地面につけたせいだろう。アスファルト相手なら予想の範囲内だ。
「そのくらいなら自分で立て、市ノ瀬」
「せ、せんちゃん……?」
驚いたような涙まみれの視線を、ひめが向けてくる。そうして見られると、やはり多少の罪悪感は拭いきれない。しかし、これは自分だけのためではない、ひめのためでもあるのだと、千里は強く自分に言い聞かせた。
「いつも俺が傍にいられるわけじゃないんだ。例えば……そうだな、何かの事件に巻き込まれた時とか。その時もし俺が傍にいなかったら、お前は自分で自分の身を守んなきゃならないんだぞ」
「せ、せんちゃん……は、来てくれないの……?」
「……行くよ。絶対助けに行く。でも、それまでの間お前はひとりだろ。ひとりで頑張んなきゃ駄目なんだ。すっ転んで擦り剥いたくらいで挫けるようじゃ駄目だ。わかるな?」
「ふぐっ……うん……」
「よし。じゃあ立て。ゆっくりでいい。大丈夫だ、置いてったりはしないから」
「う、うん……」
泣くな、とは言わない。小さな怪我でも、痛いものは痛いのだ。男がそんな程度で泣けば必ず「情けない」と馬鹿にされるが、女ならそんな風には言われないだろう。昔から、ひめはよく泣く。泣き虫な性質なのだろう。なら、無理に涙を堪えさせるのは難しいし、少し可哀想な気がする。
今までのように、ちょっと転んだだけなのにわざわざ助け起こしていては駄目なのだ。捻挫しているとなれば話は変わってくるが、擦りむいた程度であれば自分の力で何とかすべきだ。
まずは第一歩。
いきなり突き放したって、ひめは余計に泣くだけだろう。それに、先日こらしめたストーカーのような変態がまたひめに付き纏い始めたらと思うと、そしてそれがさして確率の低い未来ではないだろう思うと、ひめを完全に放り出す事はやはり躊躇われる。
並んで登下校は避けられない事だとしても、もう少しひめの中に燻っているだろう自立心を導いてやる必要はあるはずだ。できれば泣き虫なところももう少しなんとかなるとありがたいが、その点についてはあまり高望みはしないでおく。今はとにかく、ひめが自分で立つようになることが最優先だ。
千里の頭の中には、ひめが立ち上がれたら近くの公園の水飲み場辺りで傷を洗って、それから千里の家に向かい、きちんと消毒するところまで計画に入っている。目的地がひめの家でなく千里の家なのは、犬山家のほうがここから近く、また救急セットも充実しているためだ。
これも過保護になってしまうだろうか、いやでも、傷の手当ての方法もちゃんと教えてからでないと、などという思考が脳内を駆け巡る。
「せ、せんちゃっ……!」
ひめの声が、震えながら千里を呼んだ。それは明らかに何かに怯えている声だった。
今、どこかにひめが怯えるような要素があっただろうか、と思いながら意識をひめ本人に戻す。
――そして、千里は己の眼を疑った。
いつもは白いなりに血色の良いひめの顔は真っ青になって、先ほどまでころころと流れていた涙はといえば今は止まっている。アスファルトの上に座り込んだ態勢のままだ。震えているのだろう、微かに歯がガチガチと噛み合う音が聞こえる。
その背後。
それが何なのか、瞬時に判断できなかった。いや、今もなお、それが何なのかはわからない。
最初はただの黒い塊のように見えた。しかし、それはもぞもぞと身じろぎをするように輪郭を変えていき、徐々にその姿が明らかになる。
それは、何本もの太い蔓のようだった。だが、それは蔓ではありえない。植物は成長こそするが、上下左右自在に踊るような事はしないものだ。そういう意味で、その動きはまるで海に住む蛸の足のように思えた。表面にはぬめりがあり、それが生理的な不快感を呼び起こす。
呆然としている千里の目の前で、それは少しずつ、しかし明らかに面積と体積を増していく。そして、青い顔をして震えているひめの体に、一本、また一本と絡みついていく。
「せ、せんちゃん! せんちゃん!」
耐え切れないとばかりに吐き出された自分を呼ぶ声に、千里はようやっと我に返った。そして、そんな千里の目の前で、恐怖から動けないひめの体を雁字搦めにした正体不明の何かは、ひめのかばんは置き去りにして、ずるずると抱え込んだひめを後方へと引きずっていく。
「っ、市ノ瀬!」
これはまずい。
それは理性ではなく理解でもなく、原始的で本能的な感覚だった。あるいは、未知に対する純然なる恐怖だったのかもしれない。《ひめが連れ去られかけている》という目の前の現実だけで、千里が体を動かすには十分だった。
千里は肩にかかっていた鞄を放り出し、ひめに駆け寄ってひめの手と得体の知れないものをその手に掴む。表面のぬめりのせいで、ずるりと手が滑って行く。それでもなんとか食らいつく。
「く、っそ! この!」
どうにかひめに絡みついたものを引き剥がそうとするが、それは頑固なまでにひめを離さない。そうしている間にも、ひめの体はどんどんその何かに埋もれ、引きずられていく。千里はとっさに、これ以上行かすかと、引き剥がすのをやめて自分の方へ引っ張るために全身の力を使った。しかし、それもあまり功を奏さず、千里の体ごと引きずられてしまう。
このままではどうにもならない。しかし、どうすればいいのか……。千里は状況を睨みつけながら、歯を食いしばって考える。
『あら、なあに、子供じゃないの』
「え……」
ただの通学路だというのに、まるで狭い室内で反響しているような女の声。驚いていると、千里の目の前にずるりと一本の足が飛び出し、そこから絞られ分離するように出来上がったのは、人間の頭サイズのしこり。細めの軸で足と繋がり、ぬらりとした光沢のあるそこに、柔らかな線が走る。
雑な輪郭が浮かび上がり、それが目を表し、鼻を表し、口を表し、最終的に人間の顔を表しているのだと気づく直前、
右肩に激痛を伴う強い衝撃を受け、千里はひめとソレから手を離して地面の上に倒れた。
ひめは瞠目した。目の前の光景が信じられず、また信じたくなかった。信じる事が怖かった。しかし、眼前のものは何も変わらない。倒れた千里は、辛そうに左手で右肩を抱き、痛みからか体が小さく震えていた。
無意識のうちに止まっていた涙が再び流れ出し、手を千里へと向けて伸ばされる。
「せんちゃん! せんちゃん!!」
『思うように進まないと思ったら、こんな子供が邪魔しようとしていたなんて』
ひめを拘束する何かに寄生するように発生しているその顔は、当然ひとではない。しかし、声と同時に輪郭線だけで表現されている口が、あたかも実際に喋っているように柔らかく動作する。
「せんちゃん!! せんちゃん!!!」
『ああ煩い。少し黙っていなさい』
「んぐっ! んんー!!」
『……まあ、先刻よりはましかしら』
「んんん! んんんー!!」
ひめは黒くぬめったそれで口を塞がれ、言葉という言葉を妨げられる。しかし、ぼろぼろと流れる大粒の涙の群れと、必死に伸ばされる華奢な腕が、彼女の求めるものを明確に表現していた。
ひめは抵抗する。
今のひめに、自分が危機にさらされているという自覚はないに等しい。だが、理解はしている。千里が傷つき、倒れているという恐ろしい事実を。
千里は、ひめが知る誰よりも強い。そして、いつだってひめを守ってくれた。
黒塗りの車に乗った男たちがひめをどこかへ連れて行こうとした時も、地元でも強くて性質が悪いと評判の不良が強引にひめを誘いに来た時も。いつだって千里はひめを守ろうと戦ってくれて、いつだってひめを守りきってくれた。だから、安心して守られていた。
だってひめは戦えない。一時期犬山家の道場で剣道を教わっていた事もあったが、まったく上手くならなかった。中学生になる前には自分は運動という運動が苦手なのだという事を理解して、以来そういった努力はしてこなかった。
守られているだけだった。千里はどんな時も、最後にはひめを守りきってくれたから。
しかし今、千里は倒れている。ひめが何だかよくわからないものにどこかへ連れて行かれそうになっていて、いつものように守ってくれようとして。
刺されて。
倒れて。
動かない。
――怖い。
ひめは心底そう思った。
同じように怖いと思った事が、過去にもあった。千里が右腕の骨と肋骨を折られた時の事だ。あの時、ひめは人生で一番の恐怖を味わったと思った。自分が誘拐されたかけた事でなく、千里が死んでしまうかもしれないと思えて、それが何よりの恐怖だった。
もうあんなのは嫌だと思った。思ったのだ。けれど、入院した千里は、泣いて謝るひめに向かって「大丈夫、こんなのなんともない」と言ったから。そうして、笑っていたから。
それで、安心してしまったのだ。千里は大丈夫なのだ、と。実際、それ以来千里が勝ち続けた事も拍車をかけてしまったのかもしれない。
千里は強い。千里は大丈夫。
まるで暗示のように、催眠のように、ひめはそう思い込んでしまった。
しかし、そうではない。それでは駄目だった。
ひめは逃げただけなのだ。
千里が他の人より少し強いから。すごく優しいから。ひめは千里に甘えて、甘え続けて。
そうした結果、千里はまた倒れてしまった。
絡みつくものからどうにか抜けだそうと、ひめはもがく。さっきまで、怖くて怖くて少しも動けなったというのに、ひめの体はごく自然に抵抗を選択した。
いや、そんな意識すら、ひめの中にはなかった。
千里に駆け寄りたい。千里の安否を確かめたい。千里に謝りたい。ひめはそればかりを考えていた。
――ごめんね、せんちゃん……甘えてばっかりでごめんね。
――せんちゃんの言うとおり、もっと自分で立てるようになるよ。きっと強くなるよ。頑張るよ。
――でも、一緒にお昼ご飯は、絶対譲らないから。
そう言えば、きっと、千里は苦そうな顔をして、でも最終的には「しょうがない」と笑ってくれる。
笑ってほしい。
もうずっと、長いこと、千里の笑顔を見ていないような気がしてきた。千里の笑顔が見たくてしかたがなくなってくる。
「んんんっ、んんん!」
『はあ、面倒くさい娘だ事』
だったら解放してほしい、とひめは思った。
しかし、声の主はさらにぎゅうぎゅうとひめを締め上げる。
「んっ!? んん、んっ……!」
『……お眠りなさい。そうすれば楽になるわ。私も、貴女も』
圧迫される。その苦しさに、意識が遠くなっていく。視界が霞む。
千里が遠くなる。
――せん、ちゃん……
音にすらならなかった、彼を呼ぶ声。
伸ばした腕から力が抜け、零れた涙とともにぱたりと落ちていく。
その手を、ぬくもりが握り返した。
ひめの手を引き寄せても、ひめの体は黒く太いものに巻き取られていてびくともしない。だから千里は、それを利用して立ち上がった。
『なっ!?』
驚く声の主。人の顔を模したそれを、右の手のひらいっぱいに掴み、握りつぶすように渾身の力を込める。
「……な、せ……」
『き、貴様……!』
「ひめを、離せ!!」
千里の瞳には、ぎらぎらと燃える炎のような光が宿っていた。
右肩を痛めているはずなのに、今の千里はそれを意識していない。後で揺り返しが来ようと構わなかった。今の千里の頭の中は、ひめをそこから助け出す事、そのたった一つでいっぱいになっており、それ以外の事など意識に留めておく事さえできない。
『くっ、あ、あ、あああああー!!』
ぐしゃり、と気持ちの悪い音がした。びちゃり、と水気のあるものが飛び散る音がした。しかし、千里はやはりそれを気に止めない。どろりとした手を汚すものにも頓着せず、千里は次なる太いそれに手をかける。
「ひめ! しっかりしろ、ひめ!」
「……せん、ちゃん……?」
口を塞いでいたものが少しだけ緩み、ひめは弱々しくも言葉を成す事を許された。色を失っている小さく可憐な唇の奥で儚げに呟かれた己の名前を聞き、千里の手にまた力が篭る。
――こいつら全部、引きちぎってやる!
千里はそう考え、それを実行に移す。太いそれがひめに巻き付いて離れないのなら、その先端と根元を切り離せばいい。激昂していながら、それは非常に合理的な判断だった。
誤算はひとつ。
ソレが、ただのモノではない事。
千里がぶちり、と一本引き千切ったと同時に。
千里の腹部に、ずぶり、と別の一本突き刺さった。
『……その強靭な精神力、賞賛に値するわ。でもね……』
どこからともなく響く声。
千里の腹に突き刺さったソレは、ぶちゅりと耳を塞ぎたくなるような音を立てて、千里の千里の背中までも食い破った。
ぼたぼたと、その先端から汚れた赤が滴り落ちる。
「か、……はっ……」
千里の口からも赤がこぼれ出る。急激に体から力が抜けていき、千里の体がわずかに落ちる。
ひめの顔のすぐ近くにぼこり、と再び人の顔を模したものが出来上がり、千里を見下す。眼は輪郭しかわからないはずなのに、ひどく冷たいものだった。
『貴方は、邪魔よ』
ずるりとソレが引き抜かれ、千里の体は支えを失った人形のように、がくんと再び地面の上に伏した。
焼けるような熱さと痛みに、千里は左腕で腹を抱える。しかし、残る右腕は、頼りなくとも、真っ直ぐにただ一人を求めて伸ばされていた。
「ひ、めっ……」
誰のものなのかもわからない不思議な声は、もう聞こえなかった。霞む視界の中で、千里は自分に手を伸ばすひめの姿を見た。ひめの声ももう聞こえなかった。
――行かせるか……!
這ってでも、ひめを取り戻す。取り戻すのだ。
そう自分の体に言い聞かせても、立ち上がる事さえできない。与えられた身体的ダメージにより、千里はとっくに限界を迎えていた。
とうとうひめの姿すら識別できなくなり、必死に持ち上げていた右腕が力をなくして地面に落ちた。もう指一本ですら動かない。
呼吸をするだけで精一杯になった千里の耳には、ずる、ずる、と引きずるような音だけが届き、それもやがて消えた。
残ったのは、大怪我を負った千里と、放り出された二つの通学かばんだけだった。