TopText番犬が行く!
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21 これは終わり。そして。



「もー、ひめってば! ホント心配したんだからね!」
「えへへー、ご心配お掛けしましたー!」
「ホントだよー! おわびに今度駅前の抹茶パフェ奢りな!」
「あれ? あたし奢らされるの?」
「当然だ!」
「えええ? 当然なのー!?」

 少女はクラスメイトである市ノ瀬ひめに力いっぱい抱きついていた。
 市ノ瀬ひめ。クラスどころが、学年どころか、学校中からアイドル視されているこの可愛らしい少女は、二週間ほど前に行方不明になったのだ。下校中の出来事だったらしいのだが、不思議な事に目撃者が一人の例外を除いていない、という不可思議な事件だった。特に人通りが少ない場所での話でもないというのに。
 そんな彼女が、この度めでたく発見され、しかも学校に顔を出してきた。本格的な復帰は来週からだそうで、半日しか授業日程がないこの土曜日に担任と授業について話をしに来たのだという。高校の授業二週間分は大きい。ほとんどの教科が、ひめが不在のうちに新章に突入してしまっていた。
 少女は部活の休憩中、偶然彼女の姿を発見し、これこのように至っている。

「うーんと……でも、あたししばらく寄り道禁止令……」
「……まあ、こんな事があっちゃあねえ……」

 もともとストーカー被害だのの噂が絶えない友人だ。そこに誘拐事件とあっては、ご両親はもう気が気でないだろう。一時は半狂乱だったなどという話も聞こえてきている。
 別に五割くらいは冗談だったのだから、奢りはなしでも構わない。しかし、ひめの自由がますます制限されるのだなと思うと、少々切ない気分だ。
 つい表情が暗くなると、「あ、そうだ!」とひめが明るく元気な声で、こう続けた。

「せんちゃんのお家だったら行っても大丈夫だから、場所がせんちゃん家でもよければ、私がパフェ作るよ!」
「……はい?」「は?」

 少女の声と、少年の声が重なった。ひめの斜め後ろに控えるように立って二人を見守っていた、犬山千里だ。
 彼こそ、市ノ瀬ひめ誘拐事件において唯一の目撃者であり、また大怪我を負ったらしいという被害者であり、かつひめに数日遅れて行方不明になった人物である。
 そして、彼はひめと共に発見されたのだった。
 少女は千里が嫌いなわけではなかった。ただ、少し苦手だと感じていた。千里に乱暴を振るわれた事もないし、そもそも彼が《番犬》さらには《狂犬》などと物騒なあだ名を付けられた理由も、ひめを守りきったが故のものであると理解している。問題はそこではなく、彼が少々ぶっきらぼうというか、とっつきにくいからなのである。つまり、関わりにくいのだ。
 その、犬山千里の家で、抹茶パフェ?
 というか作れるのか、そんなものが、ご家庭で。しかも一女子高校生が。

「せんちゃん家なら、あたしもお出かけ気分味わえるもんねー。駄目かな、せんちゃん」
「……そっちが構わないなら、俺は構わないけど」
「へ!?」

 犬山千里の視線が、少女に向けられていた。少女は目を丸くする。混乱する。動揺する。

「だってー。どうする?」
「あ、え、えーっと……じゃあ、お邪魔しよう、かな」
「わーい、せんちゃん家で抹茶パフェパーティー!」
「三人だけだけどな」
「他にも呼ぼうかなー!」
「……無理強いはするなよ」
「わかってるよー」

 戸惑っているうちに、あれよあれよと話は進む。驚きながらも、戸惑いながらも、了承の返事を出したのはひめがあまりに期待いっぱいの目で少女を見つけてきたからなのだが。犬山千里の家。興味が惹かれないわけではない。しかしそこでいつもひめといる時のような和やかな空気を保てるかは、甚だ疑問だった。
 ついでにもう一つ疑問ができた。ひめが抹茶パフェパーティー(仮)に、明らかに犬山千里を人数に入れている。

「……い、犬山君、て……甘いもの、OKな人なんだ……?」
「ああ、結構食うほうだろうな。ひめにもよく和風カフェとか付き合わされるし」

 無視される覚悟だった呟きに、さらりと肯定の返事をもらった。しかも、心なしか態度がフレンドリーだ。
 おまけに申し訳ないが、千里がひめ特製抹茶パフェを食する姿を想像すると、自然に笑いがこみ上げてきた。きっとものすごく不味い代物でも、絶対に不味いとは言わないであろう。その想像が妙に微笑ましい。とはいえ本人たちの目の前だ。少女は堪えた。
 唐突に、電子的な音楽が流れ出した。聞き覚えがあるような、ないような、不思議な曲だ。とりあえず節回しが和風に思える。
 ひめが慌ててスカートのポケットを探る。

「はわわわ!?」
「アラーム掛けといてよかったな。そろそろリミットだ」
「リ、リミット……?」
「ひめんとこのおばさんから門限指定されてんだよ。そろそろ学校出ないと、門限破りになっちまう」
「た、大変だねえ……」
「まあ、しばらくはしょうがないな」

 千里と普通に話せる事に軽い感動を覚えてながら、慌てて校門へと向かっていく二人の背中を見送った。また来週、と。いつも通りの土曜日と同じ別れの言葉と一緒に。

「……あれ?」

 すっかり二人の姿が見えなくなって、少女は違和感に気がついた。その正体を探し、首を傾げる。

「……お前、こんなとこで何してんだ?」

 ふいに声を掛けてきたのは、小学校からの腐れ縁となる少年だ。彼は怪訝そうな表情を浮かべて、少女に近付いて来る。

「……そっちこそ」
「休憩。あと、どっかの誰かさんが馬鹿みたいにぼけっと突っ立ってっから……いって!?」

 疑いようもなく自分の事を馬鹿呼ばわりされて、少女は容赦なく少年の足を踏んづけてやった。

「ひめが来てたから、ちょっと話してたのよ」
「マジ!? 市ノ瀬さん元気だった?」
「そりゃもう、本当に誘拐事件なんてあったのかってくらい、いつも通りよ」
「そっかそっかー。よかったなー」

 ぽんぽん、と気安く後頭部を叩かれた。彼は、少々ぽやんとしたところがある可愛らしい友人の誘拐事件に、少女がひどく気を揉んでいた事を知っている。その友人が無事見つかったとの報が届いた時、泣いて喜んでいた事も。
 気恥ずかしさに目を逸らしていた少女は、ふと少年を見上げた。

「ねえ、犬山君ってひめの事名前で呼んでたっけ?」
「いや、苗字だろ? 『市ノ瀬』って」
「だよねえ」
「なんで?」
「んー……」

 何がどうしてどうなってこうなったのか、少女にはわからなかった。しかし、一つだけはっきりしている事がある。

 ――とりあえず、来週は学校中の男子が大騒ぎするんだろうな。

 じっと、ひめを可愛いと事あるごとに言う目の前の少年を見ながら考え、溜息を付くのだった。



 × × ×



 二人で通学路を歩く。あの日、一度引き離れた道だ。千里は違う経路を使う事をひめに提案したが、ひめはこの道がいいと言う。ひめがそう言うのならと、千里はあっさり引き下がった。道を変えるかどうかは気分の問題で、現実的な意味合いは一切なかったからだ。

「えへへー。まさか今日偶然会えるとは思わなかったなー」
「よかったな、元気そうで」
「うん! でも、やっぱ心配かけちゃったんだねー」

 嬉し顔が一転して曇っていくのを見て、千里は苦笑した。

「仕方ないだろ、こればっかりは。そのお詫びに、抹茶パフェパーティー、するんだろ?」
「うーん……うん、そうだよね!」

 曇り顔が、再び一転嬉し顔。まったく忙しい感情表現だ。しかしそれが微笑ましく、またあるべき姿なのだと思えば、自然と口元に笑みが浮かぶ。
 千里とひめがここ、異世界において天離界と呼ばれる世界に戻ってきたのは、三日ほど前の事だ。千里は患者服に、ひめは簡素な着物に着替えての帰還だった。御殿中を探してもらったのだが、ひめの制服はついぞ見つからなかった。処分されてしまったのだろう。
 二人は行方不明となっていた間の事を、誰にも話していない。話したところで信じてもらえないとわかっているからだ。これは千里だけでなく、ひめも同意した。結局二人は、その間の事は何も覚えていないという事で合わせる事にした。結果として、新聞には小さく「神隠しか?」という文まで出るに至っている。あながち間違いでもない推測に、二人で顔を見合わせて苦笑したのはつい今朝がたの事だ。
 ふいにぴたりとひめの足が止まった。合わせて、千里の足も止まる。
 そこは、ひめがあの日転んだ場所。
 千里が怪我を負い、ひめが連れ去られた場所だ。

「……なんか、色々あったねー」
「……そうだな」
「怖かったけど。でも、最後の方は楽しかったね。面白かったし」
「あー……」

 ひめを無事に助け出したその後にあった色々な事を思い返し、千里はこれ以上ないほど微妙な表情を浮かべるしかなかった。



 × × ×



 すい、と神が両手を広げ――そして言った。

『さあ……この兄の胸に飛び込んで来い、フツヅチ!』
『ウザッ』

 キラキラ光を纏うミカヅチと、周辺温度を思いっきり下げたフツヅチの間に、奇妙な沈黙が降りた。むしろ千里たち周辺のほうがどうしようもない空気になった。
 しかし、ミカヅチとフツヅチはそんな三人の人間を顧みる事はない。

『「うざ」とは何だ?』
『天離界の言葉での。面倒くさくて関わる事に嫌悪を覚えるようなものに対して言う言葉だ。俗語だがの。兄者にぴったりだ』
『なんと! 愛らしい我が妹がいつの間にやらこんなに口が悪くなって……! 天離界とはなんと恐ろしい場所なのだ!』
『何故己が悪いとは思わんのだ!? そういうところが嫌いなのだ、馬鹿兄!!』
『何故ワシが悪いという事になるのだ!? こんなにも妹思いの兄なのに!!』
『妹思いは素晴らしくとも行きすぎればただの害悪だと知れ!』

 何やら非常に低レベルな口論が繰り広げられているが、千里とひめはさっぱり状況についていけない。頭の中をはてなで埋め尽くした二人は、唯一の頼りである布貴を見る。

「……なあ、布貴。あの二人、兄妹なわけ……?」
「……ええ、まあ。確かに、ミカヅチ様とフツヅチ様は兄妹神として伝えられています。……が。仲の良いご兄妹であると聞いていたのですが……」

 布貴も布貴で、唖然としている。
 口論中の癖に耳聡く布貴の言葉を聞き取ったフツヅチは怒りの形相で、ようやく千里たちを振り返った。

『確かにの! 確かに昔々はるかむかーしはの! 何せ兄者以外の者とはあまり関わり合いにならんかったからの! しかしだ! この十数年ほど、天離界で人間の生活を垣間見てよーくわかったのだ! 兄者は異常だ!!』

 断言した。実の兄(神に血縁関係があるのかどうかはひとまず置いておく)を異常だと、妹はきっぱりはっきり言い切った。
 しかし兄も負けていない。というか気にしていない。

『何を言うのだ! 可愛い妹を可愛いと愛する事の、どこが異常なのだ!』
『程度の問題だ! たかが妹の使い手の性別にまでこだわるなど、どうかしておるわ!』
「……は?」

 今、聞き捨てならない発言が聞こえた気がする。おまけに嫌な予感付きだ。
 しかし千里の疑問を素通りして、口論は続く。

『当たり前だろう! 可愛い妹を人間の男なんぞにやるなど言語道断!』
『なぁにが言語道断だ! 自分は人間の女と子まで成したくせに、ワシは駄目などと理不尽すぎる! 兄者のような者は天離界ではシスコンなどと呼ばれ軽蔑される対象だぞ!』
『ふん、他者から押し付けられた価値観なんぞ、どれほどの値打ちがあろうか!』
『開き直るでない馬鹿兄!!』
「……つーかいつまで兄妹喧嘩してんだお前ら! いい加減にしろ!!」

 気が付くと思わず口を挟んでいた。放っておけばいつまでの続きそうだし、それを聞いていても益があるとは思えない。気になる事もある。というかいつまでこっちを放っとくつもりだと、疲労と嫌な予感があいまって少々短気を起こしたのだ。
 神兄妹の口が閉じ、視線が千里に注がれる。思わず身を引きそうになったが、本当にそれをやってしまうと情けない気がしたので踏ん張った。

『……神同士の口論に口を挟むとは。なかなか気概のある娘ではないか』

 ミカヅチが感心したようにそう言った。それを受け、フツヅチが自慢げに胸を張る。

『ワシの使い手となった者だからの』
『ふむ、良い娘だ。この娘ならば文句はない。……しかし気のせいか? 何やら妙な気配になっておるが……』
『そりゃ、本来男であるのを無理矢理女に姿を変えておるからのう』

 しん、と辺りが静まった。
 祓われたはずの邪気によく似たものが、悪鬼のような顔に変わってゆくミカヅチから遠慮なしに放出される。これは殺気というものだろうかと、千里は真剣に考えた。

『……ぅをーとぉーこぉーだぁーとぉー!?』

 怒り心頭とはこの事か。神から鬼の形相付きの怒りをその一身に受けるも、千里は怯まなかった。自分は悪くない。そう確信していたからだ。少しでも後ろめたい意識があれば、千里はその場に平伏していたかもしれない。

『兄者が五月蝿いから、《お上》に頼み込んで性転換の法を授けて頂いたのだ。神気溢れる天宮界でのみ有効だがの。何らかの事情で男の使い手を得た場合、それだけの事でその者が兄者に八つ裂きにされては不憫極まりないからのう。いや、役に立って良かった良かった』
『中身が男なら同じだ! 八つ裂きにしてやっ………………!!』

 そう言って鬼の形相を千里に向けるも、凝視し硬直する事十秒程度。ミカヅチはがっくりと地面に膝と両手を付き、頭を垂れた。

『でっ、できん……! この美しき娘を八つ裂きになど、ワシには……!!』
『兄者は女に甘いからのう。千里たち言うところのフェミニストというやつだ』

 フェミニストな神ってどうなんだ、とか。美しいとか言われても寒気がするだけだ、とか。どんだけ妹ラブなんだ、とか。言いたい事は色々あったが、とりあえず。

「……くっっっっっっだらねー……」

 自分が女にされてしまった理由を知り、千里は脱力するしかなかった。

「ま、まあまあ、とにかく命拾いしたわけですから、良しとしましょう。あの様子では男だったら本気で殺されていましたよ。私も、あなたが男の姿で現れたならもっと警戒したでしょうし、そうなると今回の事件は本当に手遅れになっていたかもしれません」

 横から布貴のフォローが入る。そして、後ろに隠れていたひめも千里の腕に抱きつくような形で身を乗り出し、言う。

「そうだよせんちゃん! それにせんちゃん、女の子バージョンすっごい美人だよ! 有りだよ! いけるよ!」
「何がだよ!? 普通に無しだろこんなん!? てかそれフォローのつもり!? あと腕離そうか!!」
「えぇー?」
「何でそんな不満そうなんだよ!?」

 千里がひめの腕からの解放を望んだ理由はもちろん、ひめの主張しすぎなくらいの豊満な胸部のためだ。着物を着せられているため随分押さえられているようだが、それでも触れている感触はわかる。これは男には、特に千里には毒だ。
 しかし当のひめは不満顔。布貴もフツヅチもミカヅチも、少女同士が戯れているかのようなあたたかい目で見守るだけ。
 結局そのままひめにひっつかれた状態で、ミカヅチに絡まれ、フツヅチにからかわれ、布貴に同情されながら一夜を過ごすはめになったのだった。



 × × ×



 回想を振り切るように、千里は頭を横に振った。

「あれを面白いと言える感覚は、俺にはないな」
「楽しかったのにー」

 確かにひめは楽しそうだった。それはおそらく、ひめがからかう側に立っていたからだろう。人間とはそういうものだ。
 ちなみに、最初から女であった理由も聞いてみたところ、フツヅチ曰く「いざとなった時に女の体に慣れていないのでは動きづらかろう」との事であった。これには大いに納得できた。

「……女になるのはできればもう御免被りたいけど……」

 近くて遠い、天離界と天宮界。いつまた、ひめが今回のような厄介事に巻き込まれるか知れない。またフツヅチの世話になる可能性も高く、再び女の体になる事もあるかもしれない。
 それに。

「……また会いたいね、みんなに!」

 途切れた千里の言葉を、ひめが繋いだ。千里はひめと顔を見合わせ、そして笑う。
 あの後。皆消耗している上、夜の森を歩き回るのは危険だという布貴の言により、一同はその場で一夜を明かした。太陽が山の裾野から顔を出した頃に、慧斗率いる武装した鳴上の一団が迎えにやって来て、ようやく都へと戻ったのだ。その際に、フツヅチもミカヅチも疲れたのでしばし眠ると言って姿を消した。
 都にもやはり落雷があったのか、所々に焼失した建物があった。道の真ん中に焼け焦げた跡を残している場所もあった。しかし、この程度ならひと月もあれば元通りにしてみせると慧斗が胸を張って宣言していた。
 奈津も福満の店主も店自体も無事だった。怪我が落ち着いてから、一度だけだが、布貴も入れて四人で団子を食べに行った。店主は相変わらずの強面で出迎え、全員の団子の料金を全額まけてくれるという、太っ腹な一面を見せてくれた。
 もう故郷に帰るのだと話したら、奈津は涙を隠しもせず。店主はぶっきらぼうに「そのうちまた来い」と言ってくれた。
 布貴も慧斗も、鳴上神社の人々も、みんな見送りまでしてくれた。慧斗は本気で残念そうで、布貴は「またお会いしましょう」と綺麗に微笑んでいた。
 ひめを取り戻すためだけに行った場所だったのに、こんなにも人との繋がりができるなど、最初は想像もしなかった事だ。
 そして、それがまったく嫌ではなく。一人ひとりの別れを惜しむ態度が、千里の胸にあたたかなものを与えてくれた。

「……会えるさ、きっと」
「うん!」

 近くて遠い、天離界と天宮界。いつかまた、見(まみ)える事もあるだろう。
 ふと、そういえばひめに聞いていない事がある事を思い出した。

「なあ、ひめ。お前さ、終わったらとかなんとか言ってなかったか?」
「ふえ?」
「確か、ミカヅチ降ろす前に」
「……あー、あー」
「なに、発声練習?」
「んにゃ、違うんだけど……なんか、ちょっと恥ずかしい、かも」
「なんだよ、気になるだろ。安心しろ、笑わないから」
「うん、笑わないとは思うんだけどね。……せんちゃん」

 ひめが真正面に立ち、千里の手を可愛らしく握り、照れくさそうな顔で千里の眼を下から覗き込み。

「――いつも、守ってくれてありがとう」

 そう言った。

「あと、あとね。あたし、頑張るよ。もっともっと頑張る。せんちゃんみたいに強くはなれないと思うけど……でも、強く、なるから! もっといろいろ、できるようになるから!」

 言葉が進むにつれて、ひめの手に込められる力が強くなっていく。それは、ひめの意気込みを表しているように思えた。

「……と、いうような事をね。言いたいって思ってたの。離れてる間、ずーっと。でも、こうやって改めて向かい合うと、やっぱりちょっと恥ずかしいね」

 そう言って、頬を赤らめて微笑むひめは、少し前より大人びたように見えた。これはまた、これまで以上に厄介事を引き寄せそうである。これからも大変そうだなあ、と千里は他人事のように考えた。
 もう、ひめと関わっていても損ばかりではないかなど、思い浮かぶ事はなかった。

「……まあ、無理はするなよ。ひめのペースでやればいいからな。もし俺の手が必要なら遠慮なく言えよ」
「あ、じゃあ早速……いいかな」
「早速か。いいぞ、なんだ?」
「手当ての仕方をね、教えてほしいの。あたし、自分が怪我してもいーっつもせんちゃんに任せてばっかりだったから……この間もね、せんちゃんも布貴さんも怪我で痛いの我慢して手当てし合ってたのに、あたしだけ何にもしてなくて、ちょっとべこってなっちゃったんだよね」
「凹んでたのか……」
「凹んだよー。あたしも手当てできるようになりたーいー」
「はいはい、わかったわかった。じゃあ帰ったらちょっとやってみるか」
「うわーい! っと?」

 千里の手を握ったまま万歳をするひめだったが、ふいに可愛らしい効果音がひめの方から鳴り響き出し、首を傾げた。携帯電話のメール着信音だ。誰だろう、ひめはいそいそと片手で携帯電話を取り出し、確認する。もう片手は千里の手を捕まえている。千里は拒絶しなかった。

「あ、お母さんだ」
「なんて?」
「んとねー、『今日は犬山さん宅でバーベキューします! なのではやく帰ってらっしゃい(犬山さん宅にね)』……だって」
「……今日はうちか」
「昨日はあたしの家でせんちゃんの好きなおかずいーっぱい並べてたねー」

 ひめが行方不明になって半狂乱になっていたひめの母親は、千里を責め立ててから一夜明けてみれば千里まで行方不明になった事で、かなり責任を感じてしまったらしい。別に千里の行動は彼女のせいではないのだが、そんな事は彼女には関係ないのだろう。
 無事にひめを連れて生還した千里に、彼女は何度も何度も頭を下げ、昨日は市ノ瀬宅の夕飯に招待された。おかずが千里の好物ばかりだったのは、千里へのささやかなお詫びというわけだ。
 まあ、今晩犬山家と合同でバーベーキューすれば、きっと一段落する事だろう。大方、気の済まないひめの母に、千里の父が「みんなでワイワイ楽しく食べて、それでチャラにしてしまいましょう」とでも豪快な笑顔でもって言いくるめたのだ。そういう男である。

「そんじゃ、とっとと帰るか」
「うん、帰ろう!」



 立ち止まっていた足を、踏み出す。
 あの日、通れなかった道を。
 今度は二人、手を繋ぎ合って。



(完)

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