プロローグ
蠢く闇
月も星もその輝きを見せないような夜の中。時折強く吹く冷えた風に草木が揺れ、風の音に混じって乾いた音をたてる。
そこは都会とは言えず、かといって田舎とも言えない町だ。どちらか答えなければならないとすれば田舎が選択されるだろうほどに、静かで光が少ない。そんな町の中、一戸建ての住居用家屋が立ち並ぶ住宅街の隅には公園がある。ブランコやすべり台などといった公園としては定番の遊具が設置されており、日が落ちるまでは近所に住む子供たちの姿と声で賑わうような公園だ。しかし、夜の十時ともなれば公園で遊ぶ子供は存在しないし、冷たい外気にさらされるこの場所で夜を明かそうなどという強者もいない。
しかし、そこに蠢くものがあった。
――ぐちゃり。
なにかが潰れる音がした。
その音をたてただろう影は、標準的な成人男性の三倍はなくとも二倍の大きさはある。それはまさしく影のように……いや、闇そのもののように、輪郭さえもが灯りの少ない夜の中に溶けてしまっている。
大きな影が、腕と呼べそうな部位を動かした。その手で、鋭く尖った指先で摘むようにして目の前にあったものを持ち上げる。
大きな影にとって、《それ》は玩具であり、また獲物であった。
摘み上げたことにより、慣性の法則にしたがって《それ》はぶらぶらと重そうに揺れた。それが面白いのか、大きな影は遊ぶようにわざと前後左右に揺らし出した。
「うぅ……あ、ぐ……」
揺れる《それ》が声を上げた。痛そうに、苦しそうに、低く、掠れた音で呻く。けれど大きな影は《それ》が声を上げたことなど気にしていない様子で遊び続けた。
やがて、大きな影は《それ》を地面へと無造作に落とした。どさり、と重く痛そうな音が他に誰もない公園に響き、それとほぼ同時に「がっ」と《それ》から音が漏れた。それは痛みを訴える声だった。しかし、大きな影はやはりそれには一切頓着しない。揺らして遊ぶのに飽きたから手を離した、それだけの行動だった。
そして、大きな影は無造作に《それ》の上に乗り上げた。
「ぐっ……ご、ふっ……、……っ!」
めり、と決して心地よくないはずの音が地を這い、《それ》の体が地面へとめり込む。もしかしたら大きな声で叫びを上げたい心境だったかもしれないが、そうなった時にはもうすでに叫ぶことなど不可能な状態に追いやられていた。《それ》はもう、はくはくと苦しそうに、空気を求めるように口を動かしながら、その端からどろりとした液体を吐き出すことしかできなかった。
大きな影は《それ》の端っこを指先で摘み、そして、思い切り引っ張った。
「っ……!!」
もう声さえ出さなかった。口から漏れたのは押し出された空気だけだった。《それ》は口と目を大きく開き、あちこちからどろりとした液体を流して、体を弛緩させた。
大きな影はびちゃびちゃと液体が滴る手元のものを、大きく大きく開いた口の中に放り込んみ、
――その直後、ぐらりとその巨体を傾かせた。
どしん、ともう動かない《それ》よりもずっと重そうな音を立て、大きな影は地面へと倒れ伏した。その頭には、冷たい輝きを放つ大きな氷柱のようなものが何本も突き刺さっていた。倒れた大きな影は、そのままぴくりとも動かなくなった。
キィ、と金属質な、ともすれば耳を塞いでしまいたくなるような高い音が鳴った。それは自転車のブレーキの音だった。公園のすぐ傍に止まったその自転車の持ち主は、自転車のスタンドを立てることもせずにそれを放り出し、公園の中に飛び込んだ。数秒遅れてがちゃん、と倒れる音がしたが、持ち主が気にする様子はなかった。
自転車の持ち主は息を弾ませた状態のまま、その場に立って周囲を見回した。倒れている大きな影を見て、そのすぐ傍に放られている残骸を見た。反射的に口元を手で覆う。
その状態を一言で表現するならば「凄惨」という言葉がぴったりだった。
目は大きく開かれたままぴくりとも動かない。ぎょろついているその瞳はすでに濁り切っている。自転車の持ち主を見ているようでいて、その実そこにはもうなにも映ってはいない。
口はだらしなく開かれたまま、これもやはりぴくりとも動かない。そこからはだらだらと黒いものが流れ落ちている。光を当てれば赤色として認識できるだろう。
右の腕は、存在しなかった。右の肩から曲線を描くようにパーツが欠け落ちており、衣服は黒く染まっていた。これも、口から流れているもの同様、光を当てればやはり赤いのだろう。
胸から腹にかけては、地面にめり込む形でひしゃげていた。背骨はいくつかの骨を繋ぎ合わせてあるのだからある程度は曲がるものだ。しかし、そんな体の仕組みは意味を持たないかのように、不自然にひしゃげていた。衣服や肉に隠されているが、背骨も肋骨も、目を当てられない状態になっていることだろう。
腹から下は、なかった。
自転車の持ち主は、それを確認すると再度大きな影が倒れていたはずの場所に視線を向けた。大きな影は消えていた。その名残すらすでに消失していた。代わりと言わんばかりに、そこには腹から足までのパーツが転がっている。
生きたまま引きちぎられたのだろうということは、容易に想像できた。
その光景すべてを確認し終えた自転車の持ち主は、よろけるように数歩後ずさり、握った拳を震わせた。
「……くそ!」
自転車の持ち主は、沈痛で、後悔にまみれた声を吐き出し、右手の中にある長い棒状のものを強く握り締めた。体の震えがそれにまで伝わり、白いそれが闇の中でかすかに揺れる。
自転車の持ち主は、しばらくその場に立ち尽くした。しかし、すでにこの場においてできることはなにもなかった。
数分後、自転車の持ち主はようやくあきらめたようにか細く息を吐き出した。空を仰ぐが、そこには月も星も姿がなく、慰めにも気分転換にもならなかった。
再度、もう二度と瞬くことのない濁った瞳を見る。苦痛と恐怖に染まり、歪み、固まってしまった表情を見る。咽返るような血のにおいが充満する公園の中で、自分の失態を呪うように下唇を噛み、眉間に皺を刻み、目の前の光景を胸の中に、記憶の中に焼き付ける。
間に合わなかった。それは取り返しのつかないことだった。謝罪も懺悔も、どんな言葉もすでに意味はない。理解しているからこそ、目の前の光景から目を背けることはできなかった。
やがて、自転車の持ち主は、救えなかった名前も知らない誰かに向けて合掌し、数秒ほど黙祷を捧げた。
それが終われば、凄惨な様相の亡骸にくるりと背を向け、その場をそのままにして、倒れた自転車を起こし、それに乗って姿を消した。