TopText姫とナイトとウィザードと

幕間
約束(前編)



 その日、少女は初めて自分の世界を抜け出してみた。抜け出した、というよりは、逃げ出した、と表現するほうが正しいのかもしれない。
 少女は、自分を取り巻く世界が嫌いだった。父も母も兄も姉も、親戚のみんなも、そのほかの大勢の他人も、少女のことをとても嫌な笑みでもって見下ろすのだ。彼らの言葉や態度は少女をひどく傷つける。世話をしてくれる乳母や侍女たちは少女にとても優しくしてくれたけれど、身内から与えられた痛みを癒してはくれなかった。
 もやもやと重たいものがぐるぐるして胸の真ん中に溜まってどうしようもなくなって、それが限界に来た時、少女が選んだのは、その世界を囲むようにそびえる壁の外に飛び出すことだった。それまでその大きな壁の向こうに出て行ったことのない少女にとって、それは一大決心であり、大冒険と言えた。
 門のところに立っている騎士に見つかったら捕まるだろうから、と少女は抜け穴を使った。誰にも内緒だが、大きな壁の隅のほうに、植木に隠れてはいるが、ひとがひとり通れるくらいの大きさの穴が開いているのを、少女は知っていた。いつどうして開いたのかは知らないけれど、ある日偶然、少女はそれを見つけてしまったのだ。それから誰にも言わなかった。大好きな乳母にもだ。それはもしかしたら、心の奥底で、いつか逃げ出そうとずっと考えていたからなのかもしれない。
 穴を通り抜けて壁の向こう側に出た少女を真っ先に迎えたのは、緑色の茂みだった。少女は緑を慣れない手つきで掻き分け、隙間から這い出て、自分が出てきたであろう場所を見た。そこは草や背の低い木が生い茂っていて、どうやら壁の外側からも穴をすっかり隠してしまっているらしい。
 左手側を見てみると、少女がくぐり抜けた壁と同じだけの高さがある壁があり、その上から茶色い大地の壁が少女を見下ろしていた。
 少女は右手側を見た。そこは光に照らし出されていた。なにかに突き動かされるように、少女はそちらへ飛び込んでいった。
 初めて見る外の世界に、少女は胸を躍らせた。同時に、ひどく困惑した。今までの世界では見たことのない人々が、見たことない作りの服を着て歩いている。それもたくさん。外の世界にはこんなにたくさんひとがいるのかと、少女はぽかんとしてしまった。壁の中の世界にもひとはたくさんいたが、壁の外はそれ以上だった。
 外に出ること以外に目的を持っていなかった少女は、初めて見る大勢のひとの姿にドキドキと胸を高鳴らせながら、ひとが多いほうへと足を進めた。
 建物は所狭しと並び、大きくて整備されている道も小さくて整備されてない道もある。壁に囲われた小さな世界に比べれば無秩序で、けれどそこはずっと自由に見えた。呆然として、感動した。
 けれど、初めて足を踏み入れた世界だ。少女には右も左もわからない。少女はどうしたらいいかと途方にくれ、きょろきょろと周囲を見回しながら歩いた。
 細くて暗い小路の横を通った時、にゅうっと出てきた一対の腕に捕まり、そのまま口を塞がれた。声を出す暇もなかった。それはあっという間の出来事で、自分たちのことで精一杯の道行く人々は、通りから一人の少女が消えたことに、誰一人として気づかなかったようだ。
 少女はなにが起こったのかと驚いて、自分を抱えているらしい誰かを見上げた。それは体の大きな男だった。少女は現状を理解できないままだったが、その男が自分に向ける目を見て驚いた。弾んでいた心が固まり暗い水の底へ沈んでいくのを感じた。それは、いつも少女に向けられる嫌なものによく似ていた。少女を傷つける、とても嫌な目だ。そんな悲しく嫌なものが外の世界にも存在していたことに、少女は大きな落胆を覚えた。結局どこへ行ってもその目から逃れられないのだと、誰かに言われているような気がした。諦めのような感覚が、少女の内側から体中を満たすように沸きあがった。

「なにしてんだよ、おっちゃん!」

 その声は大きくて明るい通りのほうから聞こえてきた。少女と同じ、子ども特有の高い声が、細くて薄暗い道に響いた。
 声の主は、少女と同じ年頃の少年だった。
 少年は、この近くで商売をしている家の子どもで、少し前から通い始めた武術道場へ向かう途中だった。少年は視野が広く、視力も良かった。暗い道で女の子を抱える男の姿を発見し、深いことは考えず、とっさに声をあげたのだ。

「おっちゃん、まさか人さらいか?」
「な、なに言ってんだ坊主っ……人さらいだなんて人聞きの悪い。迷子みてぇだから保護してやっただけだ」
「ふぅん……」

 少女はなぜ少年と男がにらみ合っているのかわからなくて、ただ大人しくしていた。じっと前方にいる少年を眺めた。同じ年頃の少年の存在は、年上に囲まれて育った少女にとってはとても珍しいものだった。
 少年は男に抱え込まれたままの少女を見た。少女は男の大きな手によってあからさまに口を塞がれている。そんな状態で、迷子だから保護したなんて言い訳は、少年のような子どもでも馬鹿にして笑ってやりたくなるくらい説得力がなかった。

「その子、おれが送るから。おっちゃん、その手はなせよ」
「いやいや、おっちゃんが見つけたんだから、おっちゃんが送ってくよ。坊主は心配すんな」
「おっちゃん、そんなにその子送りたいのか? でも、おれもその子どうしても送ってやりたいんだよな。あ、じゃあさ、その子に決めてもらおうぜ。そしたらビョウドウだろ?」

 男がぐっと言葉を飲んで動かなくなる。それを見て、少年がにやりと笑った。

「うで、どけてくれよ、おっちゃん。そのままじゃその子、しゃべれないじゃん。決めてもらえないんじゃ、いつまでたってもその子送れないな。それともおっちゃん、このまま無理やりその子送るの? おれもどうしても送りたいって言ってるのに? おっちゃん、そんなズルくて悪いやつなのか?」
「っ…………」
「……じゃあ、大きな声、出していい?」
「っ、くそ! 覚えてろよクソガキ!」

 男は少女から手を離して、暗い小路から消える。少年は、そんな男に「いーっ」と歯を見せて見送った。
 少年の行動がなにを意味しているのかわからず、少女は小さく首を傾けた。
 少年がくり、と少女を振り向いた。

「あぶなかったな、お前! あれ、ぜーったいひとさらいだったぜ?」
「……ひとさらいって、なに?」
「《ゆーかいま》ってこと! あのままだったらお前、どっかとおくに売られて、えらそーなおばさんやおじさんに死ぬまでむちゃくちゃコキ使われたりしてたぞ、ぜったい!」
「えぇ!?」

 外の世界にはそんな怖いことがあるのか、と少女は驚いて声を上げた。
 そんな少女に、少年はあからさまに呆れた様子でため息をついた。

「お前みたいな、いい服着てるやつっていうのはねらわれやすいんだから、気をつけろよな」
「……いい服、なの?」

 少女は自分の服装を省みた。これは少女の普段着なのだが、少年はこれを「いい服」だと言う。その感覚が少女にはわからない。
 困惑するしかない少女に、少年は「そーなの!」と力いっぱい頷く。

「ほら、おれの服なんてぼろぼろだろ? お前のみたいな、そんなきれーな服、おれ持ってねーもん。おれのともだちも、だれも持ってないぜ」
「……そうなんだ……」

 壁の中の世界で当たり前なことは、壁の外の世界では当たり前ではないらしい。背が高いとはいえ、たった一枚壁を隔てているだけでそんなに違うものなのか、と少女は衝撃を受けた。
 なにやらショックを受けた様子の少女に、少年はもう一つため息をついた。ひとさらいの男が言った「迷子」という言葉は、あながち間違いでもないのかもしれない。こんないい服を着た子どもが一人でこんなところをうろうろしているわけがない。こういった子どもには、大抵身なりのいい大人が連れ添っているものだが、少女のそばにいるのは少年だけだ。

「なんかお前、あぶなっかしいなぁ。わるいこと言わないから、さっさと家帰れよ。なんだったらほんとに送ってやるぜ?」

 少年は、本来ならば道場に行かなければいけないのだけれど、これは人助けだ。事情を話せば、先生だってわかってくれるだろう。とにかくこの少女をほうっておいてはいけない、と思った少年は、少女に帰ることを勧めた。
 けれど少女は、帰れという言葉に泣きそうになった。そして、いやいやと首を横に振る。

「……イヤ」
「イヤって……あのな、帰ったほうがいいって。お前にとってはこのへんは危険なんだぞ。さっきもカンイッパツだったんだぞ?」
「わたし、あそこきらい。だから、にげてきたの」
「はあ!?」

 少年は驚いて、まじまじと少女を見た。
 家出してきたのか、と少年は納得する。迷子は迷子でも、この少女は保護者からはぐれたのではなく、保護者から逃げてきたのだと言う。なぜ少女がそんなことをするに至ったのかという疑問まで少年は抱かなかったが、泣きそうなのを必死にこらえながら「帰りたくない」と言う少女に、それでも帰れ、とは言えなかった。

「……じゃあ、おれとあそぶか?」
「あそぶ?」
「おれといっしょなら、とりあえずゆーかいはされないと思うし! ひとりよりはずっと安全だぜ!」

 少女に向けられたのは、キラキラの笑顔だった。乳母や侍女たちは少女に優しい笑顔を見せてくれるけれど、こんなにキラキラしていない。
 とてもきれいだと思った。少女を取り巻いていた小さな世界でもキラキラ光る石や置物をいくつか見たことがある。見た時にはきれいだと思ったけれど、今思い返すと、それほどでもなかったような気がしてくる。だって、目の前の少年の笑顔のほうがずぅっとキラキラしていてきれいだ。
 少女はまるで、世界で唯一の宝物を見つけたような心地だった。

「っ、うん! わたし、あなたとあそぶ!」
「よし! おれはカイルってんだ! お前は?」
「わたし、シルヴィア!」
「シルヴィアな! よし、行くぞ! 探検だ!」
「うん!」



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