第4話 調査任務
10 待ち受けたもの
* * *
その場所に辿りついて最初に意識を捕えたのは、真っ赤に染まって横たわる見知った男の顔だった。
赤い水たまりに倒れ込んでいる姿。違和感しかないほどうつろに開いたままぴくりとも動かない瞼からのぞく、濁った目。
――なんだ、これは。
「う、あ……ああ……」
へたり、と隣で姫が崩れた。蒼白な顔をしていらっしゃる。しかし、それを気にかける余裕さえ、今の私にはない。
――なんだ、これは。
私は茫然とする意識でもって、周囲を見て回す。赤黒い跡はあちこちに跳んでいた。それだけ激しい戦闘だったことがうかがえる。それ以外には、かすかに残る、《魔獣》が残したのだろう《瘴気》と、しっかりと大地に刻み込まれた無数の足跡。
自分の足元の足跡を見下ろす。……これはおそらく《ゴル・ウルフ》のものだろう。同じ足跡があちらこちらに残されている。その中に、明らかにサイズが桁違いのものが紛れ込んでいた。他に比べて圧倒的に少ないその足跡は、見ただけではその本体の姿まで推察することはできない。だが、他の足跡に比べると形とサイズが異なっている。間違いなく別の《魔獣》だ。《ゴル・ウルフ》以外の《魔獣》が、この森には存在していたのだ。
確信した。《こいつ》だ。カイルをこんな風にしたのは、この足跡の主だ。
カイルの体がそこに残っているということは、おそらくは相打ったのだろう。《魔獣》という生き物は、人間を食べるものが多い。生き残った《魔獣》がいるなら、カイルはこの体すら、もうここに存在していなかっただろうから。
――なぜ逃げなかった。
声にならない声で問いかけて、その問いかけが無意味であることに気づく。
逃げるわけがないのだ。たとえ、私が魔術でひとを探せることを知っていたとしても。シルヴィア姫にとって危険になりうる要素である《魔獣》が目の前にいて、あの男が逃げ出すわけがない。なにをしてでも、それを排除しようとするだろう。
そういう男だと知っていた。それなのに、私は彼を《魔獣》の前に一人残して行ったのだ。
いつもなら決してそんな判断はしなかった。危険は明白だったのだ。《瘴気》にあてられていたなんて、言い訳にもなりはしない。
私が、リデル・ホワイトが、カイル・デーンを死なせてしまったのだ。
* * *
日が完全に暮れても、私たちは、その場を動けなかった。
カイルの遺体は《水》の魔術を使って清めた。その体は今、姫が頭部を膝に乗せ、生気の抜け落ちた彼の顔をただ見つめていらっしゃる。姫は俯いてらして、表情は読み取れない。ただ、涙は一筋も流していらっしゃらない。
清めてから、改めてカイルの体を見て、泣きそうになった。胸から下は、ほとんど原型を保ってはいなかった。なにか強い力で叩きつけられたようにつぶれていた。それでも涙を流さなかったのは、姫が泣いていらっしゃらなかったからだ。姫が泣いていないのに、私が泣いてしまうわけにはいかない。……泣いていい資格は、私にはない。
胸から下は骨まで砕けてしまっているというのに、カイルの遺体は、その右手は、剣を握ったままだった。
カイル・デーンは、血溜まりに横たわるうつろな瞳をした死者と化しながら、それでも姫を守るために手に取った剣を、握りしめて離さなかった。それは彼の決意を表しているようで、胸が痛くてたまらない。
私は、自分と姫が存在する狭い範囲に結界をはり、じっと一人と一体を見守った。
長い夜を、私たちは眠ることなく過ごした。眠気など、かけらもやってこなかった。
時折、どし、どし、と相当な重量を持つなにかが歩く音が耳に届いていた。この森には、まだ《魔獣》が残っているらしい。早くリオールに戻って、国王様に報告しなければ……。そう思うのに、体はそこから動こうとはしなかった。きっと、姫も。
永遠に明けないのではないかと思えた夜は、あっさり明けていった。死にかけている森の中、鳥のさえずりはないが、木々の隙間からわずかに落ちてくる白く薄い光の柱が、朝の訪れを告げた。
森に充満した《闇》を溶かすようなすがすがしい朝の訪れを残酷だと思ったのは、生まれて初めてだ。
「リデル」
姫が口を開かれた。私を見ないで、カイルの遺体の頬を撫でたまま、おっしゃる。
「《火》の魔術って、使える?」
「……はい」
私は、《火》とはあまり相性がよくない。《あまりよくない》というのは《扱えない》というわけではなく、単に他のタイプに比べてコントロールが少々苦手だということだ。一番相性がいいタイプが、《火》と相反する《水》なのだから、仕方がないことだ。使えないわけではない。だから、短く肯定を返した。
「なら、燃やして」
「…………」
「カイルを、燃やして。跡形なく。塵すら残らないように」
ほんの少し驚いて、けれど疑問は抱かなかった。どうせ、姫も私もそれほど腕力はないのだから、カイルの遺体をリオールまで連れて帰ってやることはできない。ここに置いていけば、森の中を闊歩している《魔獣》に食われてしまうだろう。だったらいっそ、燃やし尽くしてしまったほうが、いい。
「……御心のままに」
「……ありがとう」
私の返事を聞いて、姫はカイルの遺体の顔を見たまま、小さく口元をゆがませた。微笑んでいらっしゃるように見えた。
そして、カイルの冷たくなった唇に、そっと、自身の唇を重ねられる。それはとても短い時間の出来事だった。二つの唇はすぐに離れ、姫の唇が小さく動く。
「……さようなら」
それはまさしく、別れの儀式だった。
姫はそっと、カイルの遺体から離れられた。その動作に名残惜しさは感じない。一切の感情がこもっていない。それが一層、私の胸に悲しみを訴える。
姫の動作を見届けてからカイルの遺体に近づき、彼が身につけていた肩当てだけを回収した。これには騎士団の紋章が刻まれている。……これを、遺品としてハンスさんに届けることにした。
死後も離さなかった剣は、カイルと一緒に送ってやることにする。剣の柄が胸の辺りに来るようにカイルの体の上に横たえ、柄の上にカイルの両手を重ねてやる。
カイルの遺体から数歩離れて、杖を掲げた。
「……《アルド》」
静かな声で炎を喚んだ。しかしその炎は、想像を絶するような高熱の炎だ。姫は塵すら残らないことを望まれた。だったら、燃やすよりも溶かすくらいのほうがいい。骨すら、残らない。
普段ならもう少し苦戦するというのに、こんな時に限って、うまく《火》の魔術が使える。思ったとおりにカイルを包み込んでいく高熱の炎に苦い思いを抱く。
炎の中、この世界から消えていくカイル。残るのはカイルの面影と、肩当て。私と姫は、ただ見送る。瞬きの仕方を忘れてしまったのではと思うほど、じっと、すべてが消えるまで、見届けた。
結界を解除し、私たちはのろのろと森の外へ向かった。途中、《魔獣》には出くわさなかった。《ゴル・ウルフ》は太陽の光が苦手だという。夜行性、とは言えないが、日中での目撃情報は聞いたことがない。昨日遭遇したのは日暮れ前だったが、木々によって光が大幅にさえぎられていたこと、森の中が《瘴気》で満ちていたことで、活動が活発化していた可能性がある。森の異様な静寂からすると、《ゴル・ウルフ》以外にいるだろう正体不明の《魔獣》も、同様の性質なのかもしれない。
森を抜ければ、憎たらしいくらい真っ青な空が、私たちを迎えた。
しばらくぼんやりとそこで立ち尽くした。先に口を開いたのは姫のほうだった。
「……ルルテに、戻りましょう」
「……はい」
道中は、互いに無言だった。交わす言葉など思いつかなかった。
森の中とは逆に、姫は私を先導するように前を歩いた。私は姫の後ろを歩いた。本来なら、私が姫の前を歩くべきなのかもしれない。けれど私は、姫の後を追うことを選んだ。
ルルテの様子は、昨日とほとんど変わらない。道行くひとの顔ぶれがほんの少し変わっただけ。私たちはそんな通りすがりに目もくれず、ルルテ騎士団の詰め所を訪ねた。
騎士団長に名を告げると、その名前と憔悴しきった様子を見せている私たちに、彼は少しばかり困惑して慌てた様子見せたが、私たちがウディエールの森の現状を告げて、しばらくひとが立ち入らないよう注意喚起してほしいと頼めば、それにはしっかりと頷いてくれた。
それから、ある宿屋に預けた馬を一頭、預かってほしいと頼んだ。それでなにかを察したのか、痛ましい顔をして、これもしっかり了承してくれた。宿屋の名前を告げて、騎士団の詰め所から宿屋へと向かった。やはり、姫が前を歩いて、私が後ろを歩いた。
宿屋でまず、部屋と馬の料金を払った。結局部屋を使わなかった私たちに宿屋の主人は怪訝そうな顔を見せたものの、払うものを払ったからか、なにも聞いてはこなかった。聞かれたとしても、なにがあったのかを事細かに話すつもりはなかった。
馬の元へ行き、世話をしてくれていた男性に、一頭は後で騎士団員が引き取りにくることと告げると、ずいぶん驚いた顔をした。なにか尋ねたそうにしていたが、その暇を許さず、私も姫も馬に乗り、ルルテを出た。
ルルテからリオールまでの道中、私たちの間にはやはり言葉はなかった。姫が先を行き、私が後を追う。何度か私が前を行くべきだと考えた。けれど、それをしたら姫の姿を見失ってしまう。私は、姫から目を離すことが恐ろしかった。
姫の小さな背中を追いかけて、姫が確かにそこに存在することを何度も何度も確認する。少しでも目を離したら、その隙に姫がすうっと消えてしまいそうで、それがただ恐ろしかった。
出てきた時と同じように、唯一の門からリオールに入る。そのまま真っ直ぐに大通りを進み、城門前にて一旦門番に止められたが、一人がシルヴィア・エタニアールだと気づくと、私もすんなり通された。
厩までは城壁内を巡回していた騎士に案内してもらい、厩番の男性に馬を返して礼を言う。もう一頭は、ルルテ騎士団に預けてきたと告げると、怪訝な顔をされた。
「リデル」
姫の声。いつもはただ呼ばれるだけでも姫特有のやわらかさがあったはずなのに、今それはかけらも感じられない。なにかを押し殺しているかのように、硬質な音だった。
「……今回は、つき合ってくれてありがとう。お父様への報告やその他の事後処理は私がしておくから、リデルは帰ってゆっくり休んで。謝礼は今度渡すわ」
「……はい」
私は姫に頭を垂れて、姫がその場からいなくなるのをじっと待った。姫の足音が消えて、それから顔を上げ、再度厩番の男にも一度頭を下げてから、騎士団の訓練場へと足を向けた。
訓練場では、騎士団員たちが集まって体を動かしていた。私に真っ先に気づいたのは副団長のエドモンドさんだった。彼に、団長を呼んでほしいと頼むと、「わかった」とだけ言ってハンスさんを呼んでくれた。
「おう、リデル! 帰ったのか!」
「……こんにちは、ハンスさん」
「んん? うちの見習いはどうした? 疲れ果てて宿舎に直行しちまったか?」
「…………」
だらしねぇな、なんて言いながら、ハンスさんが笑う。なんと言って切り出したらいいかわからなくて、私は黙って、カイルの肩当てをハンスさんに差し出した。顔は、上げられない。
「…………」
「……すみません……」
どうにか、その言葉だけを伝えた。そんな言葉に意味があるかも、わからなかったが。
ハンスさんからの言葉は、しばらくなかった。私は肩当てをハンスさんに差し出して、頭を下げたまま。ハンスさんの表情は見えない。
やがて、ハンスさんはそっと、静かな動作で、カイルの肩当てを受け取った。
「……そうか」
「……すみません……」
「いや……お前が謝ることじゃないさ。人間なんて、いつどうなるか、誰にもわからんもんだ」
それでも私は、顔を上げられなかった。
ハンスさんはそう言うが、あれは私の判断ミスだ。あの時、唐突に訪れた不快感に惑わされなければ、カイルは今も……。
「……今、戻ったところか?」
「はい……」
「なら、とりあえず帰って休め。お前も疲れたろ? カイルの家族には、俺から伝えに行く」
「いえ、それは私が……」
思わず顔を上げて反論した。
カイルのご両親とは、すでに顔見知りだ。カイルは宣言どおり父親に紹介状を用意し、彼の父親は時折私のところで腰痛に効く薬を買っていくようになった。商店街の前でカイルの母親に呼び止められ、いつも主人と息子がお世話になっていますと言われ、新鮮な果物をサービスしてもらったこともあった。
私が、言わなければいけないことだと思った。
ハンスさんの大きな手が、頭に乗る。
「……見習いだろうが、あいつは俺の部下だ。あいつを送り出した俺の責任だ。お前が背負う必要はねえ」
「ですが……!」
「いいから、少し休め、リデル。顔色が悪い。昨晩はちゃんと寝たのか?」
「…………」
「やっぱりな。とにかく帰って寝ろ。カイルの家族のことは、俺に任せろ。いいな?」
「…………はい」
繰り返され、私は折れた。そこで押し切るほどの気力は、もうどこにも残っていなかった。
ハンスさんに背中を押され、促される。訓練場から一歩出たところで、ふとハンスさんが尋ねてきた。
「……なあ、リデル。あいつは、姫様を守ったか?」
「……、……はい」
「……そうか」
振り返ることはできなかった。静かに、悲しそうに紡ぎだされた短い声に、歯を食いしばることしかできなかった。
騎士団の訓練場を離れ、城壁をくぐり抜け、大通りを歩き、商店街の前を通り抜け……足が一たび止まった。しかし、ハンスさんの「とにかく帰って寝ろ」という言葉が頭の中で響き、足を再び動かす。そうして、繁華街の隅にある自宅へと帰った。
まっすぐ二階に上がり、ベッドに体を投げ出すと、ぼすんと音を立てて体が沈んだ。衣服や体の汚れをまったく落としていない状態だが、今はなにかをする気にはなれなかった。
眠ることさえ、したくなかった。