TopText姫とナイトとウィザードと ~ナイトの章~

第1話 黒い獣と謎の少女
01 日常



 走るのが好きだ。
 後方へと流れる風を全身で感じながら、なんとはなしに、しかし強く思う。
 ゴールとなるグラウンドの片隅にあるネット群だけを目指し、ひたすら走る。周囲の色も音も遠くなり、ただ走る。
 勢いのままネット群の前を滑るように通り過ぎてから徐々に減速し、ようやく息が上がっていることを自覚する。この息苦しさはあまり好きじゃないが、走っている瞬間の爽快さはなににも代えられない。いつもは思わず顔をしかめるような冷たい空気も、今は火照った体に心地よく感じる。汗をかいたから、このままでいたら風邪ひきそうだけど。
 足を止め、空を見上げる。薄い灰色の雲が空を覆い隠していて、爽快さ半減だ。見るんじゃなかった。

「お疲れさま、井澄くん。はい、タオル。はやく汗拭かないと、風邪引くよ」
「おお、サンキュー高坂」

 マネージャーの高坂がタオルを差し出してくれたので、感謝して受け取る。高坂は部員全員が認めるくらい優秀なマネージャーだ。いまだかつて、どのタオルが誰のものなのか、間違えたことがない。こんなこと程度で優秀だと言われても高坂としては微妙だろうが。いや、タオルのことだけじゃなく、対戦校のデータのまとめとか、ほんとすごいんだ。試合ってなると、高坂が作った対策ノートに部員全員が助けられたもんだ。
 俺がタオルを受け取って軽く汗を拭き始めると、高坂はすぐに、今俺がやってきた方向へと足を向けた。

「お疲れさま、真嶋くん」
「また井澄がイチバンかー!」

 後方から追いついてきたらしい部活仲間の真嶋が悔しそうに声を上げた。俺は真嶋を振り返り、にやりと笑ってやった。

「そー簡単に抜かされちゃ、元陸上部の名折れだからな」
「ちぇー」

 真嶋もまた、軽い調子で「サンキュ」と言いながら高坂からタオルを受け取り、汗を拭く。その後方から白い息を吐き出しながらこっちに向かってくるもう一人の姿が見える。

「お疲れ御端ー」
「お、おつか、れっ……二人とも、速い、ね……!」
「御端も十分はえーよ。ま、俺や井澄ほどじゃねーけどさ!」
「う、うん!」

 どもる癖がある御端も、真嶋同様部活仲間だ。
 俺と、真嶋と、御端。三人ともクラスは一年九組。つまりクラスメートってわけだ。部内で足の速さトップ3(ついでに身長もどんぐりの背比べ……これは激しくどうでもいい)が同じクラスってどんな偶然だ、と何ヶ月か前には部員みんなで笑ったものだ。

「お疲れさま、御端くん。はい、タオル」
「あ、あ、ありが、と!」

 俺や真嶋同様、やっぱりどもりながら感謝の言葉を告げて高坂からタオルを受け取る御端の横で、俺と真嶋は次の練習メニューの話題に移る。

「次、柔軟だよな」
「おお」
「御端、一緒にやろーぜ!」
「う、うん!」
「いやいや、待て待て。お前らちょっとは学習しろ。間壁が怒るだろーが」

 飛びつかんばかりの勢いで御端に対して身を乗り出す真嶋の襟首を掴んで引っ張る。「御端も元気よく頷くんじゃない」と言ってやりたい。言ってやったところで真意は伝わらないだろうけどな。
 間壁は短気かつ無駄に心配性で、御端のことによく口を挟む。その大半が心配による行動の制限であり、特に真嶋と一緒だとその傾向が顕著だ。別に真嶋と一緒にいるなってわけじゃなくて、単に真嶋に引っ張られて御端まで無茶して怪我したりしないかとひやひやしているわけだ。また、御端も基本的に間壁に口答えしないもんだから、間壁の口出しはエスカレートしがちになる。
 まあな、間壁の気持ちもわからなくもないよ。真嶋はすっげーアクティブでゴーイングマイウェイだし、部内一の元気っ子かつやんちゃっ子だ。俺だって、真嶋と御端が一緒にいると危なっかしくは思う。けど、どう考えても間壁は心配しすぎだ。真嶋だって御端だって、それぞれそれなりにちゃんと考えてんだから。三度のメシと同じくらい好きな野球ができなくなる状況に、誰が自分から飛び込んでいくよ。いくら間壁がキャッチャーで御端がピッチャーだからって、うざいにもほどがあるだろ。
 真嶋が面白くなさそうな顔をする。

「いーじゃねーか別にー」
「俺に言うなよ、間壁に言え」
「う、え、えっと……?」

 ……まあ、加えて御端が若干天然っぽいのも、間壁の心配性に拍車かけてる気もしなくはない。そういう点では俺もたしかに心配だ。詐欺とかの被害にあいそうで。

「んじゃ井澄が御端と組めよ。だったら間壁も文句言わないだろーしさ!」
「は?」

 いや、別に俺じゃなくてむしろ間壁と組ませてやったら安心だと思うんだけど。間壁が。
 言い返す前に真嶋はくるりと方向転換。

「てーらっもとー! 柔軟しよーぜー!」
「あー!? ったく、元気だな真嶋は……」
「じゅうなーん!」
「わーった、わーった! けどもうちょっと休ませろ!」
「寺本ナンジャクだなー」
「お前の元気さが異常なんだよ!」

 続々とゴールに到着する部員たちの中から我らがキャプテン・寺本を選び出し(これはおそらく、単に一番近い位置にいたからだ)、駆け寄っていく真嶋。
 寺本の声に心の中でだけ同意を返して、俺とともに取り残された御端を見る。御端は困った顔をして寺本にじゃれついている真嶋を見ている。次いで、間壁の姿を探す。すでにゴールにはたどり着いているが、今目の前でタオルの受け渡しが行われているところだ。見たところ、呼吸が落ち着くまでもうしばらくかかりそうな感じだ。
 十一月中旬。冬の足音が聞こえてきそうな秋。すでに乾いた冷気が充満している。ランニングのために汗もかいている。いくら鍛えていると言っても、このまま突っ立ってたら風邪を引くだろう。
 ……ま、いっか。間壁だって、御端が風邪引くのは不本意だろうし。
 ほとんど汗を拭けてない御端に目を向けて、言う。

「とりあえず、ちゃんと汗拭けよ。そんで柔軟しようぜ」
「う、うん。……あの、い、井澄、くん」
「ん?」
「よ、よろしく、お願いします……」

 馬鹿丁寧に頭を下げられた。こんなこと程度で、と部内短気代表の間壁なんかはイラっとくるんだろう。俺は、もう御端のそういう行動にも慣れてて、そういうのが御端だって思ってるから、「おー」と軽く返した。


 * * *


 俺が所属する北上里高校野球部は、今年新設のできたてほやほや野球部だ。正確には、何年か前に一度廃部になったのが復活したらしい。
 部員は全員一年生。過去の経験や積み重ねという実績は一切ないし、普通の公立高校だから特に野球が上手いやつが集まるわけでもなく、新設なもんだから人数も少ない。部員十一人、うち一人はマネージャー。プレーヤーは十人。正直、かなり、ギリギリだ。
 と、まあ、マイナス面はたしかにあるけど、俺は現状を悲観してはいない。というか、むしろ楽しくてたまらないくらいだ。
 俺が野球をするようになったのは、実は中学二年生になってからだった。それまでは陸上部の所属だった。単純に走るのが好きだったからだ。
 走るのが好きだ。周囲を置き去りにするように駆け抜ける爽快感がたまらない。けれど、陸上はひとりきりだ。部活仲間はそれなりに仲が良かったが、コースに立てばみんなひとりだった。自分ひとりの力で駆け抜けなければならなかった。それを不満に思ったことはなかったけど、少しさみしいとは思っていた。
 ところがある日、野球部に所属するクラスメートから練習試合の助っ人を頼まれ、それを引き受けて以来、俺の日常は一変した。
 野球はみんなで勝ち抜くスポーツだ。バットを振りぬき、ボールにぶつけ、塁に出る。ここまでは特になんとも思わなかった。しかし、ホームに戻った瞬間、本来の部員でもない俺を嬉しそうな笑顔で歓迎した野球部の連中に、「いいなあ」と思わされた。
 誰かが上手いことやれば我がことのように喜び、誰かが失敗すれば背中を叩いて強く励ます。そういう触れ合いが、「いいなあ」と思った。
 それだけと言えば、それだけだ。けど、この「いいなあ」が原動力になり、俺は陸上をやめて、野球に打ち込むようになった。
 別に、メジャーなとこで言えばサッカーだってチーム戦だし、そっちも嫌いじゃないんだけどな。どうも俺は、ボールを蹴るよりバットを握って振るほうが好きらしい。
 幸い、元々運動神経はいいほうだし、動体視力もそれなりによかったからか、すぐ試合に出れるようになった。もっとも、そんなに強い部じゃなかったけどな。
 基本的に体を動かすのが好きだから練習もそんなに嫌いじゃなかったけど、試合のほうが部活仲間との絆みたいなものを感じられた。そういう経験をして、ますます野球にはまっていった、というわけだ。
 高校は、行けそうなら公立に行ってくれとおふくろに言われて、特に野球部の強さとか考えないで、通いやすそうな立地かつ自分の成績で行けそうなところ、という理由で北上里高校を選んだ。最初は、野球部がないってことでどうするか悩んだんだけど、下見の時に偶然にも野球部の顧問をする予定だという先生に会うことができ、ただの一候補から第一志望校になったのだ。ちなみに、なぜ公立なのかと言えば、兄貴が私立の大学に行ってしまったからだ。学費が高いんだと。
 顧問になる先生の雰囲気はいい感じだったが、部そのものの雰囲気がわからない点で結構な賭けだったと思う。
 しかし、大当たりだった、と入学して半年以上経過した今の俺は思っている。
 まあ、人数が少ないって点はどうしようもなくデメリットだ。二人負傷したら、その時点で試合ができなくなってしまうというリスクがある。しかし、先輩がいない分みんなのびのびとプレイできるし、人数が少ないからこそ部員の絆は他校の野球部より強固なものになっている。少なくとも、俺はそう感じている。そういうところが、結構気に入っていたりする。

「うー、さっみぃ!」
「言うなよ、余計寒くなる」
「コ、コンビニ、寄る?」
「だな! 肉まん食いてー!」
「お、おれ、あんまん……」
「んじゃ、俺はピザまーん」

 練習を終え、御端や真嶋と並んで自転車を押しながら歩く。自転車に乗ったほうが速いのは速いが、走るほど運動にはならない自転車で風を切っていくには、風が冷たすぎる。
 吐き出される息はもう一週間ほど前から白くなってきている。そういうのを見ていると、もうすぐ冬だなあ、としみじみ思う。
 空を見上げても、正しく空は見えない。どんよりと重たそうな雲が空を隠している。月の位置も、光のおかげでおぼろげにわかる程度だ。星なんてまったく見えない。
 エネルギーが足りないと嘆く体をコンビニに向け、三人それぞれ宣言どおりのものをささっと購入し、コンビニの脇で早速それにかぶりつく。ほっかほっかの湯気を上空へと放つそれは想像以上に熱くて、三人して「あっちぃ!」と笑う。けれど、その熱もすぐ外気によって冷めていき、食べやすい程度の温度へと変わっていった。
 部活後の買い食い、寒い日のピザまんは最高だな。や、肉まんもあんまんも好きだけどな。今日はピザまんだから。そんな気分だったんだよ。
 ほふほふとあったかいそれを食ってたら、なんか胸がほかほかしてきた。何気ない瞬間だけど、こういうとき、なんか無性に「幸せだなー」と思う。以前、真嶋や御端にぽろっとそんなことをこぼしたら、馬鹿にされるかとも思ったけど二人は「俺もだ」と笑って同意を返してきた。そのときも、「幸せだなー」って思った。
 なんでもない日常ってのが、一番《幸せ》なのかもしれねーな。



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