第4話 調査任務
08 わかれ道
「ねえリデル。《召喚魔術》を使った後、《瘴気》が発生する場合と発生しない場合があるの?」
姫の問いに、私は思考を中断して記憶を探りなおす。
「ええと……少し違いますね。するかしないか、というよりも、程度に差があるということのようです。《召喚魔術》によって空間に開けられた孔をすぐに閉じればさほどの影響もないそうですが、長時間になればなるほど《瘴気》はひどくなるようです」
「じゃあ、もしかしたら今はその孔が開いたまま……っていうこと?」
「そう、ですね。現状からすると、その可能性は非常に高いかと……」
「……ねえ、そこからさらに《魔獣》が出てくることはないの?」
「……あり得る、でしょうね」
「それじゃつまり、このままじゃ《瘴気》も《魔獣》もどんどん増えてっちゃうってことじゃない! 冗談じゃないわ、はやくその孔を閉じましょう! こういうことなら私の《力》も役に立つでしょ!?」
「シ、シルヴィア姫様? いったいなにを……?」
姫が一人意気込む。戸惑うカイルをよそに、私はシルヴィア姫の言うことを正確に理解し、納得した。
「そうか、そうです! 姫の《力》はこれ以上ないほどうってつけです!」
「できるのね! よかったぁ!」
「なんの話だー!?」
分かり合い喜び合う私と姫の間に、カイルが大声を上げて割ってはいる。私は興奮を抑えきれないまま、カイルに向き直る。
「王族の特殊能力ですよ! 姫の《開閉能力》は、あらゆるものを開き、あらゆるものを閉じることができるんです!」
「それは、聞いたことあるけどさ……」
カイルは困り顔だ。
私たちはそろって簡単にではあるが実験をしたからわかる。しかし、実際に目にした事がないカイルにはわからなくて当然かもしれない。姫自身、実験を行うまではその《力》がどう使えるのかわかっていなかったのだから。
「実際に見てもらったほうが早いでしょうね。姫」
「うん!」
シルヴィア姫は頷かれ、側にあった木の幹に手を当て、そこをぱくん、と開かれた。まるでそこに小さなドアがあったかのように、間違いなく不自然な事象はごく自然と発生してみせた。木の中を走る年輪の筋がのぞく。姫の手もとには、さきほどまでそこにあったはずの木の幹。どうも薄皮一枚で木の本体とつながっているように見える。
「……取れた?」
「開いたんです」
「元通りにもできるんだよ」
そう姫が言い、手元にある木の幹を押して、閉める。するとそれはぴったりとくっついて、元通りになってしまった。カイルがまじまじと確認していたが、そこには切り取った跡のようなものは一切ない。
「これが私の《力》。みんなは《開閉能力》って呼んでるわ」
「あー……なんとなく理解した。とにかく姫様のその力で、閉じられるんですね。リデルが言う、召喚のせいで開いた孔っていうのが」
「うん、あらゆるものを開いて閉じれる能力だからね。実際、魔術で鍵がされてた本も、私は開けることができたし。ね、リデル!」
「ええ」
「へぇ……」
ふと、姫とカイルの間にあったはずの居心地の悪い緊張感がなくなっていることに気づく。あれだけがちがちになってまともに言葉も交わせずにいた二人が、今は普通に会話をしている。
現在直面しているのは緊急事態そのものだが、それが幸いとなったのかもしれない。状況は決して喜ばしいものではないが、少し、気持ちが和んだ。
「じゃあ、これから先の行動は、できるだけ《魔獣》にかち合わないようにさっきの蝶を追いかけて、空間の孔を閉じて、速やかにこの森を脱出する。もし《魔獣》にかち合っちゃったら……戦闘?」
「問題ないでしょう。《魔獣》との戦闘はこれが初めてになりますが、《ゴル・ウルフ》が相手でしたら負けはしないと確信しました」
「一撃だったもんな、さっき。《魔獣》との戦闘って、もっと手こずるもんだと思ってたんだけ……」
「あ、私も」
「《魔獣》には弱点があるんです。頭か胸の真ん中、どちらかに一定以上のダメージを与えることで倒せます。逆に、それ以外の部位へのダメージはすぐ回復してしまいます。カイルも覚えておいてください」
「一定以上ってのがあいまいだな……それ、俺が攻撃した場合は何回くらいで倒せるんだ?」
「カイルの力をきちんと知っているわけではないのでなんとも……ああ、そういえば。ハンスさんが以前、《魔獣》退治に遠征して、一体倒したという話を聞きました。騎士団長になる前のことですし、それからだいぶ強くなられていると思いますけど、たしか五回ほど剣で打ち込んだと言っていましたよ」
「……お前、どんだけ攻撃力たけーんだよ……まあいい、わかった」
カイルが一度頭を振った。気持ちを立て直したようだ。
「そうと決まれば善は急げだな。さっさと行こうぜ」
「ええ、……っ……?」
「リデル?」
くら、と頭が揺れた。
なんだ、これは……。
頭が重い。視界が定まらない。輪郭がぶれる。軸がずれる。私はちゃんと地面に足をつけて立っているのか。上が、下が、右が、左が、前が、後ろが、方向感覚が崩壊する。
しっかりしろ、リデル・ホワイト!
杖を両手で握り、杖を地面に突き立てるようにして体を支えた。それにより、危うく倒れるところだったことに気付く。さらに、安堵の息を吐きだそうとして、妙に息苦しいことにも気付く。
「お、おい、リデル?」
「……っく。ちょっと、待ってください……っ」
体全体がいつもより重たいような気がする。そんな気がするだけなのかもしれない。よくわからない。考えがまとまらない。
ふるり、と振り払うように頭を振る。かえって頭の中が掻き混ぜられ、そのままぐらりと倒れそうになるが、それはなんとかこらえた。
こんなことは初めてだ……と、思う。じっくり記憶を探るのも億劫なので、はっきりとは言えない。しかし、思い出せる限りではこれが初めてのはずだ。うまく働かない思考で、この原因をどうにか特定しようとする。
……まさか、《瘴気》にあてられたのか?
そうとしか考えられない。これまで経験がないということは、これまでに遭遇したことのないなにかがこの場にあるせいだと考えられる。疾病の可能性は除外した。発症があまりに唐突すぎる。となれば、この森に充満している《瘴気》ぐらいしか、思い当たるものがない。
姫とカイルを見れば、心配そうな顔をしてはいるものの、まだ《瘴気》の影響は受けていないように見える。顔色も悪くない。魔術師である私が一番《瘴気》に耐性があるかと思っていたのだが……。いや、むしろ魔術師ゆえに《瘴気》をより体に取り込みやすいという可能性も考えられる。《瘴気》は魔術の影響により発生しているものだ。魔術の影響は、魔術を扱う者が一番受けやすいということなのだろうか。
心なし、だんだんと《瘴気》が濃くなっているような気もする。空気が重たい。冷や汗が流れる。息が苦しい……。
「リデル、顔が真っ青よ!」
「おい、大丈夫かよ!?」
私を覗き込む姫とカイルの表情にも焦燥があふれている。
ふと、嫌な想像をした。
《瘴気》が濃くなったのではなく、濃い《瘴気》が近づいてきたのだとしたら?
「……"どうかどうか、我が問いにお答えください、……我らに迫りし危機の姿をお示しください"……《ルーミス・ノティア》っ」
「リデル? ちょっとリデル、」
ごく近い未来の限定的な事象について知ることができる《半予知魔術》――完全な《予知魔術》は、いまだ完成を見ていない――の呪文を唱え終わると同時に、左方向にきらりと光るものを見た。それこそが、私たちにとっての危険の証。《瘴気》で死に掛けているはずの森が教えてくれた、私たちの敵。
「っ、《セーロ》!」
「っ!?」
とっさに《結界魔術》を使用した。一瞬で私、姫、カイルの三人を含む範囲に魔術陣が展開し、魔術陣に大きさに合わせて半球形の見えない壁が私たちを隠す。
これは姿を隠すためや、外部からの攻撃から身を守るための魔術だ。展開範囲の外からは、私たちの姿は見えないし、声も聞こえない。やつらは見事に私たちを見失ってくれたようで、あちらこちらへと視線をさまよわせ、足を止めている。それを認めて安堵するが、安心しきってしまえばたちまち術が途切れてしまいそうだ……。
今はこらえろ……やつらはまだそこにいて、立ち去ったわけではない。術を途切れさせるわけにはいかないのだ。
しかし、もう立っていることも辛く、ずるずると杖に縋るように膝をつく。
「リ、リデル? 今のは……」
「説明は、後ほど……あっち、見てください」
「っ、《ゴル・ウルフ》!? まだいたのか!」
私たちの左方向から、《ゴル・ウルフ》が群を成してやってきていた。奇襲はかけられずに済んだが、滅多に群れないはずの《ゴル・ウルフ》が群れを成してやってきているなんて……。私は、悪い夢でも見ているのでしょうか……。
カイルは再び、姫と私を背中にかばう形で剣を構えた。相手の数に、冷たい汗が頬を伝う。私に見える限りで、少なくとも五体はいる。この森に全部で何体の《ゴル・ウルフ》がいるのかは知らないが、こうなると五体程度で収まるとは思えない。
「おいおいっ……一、二体じゃなかったのか、リデル」
「私も、信じたくはない光景、ですね……。でも、これで確実になりました……この森のどこかで、《召喚魔術》が使われたんです。……やつらは召喚されたんでしょうね……」
「くっそ、どこのどいつだよその馬鹿!」
「そんなの、私だって聞きたいです……。今は、結界を展開していますから……やつらから認識されずに済んでいますが……これも、いつまでもつか……」
術がいつもより不安定に感じる。集中力が足りないということはわかっているが、現状ではどうしようもないことだ。
だからと言って、このままというわけにもいかない。いつ術が途切れるとも知れない、崖っぷちのようなものだ。術が途切れてしまえば、やつらに見つかる。そうなれば戦うほかないが、今の私では大した戦力になりそうもない。かと言って、カイルひとりに任せるのはあまりに危険すぎる。
結界を解除するという選択肢はありえない。では、どうすればいい。なにをすればいい。なにが最善なのか……。
考えているうちに術が途切れそうになり、慌てて持ち直す。この状態で術の維持以外のことを考えるのはかえって危険なのかもしれない。術は維持する。次のことを考える余裕は、今はない。だが……。
考えが少しもまとまらないうちに、カイルが口を開いた。
「……リデル。その空間の孔とやらは早いとこ閉じたほうがいいんだな?」
「え、ええ……まあ、そうです、ね。早ければ早いほど、被害は少なくなる、と思いますが……」
「よし、じゃあお前、姫様を連れて先に行け」
「っ……? カイル?」
カイルの提案に、彼の後姿を凝視する。
「あんなのいちいち相手にしてたら、お前がもたねえだろ。俺があいつらくい止めるから、お前は姫様と一緒に行って、その孔とやらを閉じてこい」
「で、ですが、っ……」
「ほら、お前もうふらふらだ。孔、閉じないとやべえんだろ? なら余計な力は使うな、目的を果たせ。いいな?」
「……カイル……」
そうだ。カイルの提案は、間違っていない。
けれど、カイルは騎士見習い。一応、魔術の初歩訓練は私が施したものの、魔術使いとさえ言えないレベルだ。《ゴル・ウルフ》を何体も相手取って、果たして勝ち得るのか。
いや、無理だろう。私はつい先ほど、カイルひとりに任せるのは危険だという結論をはじき出している。
しかし、私がこの状態で参加しても……。
どうすればいい。
なにを選べばいい。
「リデル……」
迷う私に優しく声がかけられた。視線を向けると、姫は心配そうな顔で私を見ていらっしゃった。
「体、辛いのよね? もしかして《瘴気》の影響?」
「……おそらく。ですが、なんとかなります。とにかく、今はやつらが立ち去るのを待って……」
「だめよ」
ぴしゃりと、シルヴィア姫にしては珍しく堅い声で、私の強がりを一蹴された。それから、視線がカイルに向けられる。
「……カイル。信じていいのね?」
「……任せてください」
静かにたしかめあった二人に、観念した。姫が止められる理由はわかる。私がこんな状態では、やつらが立ち去るまで私が結界を維持し続けられるかどうかは怪しい。……立ち止まり視線を彷徨わせる様子は、どうにも私たちの姿を探しているように思える。もしかしたら私の気力が尽きるのを待っているのかもしれない。
なんにしろ、何体いるかもわからないやつらの相手をしながら《導きの蝶》を追うのは難しい。本当なら、私が《魔獣》の相手をしている間に、姫とカイルが空間の孔を閉じに向かうのが一番いい方法だったろう。しかし、今の私は戦闘において完全な足手まといだ。私が残ると言っても、カイルにも姫にも一蹴されることは目に見えている。それに、カイルと姫には、《導きの蝶》の現在地がわからない。あれは私が具現化したものだ。あれを追いかけることは、私が彼らを先導することが前提になっている……カイルと姫だけを向かわせたところで、肝心の場所にたどり着けるかどうか……。
せめて、カイルがもう少しまともに魔術が使えるくらいになっていてくれたら……。
――待て。
ある。私がこんな状態でも、カイルが魔術を使えなくても、魔術によって戦闘を手助けできる方法が。ひとつだけ。
「姫……私の荷物から、石を、出していただけませんか……緑色の……」
「ちょっと待ってね……。…………これ?」
私が肩から斜めにかけていた鞄から、緑色に輝く石が姫の手によって取り出された。
《魔鉱石》だ。なにかの役に立つかもしれないと思い、持ってきていたのだ。私は右手で杖を握り、左手を姫に向けて差し出した。その手のひらに魔鉱石が落とされる。
手のひらにほどよく収まるサイズのそれを、ぐっと握り締めた。そして、願い、願い、ひたすら願った。私の手の中で、魔鉱石はどんどんその輝きを増していく。
「リデル? なにやって……」
「もう、少し……待って、ください……」
「…………」
不思議そうなシルヴィア姫は、私の頼みを聞き届けてくださり、口を閉ざされた。カイルも気になるのか、ちらちらと背後の私を振り返っているが、私の願いどおり待ってくれる。
握りしめていた手を開く。緑色の魔鉱石は、見たことがないほど強い輝きを纏っていた。
少々、やりすぎたかもしれませんね……。
自分の中からなにかが大きく削り取られたような感覚が湧いてきたが、もうかまいやしなかった。
「……カイル、動かないでくださいね」
「え、いや、お前なにして……」
「動かないでください」
「……お、おお」
魔術による見えない壁が揺らいでいた。私が別のことに集中力を割いたせいだ。急がなければ……。
集中力を整え直し、杖を握り直す。
「……"我が身に宿りし風よ、今一時我がもとを離れ、彼の者とともに在れ"……《ドナ・アーラ》!」
唱え、魔鉱石をカイルの背中に押し付けた。輝きは消えないまま、それは見る見るカイルの中に溶け込んでいく。魔鉱石を人体に取り込ませるというのは、かなり荒っぽい使用方法だ。使用例は少なく、人体に影響を及ぼす可能性が否定しきれない。しかし、魔力を譲渡する場合は石を媒介にしたほうが定着率がいい。今は危険性に目を瞑り、より確実に魔力が譲渡できる手段を取った。
ふわりとやわらかい風が、カイルの周囲を舞う。……よかった、成功だ。
「 あっつ……!? おいリデル、ほんとになにしてんだよお前!?」
多少の熱を伴ったのだろう。驚いた顔でカイルがこちらを振り返った。
「君の中に、私の《風》属性の魔力を埋め込みました……」
「え……?」
「……今この森には、ほとんど風が吹いていませんが……少しは、助けになると思います」
今更魔術を教え込むことはできない。しかし、魔力を一時譲渡することでカイルの中の魔力が大幅に増量している今の状態であれば、カイルが意識しなくても《風》がカイルを助けてくれるだろう。
本来ならカイルの身に余るほどの魔力のはずだが、そのコントロールは一緒にカイルの中に埋め込んだ魔鉱石が担ってくれる。
「はー、なるほどなー……って、お前だから、余計な力使うなって!」
「先ほども言いましたが、やつの急所は、頭と、胸の真ん中です……。そこを狙えば、勝機はあります……。……ただし、無理だと思ったら逃げてください……いいですね?」
「無視か! ったく……はいはい。リデルは心配性だな。言われなくてもわかってんよ」
「……そうですか」
ぐっと、足に力を入れ、杖を頼って立ち上がる。
まだなんとか走れそうな自分の体に安堵する。とにかく、この森に蔓延する《瘴気》の源を絶たなければならない。
「こいつら倒したら、ちゃんと追っかけるからさ」
「だめよ、カイル! リデルなしで、迷子になったらどうするの!」
「うぐっ……た、たしかに……。わかりました。じゃあここで待ってます。ちゃんと戻ってきてくださいねー、置いてかれたら俺、泣きますよ」
「……大丈夫。ちゃんと戻ってくるから。だから、ちゃんと待っててね」
「はい」
カイルの視線はもう、私たちを探しているらしい《ゴル・ウルフ》に固定されて離れない。
「……シルヴィア姫様」
「なぁに?」
「……話が、あるんです。戻ってきたら、聞いてください」
「……ええ。絶対に。……ていうか、私もカイルに話したいことがあるの。私の話も、聞いてくれる?」
「もちろんです」
ああ、あの日の話をするのでしょうか。
そうだといい。
そうすれば、二人の間にある誤解はきれいさっぱり消えて、きっと二人は幸せになる。幸せになってほしい。だから、たとえ誰がなんと言おうと、私はそれを応援しよう。
姫君と騎士見習いの恋なんて、御伽噺のようなハッピーエンドは訪れないだろうけれど、そんなことはかまわない。私は二人に、幸せになってほしい。二人が望むなら、駆け落ちの手伝いをしてもいい。ああ、なんだかそれはとても楽しそうです。二人が並んで、幸せそうに笑っている。それはとても素晴らしい絵になる。その隅っこにでも私もいられたら、それはとても幸せな光景だ。
近くで二人の笑顔を見ていたい。いや、それが無理でもかまわない。私の目が届かないところでもいい。二人には、幸せに笑い合っていてほしい。
この一件が片づいたら。姫とカイルの笑顔のためならば、なんだってしよう。そう、静かに誓った。
「……行け!」
「っ、はい!」
カイルの合図で結界を解除した途端、《ゴル・ウルフ》たちが私たちに気がついた。私と姫は遠く消えていった光の蝶を追うために大地を蹴り、カイルはひとり《ゴル・ウルフ》の群れに剣を向けたまま動かずに、《ゴル・ウルフ》を待ちかまえた。
互いに、後ろを振り返ることはなかった。