第4話 調査任務
09 警鐘
* * *
私と姫は《導きの蝶》を追って森の中を駆け抜ける。追うと言っても、その姿はいまだ見えてこない。だから、《導きの蝶》が飛んでいる方角を把握している私が先を走り、姫はそれに遅れないよう追いかけてくる。本来なら、私が本気で走れば姫を置いていってしまいかねないだろうが、《瘴気》による感覚認識の狂い、さらに異常なほどの体力の消耗もあって、私も本気で走ってちょうどいいくらいだった。
――急げ、急げ!
なにかがひどく急き立ててくる。
なぜこんなにも焦っているのだろうか。自分でもよくわからない。もちろん、急いだ方がいいに決まっている。このままでは森が完全に死んでしまうし、カイルのことだって、《風》が味方してくれているとわかっていても心配だ。だが、こんなにも切迫したものだろうか。疑問に思っても、奥底から叫ぶようななにかは止まない。
「大丈夫よ、リデル!」
「姫っ……」
「カイルはとても強いのよ! 私、いつもカイルが訓練受けてる姿見てたから知ってるの!」
「…………」
「だから、カイルは大丈夫!」
「……っ、はい!」
私の焦りは、姫にも伝わっているようだった。
カイルの腕が立つことは、私もわかっている。あのハンスさんが胸を張って太鼓判を押したくらいだ。
たとえ実戦経験はなくても、カイルと相性のいい《風》属性の魔力を大量に分け与えた。急所も間違いなく伝えた。《魔獣》の中でもかなりの俊敏さを誇る《ゴル・ウルフ》だが、それだけだ。《風》の補助を受けるカイルが後れを取るとは思っていない。
わかっている。わかってはいるのだ。けれど。
言い知れぬその不安を打ち消すことは、どうしてもできなかった。
《導きの蝶》を追いかけた先に、それはあった。
地面に描かれた魔術陣と、そのすぐ上でゆがむ世界。そこから、ひどい《瘴気》が漏れ続けていた。
近づくと、ついには立っていられないほど気分が悪くなる。視界がかすみ、よくは見えないが、姫もこれにはさすがに顔をしかめていらっしゃるようだ。
姫がゆがんでいる空間に駆け寄り、黒ずんだ空間に手をかざされる。
「……《閉じろ》!」
一つの呪文のように姫が唱えた。
本来、姫の能力に呪文は必要ない。おそらくは精神集中とイメージを強固にするための手段として用いることにしたのだろう。
姫の言葉が空気に溶け消える頃には、ゆがみは完全に閉ざされてしまっていた。魔術では絶対にできないその所業を目の当たりにして、小さく感嘆のため息をこぼす。
大きく息を吸い込み、吐き出す。少しだが、気分が楽になった。空間の孔を閉じるだけでここまで違うのかと、妙なところに感心してしまう。
空間の孔が完全に閉じると同時に、その周辺をひらひらと舞っていた《導きの蝶》も霧散した。私が尋ねた《瘴気の根源》が消え去ったからだ。逆に言えば、《導きの蝶》が消えたことこそ、この森の充満していた《瘴気の根源》を断った証ということだ。
ぐるりと改めて周辺を見回す。この場には、私と姫以外にひとの姿はない。どういうわけか、ここで《魔獣》を召喚した何者かは、魔術陣をそのままにここを放置してどこかへと行ってしまったらしい。それもついさっきのこととは思えない。視界がずいぶん正常に戻り、しゃがみ込んで魔術陣の周囲をざっと調べる。土を深めに削って描かれた魔術陣は、すでにところどころがかすんでいて、刻まれているだろう言葉を読み取るのは容易ではない。
魔術陣には二種類存在し、こうして物理的に描くものと魔力が形成するものがある。初歩の術であれば魔力によって形成されることが多く、大規模な術になるほど人の手が必要になるのだ。このように地面に描いた魔術陣をそのまま残すことは、個人の特定に繋がる。魔術陣に含めなければならない要素に、個人名が存在するからだ。魔術の起源は相当に古いらしく、魔術陣に記す要素はすべて古代語であり、術名も古代語を使用するのが基本ルールだ。魔術師でもそのすべてを解読できるものは先生を含めて存在しないが、魔術陣に残された個人名を特定することはわけもない。私でもできそうな作業だが……これだけかすれていては、どこになにが記されているのかの特定も難しそうだ。
視線を少し上げる。この場において足跡らしきものは、私と姫のもの以外見当たらなかった。
ウディエールの森の異常が城に届いた時点で、この魔術陣はすでにあったと考えていいだろう。……いつ術者がここを去ったかはわからない。もしかしたら、ごく初期の段階からこの場にはいなかった可能性もある。
いったいなんのために《魔獣》の召喚など行ったのか。なぜ魔術陣をそのままにして立ち去ったのか。一番解せないのは、《召喚魔術》によって開いた空間の孔を閉じようとした形跡が、一切見られないことだ。ウディエールの森を《瘴気》で満たし、《魔獣》を闊歩させて、なにか得をすることでもあるのだろうか……。
犯人が見つからない以上、そのすべての解は闇の中、ということになってしまうのだろうが。
しゃがみ込んだまま考えていると、すぐ隣に姫が立たれた。腰を曲げ、目線を私のものに近づける。
「リデル、具合はどう?」
「ええ……随分楽になりました」
「《瘴気》はちゃんと消えたの? 私にはよくわからないんだけど……」
「消えてはいませんけれど、こればっかりは私たちではどうしようもありませんね……。《瘴気》を浄化する能力を持っている方が、教会にいらっしゃるそうなので、その方を派遣していただかなければ……」
「そうなの!?」
「……知らなかったんですか……」
《浄化能力》については、私も詳しくは知らない。ただ、これは生まれつき備わっているものなのだそうだ。しかし、血縁関係などはあまり関係ないらしく、教会は能力者の捜索にかなりの時間と費用を割いているらしいとは聞いている。
かつて、先生が実際に《闇》の魔術を実演して見せてくれた後、側に控えていた教会の方の一人が目の前で《瘴気》を浄化して見せてくれた。ただ、彼らが一度に浄化できる量は少なく、《魔獣》襲撃被害を受けた土地の浄化には相当な時間が必要らしい。
「……なにかわかった?」
「いえ、残念ながら……。とにかく、戻りましょう。あんまり待たせると、カイルが泣いてしまいますから」
「そうだね!」
あえて明るく言葉を交わす。けれど、表情がどこか笑顔になりきらない。
――本当は、不安でたまらないのだ。あの場に一人残してきたカイルの無事を、疑いたくないのに疑ってしまう。
大丈夫だ、心配ない。カイルの腕はハンスさんのお墨付きだ。それに、私の魔力も分け与えてあるのだから、カイルの運動能力は《風》に補助されて飛躍的に上昇しているはず。急所も教えた。頭と、胸の真ん中。間違いない。《ゴル・ウルフ》の俊敏さは少々厄介なところがあるが、《風》の補助を受けている状態のカイルなら《ゴル・ウルフ》五体とでも問題なく渡り合えるだろう。
――大丈夫だ。
言い聞かせながらも、どちらからともなく駆け足になり、カイルと別れた場所を目指す。《瘴気》さえ気にしなければ、やはりここは私がよく知っている《ウディエールの森》に間違いなかった。カイルと別れた場所も、わざわざ大地や森に聞かなくてもわかる。
そういえば……。たとえカイルが迷子になったとしても、私の魔術で探せるということを、カイルに伝え忘れていた気がする。
さっきまで頭の中に霞がかかっていたような感じもしていたが、それが今はきれいさっぱりなくなっている。すっきりした意識で、自分が相当尋常でなかったことを自覚して――
恐怖が全身を駆け抜けた。
森の中を駆けながら、なぜ駆けているのかと自問する。それはカイルを一人残してきたからだ。ではなぜカイルを一人残してきたのかと自問する。それは、急いで空間の孔を閉じなければならなかったから……。
――違う。
違う、そうではない、それはおかしい。
さっきまではわからなかった、しかし今ははっきり聞こえる。頭の隅々に響き渡る不快な音。
これは、警鐘だ。
空間の孔を閉じることは、早ければ早いほどいいということに間違いはないが、それはどうしても今しなければならないことではなかったのだ。姫には少々かわいそうなことだと思うが、急いでルルテに戻り、そこからリオールに戻り、国王様に森の現状を報告し、しかるべき人員を派遣してもらうべきだった。それまでの間は、ルルテ騎士団に話を通し、ウディエールの森にひとが近寄らないよう注意および警戒をしてもらう。さらに、この付近に住んでいる魔術師がいるなら協力を仰ぎ、森を囲むように結界を展開し、《魔獣》たちが森の外に出てこないようにしておく。
体の不調に気づいた時点で、そうするべきだったのだ。
そもそも、この森に足を踏み入れたという魔術師たちが戻ってこないのはなぜなのか。
その魔術師たちがどの程度の実力を有した者たちだったのかまでは聞いていないが、魔術師と称される以上、魔術師試験に合格しているはずだ。つまり、一定水準以上の実力を認められる程度には魔術が使えることは疑いようがない。それなら、《ゴル・ウルフ》程度に負けはしないはずだ。
……あの魔術陣をもっとよく見てくるべきだった。あれは《ゴル・ウルフ》を召喚するためのものだったのか、それとも種類を限定せずに《魔獣》を召喚するためのものだったのか。後者だったのなら、危険だ。《ゴル・ウルフ》以上に凶暴で賢い《魔獣》などいくらでもいる。もしそういった《魔獣》がこの森にまぎれ込んでいたのなら……。
カイルの腕を信頼しながら、どうしても不安を拭えなかった。体の奥で常になにかが警鐘を鳴らしていた。
――そういうことだったのだ。カイルでは太刀打ちできないなにかが、この森に存在する可能性がある。それを感じ取っていたから、不安でたまらなかったのだ。
そこに考えが及んで、ぞっとした。
なぜ今までそこに思い至らなかったのだろう。感じ取っていながら、なぜ考えられなかったのだろう。
まるで、進むべき道を用意され、誘導されていたように思える。
……気持ちが悪い。
いや、そんなことがあるはずがない……。
カイルは、大丈夫だ。
何度も言い聞かせる自分に気づいて、余計に不安が募る。言い聞かせるのは、不安だからだ。不安で、不安で、たまらないから、「そんなはずがない」と言い聞かせて、誤魔化そうとするのだ。そうしなければ、崩れてしまいそうだから――。