第1話 リデルとシルヴィア
03 再訪
* * *
シルヴィア姫は、お茶とクッキーを盛った皿を空にされた後に我が家を去られた。王城までお送りしますと申し出たのだが、「いいよそんなの!」「いらないいらない、大丈夫だから!」と笑顔で押し切られてしまい、結局お一人で帰してしまった。
ごとん、と小さめサイズの石臼をテーブルに用意して、小さくため息をつく。昨日、我が家を訪れたシルヴィア姫のことを思い出すと自然と出てくるのだ。すでに日は傾きつつあるが、今日一日でいったい何度ため息をついただろうか。
シルヴィア姫本人があまりに強く拒否なさるので、こちらもあまり強く出ることはできなかったが、やはり王城まで、せめて城壁の前まではご一緒すべきだったかもしれない。年若い姫君を一人、日が暮れかかっている時分に歩かせるというのは、ものすごく非常識なことだったのではないか。時間が経って、考えれば考えるほど、己がとてつもなく迂闊なことをしたような気がしてくる。
とは言っても、後の祭り。あれからほぼ丸一日が経過している。街で騒ぎが起こっていないところを見るに、おそらくシルヴィア姫は無事お帰りになられたのだろう。
……思えば心臓に悪い出来事だった。
いくら顔がそれほど知られていないとはいえ、姫君が一人で出歩き、我が家にやってくるなんて。
かつて王城の敷地内で暮らしていたとはいえ、私自身は一介の魔術師にすぎない。階級で言えば一般市民と変わらない。本来ならば言葉を交わすことも、同じテーブルにつくこともないような相手だったのだ。
あまり繊細な神経をしているつもりはないですけど、さすがに王族を前にすれば緊張くらいはします。……私、無礼なことはしてないですよね? ため息をついたりはしてしまいましたが、シルヴィア姫はあまり気にされていなかったようですし……。
まあ、もうあんな出来事は起こるまい。
私は先日採取してきた植物の束を手に取り、石臼の中にそれを放り込み、すり棒を握って慣れた手つきですりつぶしていく。
ふいに、玄関のほうからチリンチリン、とベルの音が届いた。私はぴたりと手を動かすのをやめ、そちらに目を向ける。今のは、我が家の玄関先に取り付けられている来客の呼び出し用のベルの音だ。
お客様でしょうか。テーブルに並ぶ仕事道具たちを、とりあえずキッチンにでも一時的に退避させてしまおうと再度手を動かすと、
「リーデールー?」
昨日聞いたばかりのソプラノが、ドアの向こうから投げかけられた。時が止まるという感覚を体感した瞬間だった。
普段なら絶対にしないような乱暴な手つきで持ち上げていた石臼をテーブルの上に放り出し、慌てて応接間を出て途中で無様にも足をもつれさせよろめきながら玄関のドアに手を伸ばす。
勢いよく開いたその先には、昨日と変わらない様子のシルヴィア姫が、笑顔で、そこに立っていらっしゃった。
予想外すぎる事態に言葉を出せずにいると、目の前のシルヴィア姫が小さく笑う。
「リデルでもそんなに慌てることってあるのねー。なんだか変な感じ!」
楽しそうに言いながら、私を見上げてこられる。
目の前にいるのは王族の一人。一般市民である私が直立した状態で、少し背の低いシルヴィア姫を見下ろすなどという状況は本来許されるべきものではない、はずだ。しかし私の体と思考は硬直しており、肝心のシルヴィア姫は気分を害した様子など欠片もない様子で、笑顔で、小さく首を傾げられた。
「近くまで来たから、リデルいるかなーって思って来たんだけど……忙しかった?」
「い、いいえ……そんなことは……」
「じゃあ、ちょっと休憩させてもらっちゃってもいい?」
「……どうぞ」
私は体を横にずらし、シルヴィア姫のために道をあけた。姫君からの願いです、そうするほかにどうしろと言うのですか。
しかし、さすがに気になったので、我が家に足を踏み入れられたシルヴィア姫に尋ねてみる。
「あの、シルヴィア姫……少々お聞きしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか……?」
「うん? なぁに?」
「……また、お一人でいらっしゃったのですか?」
「当然じゃない! 誰かと一緒じゃ、お城を抜け出すなんて無理だもん!」
…………。なんとなく、そうかなぁ、とは思っていましたけど……。やはりそういうことでしたか……。
姫君に出し抜かれるような王城警備に一抹の不安を抱き、お一人で街を歩き回っていらっしゃる風のシルヴィア姫に寒気がした。
この王都リオールは、王城を抱えているだけあってほかの都市に比べれば治安がいい。とはいえ、姫君一人で出歩き、なにか不穏な出来事に巻き込まれてしまっては大変だ。ただでさえ、シルヴィア姫は自身を危険から守るための力が少ないのだから。
「……私のような一介の魔術師がこのようなことを提言してはお気を悪くされるかもしれませんが……その、そういった行動は慎まれたほうがよろしいのでは……と……」
狭く短い廊下を先へ行くシルヴィア姫が、応接間の直前で立ち止まり、くるりと背後から追いかけていた私を振り返った。たっぷりした髪の毛と、柔らかそうな素材のスカートがふんわりと揺れる。振り向かれるとは思っていなかった私は、心持ち顎を引いた。
てっきり不機嫌そうな顔をされているかと思ったのだが、シルヴィア姫はなぜだか、なんだか、とてつもなく嬉しそうに微笑んでいらっしゃった。
「そういうの、どんどん言ってくれたほうが私は嬉しいな」
「は……?」
「お説教は好きじゃないけど……リデルの言葉はばあやたちの言葉によく似てる気がするの。私のこと、心配してくれてるのよね」
「……えぇっと、その……」
「注文をつけるなら、もっと遠慮なく言ってほしい、ってことろかな」
無茶な注文を追加してこられるシルヴィア姫になんと返していいものか困っているうちに、シルヴィア姫は再びくるりと前方に向き直られた。
「ところでさ……やっぱりお仕事中だった?」
「え……あ、いえ。仕事、と言えば仕事ではありますが……」
なぜシルヴィア姫がそんなことをお聞きになるのかは簡単なことだ。シルヴィア姫の視界には、先ほど私がテーブルの上に放り出した道具類と植物が散らばっている。
シルヴィア姫が一歩中に進まれたことで、私も応接間の中に滑り込み、ちらかっているものをキッチンに退避させようと手を伸ばした。
「それ、なぁに? なにか作ってたの?」
「えぇっと……薬、です。擦り傷によく効くものでして、作り置きしておいた分がずいぶん少なくなりましたので……」
「リデルってば薬も作れるの!?」
なぜかシルヴィア姫の瞳がらんらんと輝く。
私は手を止め、シルヴィア姫の次の行動を待った。シルヴィア姫は何度か目を左右に泳がせられた後、姫君らしくなく、少し遠慮がちに口を開かれた。
「作ってるところ見てみたい、かなぁ……なんて。だめ……?」
姫君が小首を傾げて一般市民にお願い。
はたしてそれを断れる一般市民がいるでしょうか。
「……日が暮れる前には、お帰りくださいね……」
「やったー!」
シルヴィア姫のお願いを許容した私に罪はない。……はずです。
片付けるつもりで手に取った石臼を再びテーブルの上へと乗せ、シルヴィア姫には気づかれない程度に肩を落とす。
シルヴィア姫に、昨日同様に椅子をすすめ、手ぶらで一度キッチンへ向かった。手早くお茶を入れ、少々悩みはしたものの、昨日と同じクッキーを用意する。作り置きしてあったものだ。姫君に二日連続で同じものをお出しするのは無礼に値するのではないかとも考えたが、シルヴィア姫は昨日お出ししたクッキーを食べ切ってからお帰りになられた。おいしい、と言ってくださった。あの言葉と笑顔はお世辞でも心無い嘘でもないと思う。
トレーにポットとカップ二人分、それにクッキーを盛った皿を載せ、応接間に戻る。
シルヴィア姫は戻った私が運び込んできた物を見て、ぱっと笑顔を輝かせられた。それを見て、私は自分の選択が間違っていなかったことを知り、こっそりと安堵する。
「リデルのクッキー! うれしい、また食べたいと思ってたの!」
「別に、なんの変哲もない、普通のクッキーですけれど……」
レシピ的には、一般的に出回っているごくごく普通のものだ。普通すぎるし、飾り気もない。王族どころか貴族の方にお出しすることも失礼に値しかねない。お客様には礼儀の一環としてお出しすることにしているが、稀にここまでいらっしゃる貴族の方がこのクッキーに手を伸ばされたことはなかった。
しかし、シルヴィア姫は身を乗り出して力説される。
「そんなことない! リデルのクッキーはとってもおいしいよ! 私、お城でもこんなにおいしいクッキー食べたことないもの!」
「……それは、その……恐縮、です……。お茶もどうぞ……あまり上等なものではなくて申し訳ありませんが……」
「いいよいいよ、そんなの気にしないで!」
シルヴィア姫の言葉は、非常にストレートだ。……顔が赤くなっていなければよいのですが、と小さく胸の中で祈った。
しばらく。
私は薬草をごりごりとすりつぶし、シルヴィア姫はクッキーをつまみながら私の手元に視線を注ぎ続けた。危うく集中力が転げ落ちていきそうにもなったが、とにかくひたすら無心で薬草をすりつぶした。
すりつぶしたものを別の容器に移し、別の薬草を煮て作り出した液体をその中に流し込み、これまたひたすら無心に混ぜ続けた。シルヴィア姫の視線は、変わらず私の手元に注がれていた。
はっと窓の外を見やれば、景色は橙色に染め上げられ、さらにうっすらと青みを帯びてきていた。日暮れだ。
「あの、シルヴィア姫……そろそろ……」
「え……ああ! もう日が暮れちゃう!?」
シルヴィア姫も外を見て気づかれ、焦っておられる風に席と立たれた。勢いのよさに、椅子ががたんと音を立てて揺れた。
「うぅ~……でもそれ、完成じゃないよね……?」
「ええ、まあ……」
「……完成、いつ? 明日の昼過ぎまでかかる?」
「さ、さすがにそれは……本日中に出来上がります……」
「だよねぇ……ちぇー、完成まで見たかったのに」
姫君が舌打ちなどはしたない……とは、どういうわけか思わなかった。
その代わりに口をついて出てきた言葉に、喉がからからになってしまうという現象に見舞われるはめになる。
「申し訳ありません、その、ではまたの機会に……」
全身が震えた。自分が言った内容にとてつもなく後悔した。こういった事態も珍しいが、こんな珍しさは少しも嬉しくない。
なにをさらっと次の約束をしているのでしょうか、私は。いえ、社交辞令、これは社交辞令です。シルヴィア姫がとても残念がっていらっしゃいますし、やはり今のは姫を元気付けるためには必要な一言であって……。
私がぐるぐると自らに言い訳を重ねていると、シルヴィア姫がふっと微笑まれた。
……なぜか、泣き出してしまわれそうだと、思った。
「……来て、よかった」
「え……」
「ほんとはね、リデルに会うの、ちょっと怖かったの。リデルの態度が変わってたらどうしようって思って……でも、勇気を出して、来てよかった。リデル、ちょっと戸惑ってる感じはするけど基本変わらないし、優しいし」
「そんな、優しいだなんて……」
言葉に詰まる。
私は、シルヴィア姫がなぜそんなことをおっしゃるのか、その理由を知っていた。
彼女は、当人ではどうしようもないことが原因で身内の方々との仲がよろしくない。それは彼女を取り巻いているだろう貴族にも影響を及ぼしている。
彼女に普段向けられる視線や言葉と比較すれば、それは、確かに私の態度ははるかに優しいものになるだろう。一般市民として高貴な方に対する線引きは、一応させていただいているつもりだが、それでもシルヴィア姫にとってしてみれば、私の態度は非常に貴重なものに違いない。
泣き出してしまわれそうだと思ったが、シルヴィア姫は泣かれなかった。
代わりに、とても嬉しそうな顔をされた。
「また、来てもいい?」
「…………はい」
私には、頷く程度のことしかできなかった。