TopText番犬が行く!

20 絆、永遠に。



「ギキイイィィィィィィィ!!」

 この世のものとは思えないような、思わず耳を塞ぎたくなるくらいの耳障りな鳴き声が梢の音をかき消して響いた。
 すっかり日は暮れ、空は夜の姿。音の発信源を探すも、灯りのない山中では無理があった。

「――《巫術・篝火(かがりび)》」

 布貴の声に伴って、光が生まれた。あたたかな橙色の灯りが、布貴の傍らにふわふわと浮かんでいる。慧斗は「万能ではない」と言っていたが、布貴に限ってはそれが当てはまらないような気がしてしまう。

「……あれは……!」

 術によって生み出された灯りが、布貴の驚愕の表情を照らし出す。布貴の視線を追うと、上空に黒いものが浮かんでいた。本体らしき箇所は球体になっており、それを包むように薄っすらとした靄が漂っている。球体には二つの目と一つの口らしきものがあり、そこだけが白く刳り抜かれているように見える。

『《禍(まが)》だの』

 それを指し示す簡潔な言葉は、フツヅチと名乗る少女の口からもたらされた。しかし、それがどういった存在なのか、千里にはわからない。わからないが、まず良いものではないのだろう、とは思う。《禍》からは、邪気に近い気配が感じられた。

『ひめの体からミカヅチを吹っ飛ばしたと同時に祓ってやろうと思ったのだがな。まあ、間に合わせの刀では仕方ないかのう』
「……あれ。お前、刀は……?」
『壊れた』

 刀に宿っていたはずのフツヅチがそこにいて、刀がない。不思議に思い問いかけた言葉への返答は、簡潔な言葉と指で指し示された方角。見てみれば、粉々に砕けた刀の成れの果てが、そこには散らばっていた。

「あの刀は、フツヅチ様のために用意されたものではありませんから……」
『依代の許容を超えればああなる。人間でも同じだ。ひめよ、汝の取った行動はそういう危険を孕んでおったのだ。以後、気をつけよ』
「は、い……?」

 どこかぼんやりした声で、横たわったままのひめが応えた。おそらくフツヅチの言葉の意味を半分を理解してはいないだろう。後で千里が分かる範囲で説明し直す事になるだろうと、記憶に留めておく事にする。

『さて、と。あれも千里の協力を得ればワシが祓えん事もないが……』

 フツヅチの視線が再び頭上の《禍》へと向かう。

「そんな勿体ぶらなくても、協力くらいするぞ」
『馬鹿者。このような異常事態で精神が高ぶってわからなくなっておるのだろうが、汝は相当疲弊しているはずだ。これ以上無理を通せば、汝もひめ同様器に傷がつくぞ』
「もうボロボロなんだけど」
『だからこそもう無理をさせられんのだと言うとるのだ馬鹿者!』

 純粋な善意から申し出たはずなのに怒られ、二度も馬鹿と言われた。少々ムッとするが、フツヅチは知らぬ顔、聞く耳もなさそうだ。

『それにあの程度の《禍》であれば、布貴、汝にも祓えよう』
「はい」

 フツヅチに振られた布貴はすんなりと頷くと、背負っていた弓を手に取り、また同様に背負っていた矢筒から一本の矢を抜く。
 矢尻を弓の糸に掛け、手前に引き、獲物を見据える。

「――《破魔》」

 静かな言葉と同時に、布貴の手から解放された矢は風より疾く飛び、逃げもしない《禍》の中央を難なく捉えた。
 矢を受けた《禍》は途端に霧散し、二度と元の形に戻る事はなかった。

『《禍》というのは《邪気》の塊でな。濃度の高い《邪気》が一定量集まるとああなるのだ』
「じゃあ、都まで来てた《邪気》が原因で……?」
『いいや、おそらく逆だの。都の外まで流れていた《邪気》は美貴がこの森で行なっていた儀式が原因であろう。ただでさえ、《禍》は周囲に《邪気》を振りまくからのう』
「……美貴ってのは布貴の姉さんの事だよな。なら、あの《禍》はどこから来たんだ?」
『わからぬ』
「オイ」
『おそらくは美貴に憑いていたのだろう。美貴の奇行も、おそらくはそれが原因だな。《禍》は取り憑いた人間の道を大きく誤らせる事が往々にある。しかし、一体どこで拾ってきたのやら……』

 千里はちらりと布貴を見た。案の定、布貴は沈痛な面持ちだ。かと言って、慰める言葉は出なかった。
 神は美貴の体の真下から出てきたのだ。美貴の体すら、もう残ってはいないだろう。下手な慰めは、布貴の心を余計に傷つけるだけに思えた。

『……そこの者なら、知っておるかのう』
「……え!?」

 フツヅチを見る。そして、その幼い容貌に不似合いな鋭い視線が見つめている方向を見る。
 暗いそこを、布貴の《篝火》が照らした。
 無残に焼かれた山の中、生き残った一本の木の枝に立つ女の姿があった。黒い忍装束を思わせる服装、マスクで半分隠された顔、そして冷えきった瞳。間違いなく、城内で千里が戦った女だ。

『千里を通して見ておったぞ。美貴が術で作り上げた魂のない側近の中で、お前だけは生きた人間だった。……何者だ』

 鋭い声に問いかけられた女は、少しの焦りもなく、ただ冷たい瞳でフツヅチを見下ろしていた。

「……やけに鎮まるのが早いと思い、見に来てみれば……よもやフツヅチが復活したとはな」
『美貴に憑いた《禍》は、お前の仕業か。ミカヅチをアラノカミ化させて、何を狙っておった』
「我が主の願いはミカヅチの復活。アラノカミは血と混沌を好む我が主への手土産にすぎん」
『……貴様、もしや……』

 フツヅチの目が丸くなる。しかし、言葉は続かない。
 木の上の女は、ふいと千里を見た。反射的に身体に緊張が走るが、女はそれ以上、千里に向けて行動を起こす事はなかった。

「……良い土産話もできた。もうこの地に用はない」
「っ、待て!」
『よせ、布貴』

 くるりと千里たちに背を向け、またたきのうちに消えてしまった女。踏み出す布貴を、フツヅチが声だけで留めた。

「フツヅチ様、しかし……!」
『状況を考えよ。……追ったところで、今のワシらにあの者を捕らえられるとは思えん』
「っ……」

 布貴も千里も、ミカヅチの件ですでにボロボロだ。仮に追いつき、戦いに持ち込めたとしても、まともな勝負になるとは思えない。布貴も理性でその事を理解しているのだろう。悔しさに顔を歪めつつも、肩を落とした。

「……あの女に、心当たりがあるのか?」
『……確たる答えはわからぬ。しかし、おそらくは悪神の類に仕える者だろうの』
「あくじん……?」
『殺戮、破壊、混沌……そういった物を好む質の悪い神だ。まあ、口惜しい事だが、今回の結果は奴らにとって満足の行くものであったろう。もう滅多な事ではこの地に手出しせぬだろうよ』

 先ほどまで、女がいた場所を見る。それから布貴を見た。消沈した後ろ姿が痛々しい。
 あの女は、ミカヅチの封印を解く事が目的だったらしい。つまり、それを実行した美貴は、あの女に利用されたという事になる。これは、あまりに遣る瀬ない。

『……安心せい、布貴』
「フツヅチ様……?」
『汝の姉は、無事に隠世(かくりよ)へと迎え入れられた。いずれどこぞに生まれてこよう』
「あ、そっか、転生……」
『そうだ』

 人の魂は巡る。次に生まれる先がこの天宮界なのか、それとも天離界なのかは定かではないが、少なくともまた生まれて来るのだ。
 千里としては布貴の姉に対して複雑な感情を抱いていたが、失われたと思えば切なかったし、再びどこかで生を享けると聞いてほんの少し安堵した。次に生まれた者にたとえ生前の記憶がなくとも、それは救いになるように思えた。死んだ本人にとってではなく、ここで生きている人々にとってだが。
 軽くなった気持ちで布貴を改めて見ると、彼女はひどく驚いた表情を見せていた。転生の事を千里に教えてくれたのは彼女なのに、と不思議に思う。

「……姉さんの魂は、失われたのでは……?」
「え……?」

 今度は千里が驚いて、フツヅチを見る。
 フツヅチは、にやりと笑った。ひどく愉快気だ。

『……あの娘、《禍》に憑かれるくらいだ、精神的に弱いかと思えば、どうしてなかなか……これだから人間とは面白いのう。丸裸の魂となり、ミカヅチに吸収される間際だったろうに。ミカヅチに抗うひめに寄り添い、支えておったのだ。己の形すら忘れておったろうにのう』

 千里も布貴も瞠目した。そして、二人揃って、未だ地面の上に横たわっているひめを振り返る。ひめはきょとんとしていたが、やがてふにゃりと表情を綻ばせた。

「そっかぁ……あの人、だったんだ」

 緊張感はなかった。美貴はひめにとって、恐怖の対象といっても過言ではなかっただろうに。

「布貴さん」
「え、あ、はい……?」
「あの人ね、すごく優しい人だったよ。最初は、その、怖かったけど……でもね、布貴さんが来てから、怖くなくなったんだよ。《禍》っていうのが原因なんだったら、その《禍》の影響が薄れちゃうくらい――布貴さんの事が、大好きだったんだね」

 あ、と千里は思った。
 そして、ちらりと布貴を盗み見た。そしてすぐに視線を逸らした。
 泣いていた。きっとその涙には、悲しいだとか、切ないだとか、遣る瀬ないだとか、そして嬉しいなんていう、様々な感情が込められているのだろう。

「あ、りが、とう……ござい、ますっ……!」

 くぐもった声は、おそらく両手で顔を覆ったから。
 本格的に泣き出した布貴に戸惑い、困惑の表情を浮かべるひめが、千里に助けを求めるような視線を向ける。
 千里は大丈夫だ、と笑ってみせた。
 多分、ひめが告げた言葉は、布貴にとってこれ以上ないほど、嬉しい言葉だっただろう。



 × × ×



 涙が落ち着けば、布貴はいつもの布貴だった。

「傷の手当てをしましょう」

 冷静で、穏やかな顔で、そう言った。もちろん、泣き腫らした目をしてはいる。しかしどことなく晴れやかではあった。

「できたらまず、ひめを頼めるか」
「だぁめえぇー!!」
「へ!?」

 提案した途端の駄目出し。発言者はひめ本人である。驚いて振り向くと、ひめはようやっとよれよれと上半身を起こしたところだった。

「な、何が駄目なんだよ」
「あたしじゃなくて、せんちゃんが先! せんちゃんの方が絶対怪我ひどいもん! だからせんちゃんが先じゃなきゃ駄目!」
「いや、だってお前、怪我いっぱいしてるだろ? 痛いだろ? そんなに傷作った事、今までなかったんだし」

 千里はある程度怪我に耐性があるが、ひめにはほとんどない。何せ転んで擦り剥いただけでも泣くのだ。実際、「駄目だ」と言っている今もすっかり涙目だ。あと十秒もすればこぼれ落ちるだろう、という程に涙が溜まっている。

「せんちゃんが先じゃなきゃ、あたし手当て受けないもん!」

 千里の弱点を見事についた反撃であった。かなり捨て身ではあるが。
 手当てを受けさせないなんてあり得ない。しかし、ひめには一刻も早く手当てを受けてもらいたい。
 どう言い返せば納得してくれるかと短い思案の途中で、布貴が横からこう言った。

「確かに、千里が一番酷い状態ですからね。私もひめさんに賛成です」
「んな!?」

 布貴にまでそちら側に立たれては、千里に勝ち目は万に一つもなかった。フツヅチはにやにや楽しそうに笑って見ているだけだった。あの少女もどきは千里が困っている様を見るのが楽しくてしょうがないらしい。悪趣味である。
 結局、千里、ひめ、布貴の順の手当てとなった。普通は男より女が先に手当てを受けるべきではないかと千里などは思うのだが、肝心の女二人にタッグを組まれてはどうしようもない。
 ひめは当然、千里の手当てが終わるのを待っている間に本格的に泣き出すかと思ったが。

「……はれ? せんちゃん、女の子だっけ?」

 思わず、千里ですら痛みを忘れそうになるずっこけ発言をした。布貴はきょとんとし、フツヅチは空中で笑い転げた。

「お前、俺の幼馴染みだろうが……」
「だって……女の子なんだもん」

 背中に受けた傷の手当てのため、ぼろぼろかつどろどろになってしまった着物と肌着を脱いでいる千里の胸を見ながら、ひめはそう言った。今は着物を使って前面を隠してはいるが、着替えシーンをばっちり見られている。ようするに胸の膨らみをがっつり見られたわけだ。
 千里は顔を赤くして言い返す。

「今だけだ、今だけ! そうだろ、フツヅチ!」
『くっくっく! ああ、そうだ。天離界へと戻れば、男に戻るぞ』

 フツヅチは涙目で笑いを噛み殺しながら答えた。
 ひめが首を傾げる。

「てんりかいって、なぁに?」

 ひめは現状についてほとんど何も理解していなかった。その事がこの問いで初めて表面化した。美貴もわざわざ、ここが異世界である事だとか、天宮界と天離界についてだとかの説明もしなかっただろう。今この場にいる布貴とフツヅチについてもわからないはずだ。フツヅチについては千里からも説明しがたい得体の知れなさがあるのだが、本人がいるので説明させればいい。
 千里は手当てを受けながら、ここまでの事を、千里がわかっている範囲で説明した。改めて自分の口から説明してみればひどく荒唐無稽で、一回の説明でひめが納得してくれるかどうか不安を感じたりもした。しかし、千里のそんな杞憂を振り払い、ひめは時折相槌を打ちながら真剣な面持ちで千里の話を聞いていた。
 そして、ひとしきり説明終了後の開口一番。

「ここって異世界だったんだー!!」

 傷の痛みは大丈夫なのかと思うほど元気いっぱいだった。しかも何だか目がキラキラしていた。千里も布貴も、思わず目を丸くする。

「うわー、うわー! 本当にあるんだね、異世界! しかも和風! 神様とか変な術っぽいのとかいっぱい出てきたし、和風ファンタジー!? やーん、ドキドキするー!」
「……ひめ、ひめ。これ、現実だからな。フィクションじゃねえからな」
「はう! そうだった! ドキドキするなんて失礼だよね! でもこう、なんか、湧き出てくるの! 止まんないの! どうしたらいいかなせんちゃん!」
「……とりあえずちょっと落ち着こうか」

 千里の提案を受け、ひめは深呼吸を始めた。千里は苦く笑うしかない。
 確かに、ひめはファンタジー小説を好んでよく読んでいた。世間一般的に出まわるファンタジーと言えば西洋風の世界観だし、そちらもかなりの量を読んでいたが、和風のほうがよりひめの好みに合っているらしく、同じ作品を何度も読み返していた記憶がある。菓子類についても、洋菓子を食べないわけではないが好きなのは和菓子のほうだ。基本的に、和風というものに惹かれるところがあるらしい。
 とはいえ、まさかこれほどまでに興奮するとは思わなかった。

「千里、わふうふぁんたじーとは?」
「ああ……和風ってのは、昔の日本っぽいっつーか……日本ってのは俺やひめの国の名前だ。天離界全体がどうなってんのかはよくわかんねえけど、少なくとも摘伽は昔の日本っぽい文化があちこちに見える。ファンタジーは、幻想的なものって感じかな。創作物の分類で、現実世界とは違う理で成り立ってる世界を舞台にしたりとか、現実世界を舞台に非現実的な要素……つまり布貴たちが使う《巫術》やら《神術》みたいなものを登場させたりとか」
「……なるほど。それは確かに、天離界の方からすれば天宮界はふぁんたじーでしょうね」

 布貴は苦笑に近い微笑を浮かべて、不謹慎なくらいのひめの精神的高揚を許容してくれた。ありがたい限りだ。
 そんな話をしているうちに千里の手当てはとっくに終わり、ひめと布貴の手当てまで終わった。
 ひめの手当ては当然布貴がした。着物の下にかなりの裂傷ができていたらしい。かなり、男からすると際どい場所にも傷があったらしく、千里としては布貴がいてくれて本気で助かったところだ。
 布貴の手当ては千里がした。大きな負傷が脚だけだったので、布貴所有の霊薬を塗り、布貴が《影蔵》から出した晒を包帯がわりに巻くだけだ。もし千里のように背中を負傷していたとしたら、などと考えるのは時間の無駄である。背中に傷はないのだから、それで良しとするだけだ。

「それで、フちゅつ……ふつじゅ……あうぅ」

 ひめが謎の単語を口にして、落ち込んだ。千里はなんとなくわかった。布貴は首を傾げた。フツヅチはおかしそうに笑い、ひめの目の前に移動した。

『ワシの事は好きに呼ぶがいいぞ、ひめ』
「えっと……じゃあチーちゃん」
『ふむ……千里の例から「フーちゃん」とでも言い出すかと思うたが……』
「それも考えたけど、布貴さんも一文字目『ふ』で同じだから……駄目だった?」
『好きに呼べと言うたぞ。チーちゃん。可愛らしいではないか。ワシは気に入った!』

 フツヅチは、その顔だけ見れば本当に愛らしいとしか言いようのない満面の笑顔を見せた。考えた呼び名を気に入ってもらえた事で、ひめの表情をぱあっと明るくなる。

「それで、チーちゃんは何者なの? 布貴さんとはお知り合いなんだよね? 浮いてるって事は、人間とは違うもの? 妖精……は世界観に合わないよね。精霊とか?」
『ふむ、当たらずとも遠からずだの。神は精霊の長のようなものだからのう』
「……神?」「ええー!」

 疑問の声を上げたのは千里だった。ひめは明らかに嬉しそうに興奮していた。
 二人の反応に、布貴が小さく笑って口を開く。

「ご紹介が遅れました……こちらのフツヅチ様は、剣を司る神様でいらっしゃいます。天宮界では戦神と崇められる反面、邪悪なるものを祓う神としても知られています」
「う、っそだろ……!? こいつが神!?」
『真ぞ。神でなくば神に対抗できん……身にしみておろう?』
「ぐっ……」
「チーちゃんすごいんだー」

 能天気なひめの反応に、千里はがくりと肩を落とした。

「……本当にわかってんのか、お前……」
『ひめはこれで良いと思うぞ』

 あまり神様扱いを受けていない本人が良いと言うのであれば、千里は何も言うべきではないだろう。そもそも千里自身も、フツヅチを神様扱いなどしてこなかった。態度を変えるにもいまさらという気がする。フツヅチも文句を言わない。おそらく本人にとっては扱いなどどうでもいい事なのだろう。
 フツヅチは肩をすくめて、真面目な表情を作る。

『布貴はワシの《巫子》の血筋でな。ワシの依代である神剣が失われて以降、強い力を持った者がワシを探す役目を負っていた……力のない人間では、触れるだけで器が傷ついてしまうからの』
「そういや、布貴の探し物だったんだよな、お前……確か、百年くらい前からどこにあるのか、じゃなくて、いるのかわかんなくなってたって」
『うむ。戦争のどさくさで依代が破壊されての……。ワシらにとって、依代は己と人の世を繋ぐものであり、また己の一部でもある。依代が破壊された事でワシは一時的に力を失ってしまい、世界の底へと落ちたのだ』
「世界の底……?」

 初めて聞く言葉に、千里は首を傾げる。見れば、ひめはともかく布貴ですら不思議そうな顔をしていた。
 フツヅチが首をひねり、少しばかり考える。

『正式な名称というわけではなく、そうとしか言いようがないというのが正しいかの。ワシもそれまでそこに触れた事はなかった。物質に溢れた天宮界や天離界とは切っては切れない場所でありながら、決して触れられぬ場所だ。精神世界だと思ってくれれば良い』

 布貴がほう、と溜息を吐いた。

「それでは、どれほどこの世界を探しても見つからないわけですね……。しかし、私の見間違いでなければ、貴女様は千里の中から出ていらっしゃったようですが……」
「おまけに度々夢に出て来てたぞ。……待て、それはある意味精神世界って事になるのか?」
『その通りだ。ワシが落ちた世界の底は人間の精神と深く結びついておった。天宮界、天離界は問わない。もしかするとこの辺りが、双方の世界が深く繋がっておると言われる所以なのかもな』

 フツヅチの言に、千里は少しばかり驚く。

「……お前にもわからない事なのか? 神なのに」
『神というても、先程言ったように、ワシのようなのは精霊の長のようなものだ。そういう疑問に答えられるのは創造神くらいのものだろうな。言うなればワシらは神の末端というところだの。……知らぬ事などいくらでもある』

 どうやら一般的に思われるような全知全能の神様、というわけではないらしい。それはそれで、自分たち人間にも親しいもののように感じられる。それが良い事なのか悪い事なのかは千里にはわからなかったが、少なくともかけ離れすぎているよりは互いにコミュニケーションが取りやすいのではないかと思えた。

『神剣を失ったために形を保つ事もできず、ワシは世界の底を漂うだけだった。そこでも時折世界が見えての……布貴の一族がワシを探している事は知り得たが、だからと言ってワシにできる事はなかった。ところがある日、強い声に呼ばれての』
「声……ですか?」
『気が付くとワシの意識は天離界の人間の精神と繋がっていた、というわけなのだ』
「……つまり……」

 布貴とひめの視線が千里に向かう。千里は驚いて自分を指さした。

「俺か!?」
『そうそう、汝の声を初めて聞いたのは確か八年ほど前かの。がんがん響いてうるさかったぞ、「ひめを守りたい」――と』
「わーわー!!」

 改めてひめがいる前で言われるとあまりに恥ずかしく、千里は大きな声を上げてフツヅチの言葉をかき消そうとした。隣のひめが驚いた顔で千里を見るので、千里はぐるりと顔を背けてひめの視線から逃れる。
 八年前。千里が七歳の頃。思い当たるのは生まれて初めて生命の危機を感じるほど危険な目にあい、大怪我を負った、例の誘拐未遂事件の事だ。確かに思った。ひめを守りたいと、そのために強くなりたいと、初めて意識したのはあの時だ。

「……得心がいきました。無自覚のうちに、千里はフツヅチ様と……神様と接触を持っていたわけですね」
「え?」
「千里、あなたが一人で牢を打ち破った時、あなたからかすかに人ならざる者の気配……それも邪悪なものではなく、どこか神聖な気配を感じたのです」

 千里の脳裏に、懐刀一本で無残に大破した牢の柵が蘇った。千里自身、自分の所業だとは信じがたいあの惨状。千里はフツヅチを見る。

「あれお前がやったのか!?」
『まあ、のう』
「じゃあ俺が時々暴走するのもお前のせいか!?」
『何でもかんでもワシのせいにするでない』

 フツヅチは不愉快そうに表情を歪めて千里の頭を叩いた。そこそこ痛かった。浮遊してはいるが、実体がないわけではないらしい。
 神という、ある意味得体のしれないものが八年も自分とともに存在したのだという事に若干の気味悪さを感じはするものの、そのおかげでこうしてひめを助け出す事ができたのだ。そう思えば、感謝の念は自然に湧く。

「……ありがとな」
『なあに、礼には及ばぬ。汝の強き意志がワシを動かしたのだ。誇って良いぞ』
「そういうもんか?」
『そういう事にしておけ』

 にやにやとした笑顔ではなく、誤魔化すように千里を見ないフツヅチ。何か裏があるのではないかと、千里は無言で疑う。
 そんな千里の心境を知らず、ひめが再び首を傾げる。

「んと……チーちゃんの事はわかったけど……でも、なんでせんちゃんは女の子になっちゃったの?」
「え、なんでって……」

 ひめに疑問に答えようとして、はたと気づく。千里はその答えを持っていない。この世界に送られる際、フツヅチに「女になってしまう」と言われただけなのだ。

「……世界を行き来する際に性別が入れ替わる、必要はないはずですね。実際、ひめさんはどちらでも女性なわけですし」
「だよねー」

 冷静な布貴の見解に、ひめも乗っかる。千里はちらりとフツヅチを見た。フツヅチは至極真面目な顔をする。

『うむ、それはだのう……』

 腕を組み、もったいぶった態度を見せる。
 そこから続く言葉を遮るように、唐突に強い光が鬱蒼とした木々の向こうから放たれた。

「んな!?」
「ふええぇ!?」

 あまりの唐突さに千里も布貴もビクつき、ひめは奇妙な悲鳴を上げて千里の背後に隠れる。
 光は弱まり、ある一定の光量で落ち着いた。それが揺らめくように、木々の隙間から見える。しかも、徐々に千里たちへと近付いて来きている。

「……な、なんだあれ……」
「……もしや……」

 警戒する千里とひめ、緊張する布貴。
 その傍らで、フツヅチがため息を吐いた。

『ようやっとお目覚めかの』

 呟かれた言葉に、思い当たる。
 神だ。
 この地に封印され、長き眠りから邪法により解き放たれた、神。布貴はあれをミカヅチを呼んでいた。
 ひめを無事に救い出せた事により、その存在自体が千里の脳からすっぽんと抜けてしまっていた。おそらく、ひめも布貴も似たような状態だったのだろう。誰も、今この時までその事を思い出しもしなかったのだ。

『――久しいな、フツヅチ』

 そんな言葉とともに姿を現したその神は、暴れ回っていた時の龍姿ではなく、人の形をしていた。重く、しかし耳に心地よく響く低音声。長く伸び、柔らかくうねり金色の光を放つ毛髪。一枚の着物で覆っているらしい四肢は、着物の合わせ目から鍛え抜かれている事が窺える。見る者には、ただ立っているだけで重厚な印象を与えてくる。猛将、という言葉が千里の脳裏を過ぎった。
 知らず、喉が鳴る。どっどっ、と心臓が早鐘を打つ。
 すい、と神が両手を広げ――、



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