TopText姫とナイトとウィザードと

第6話 さいごに見た夢
覚悟



 ルルテへと続く街道から外れ、記憶の中を地図を辿ってまっすぐにウディエールの森を目指した。森が見えてきた頃にはすでに日が落ちかけていたが、構わなかった。そんなことに構っているような時間の余裕はない。
 森は危ないので近寄らないでください、と森の周囲で叫ぶ鎧姿の騎士たちの間をすり抜け、まっすぐに森へと突っ切る。背後から騎士たちの騒ぐ声を聞いたような気がしたが、気のせいだということにした。
 休んでいる余裕などない。騎士たちの相手をする余裕もない。明日にはもう、国からの魔獣討伐チームがウディエールの森に向かう予定のはずだ。つい先ほど王城で耳に入れた噂話からすれば、だが。たとえその噂が間違いだったとしても、私の動向に気づいた《誰か》がすぐ後ろを追いかけてきているかもしれない。姫の魂が姫の体の周辺にない。となれば、一番に疑われるのは姫の自室で亡くなられていた姫と二人きりの時間があった魔術師である私だ。
 手綱を握る手に力がこもる。奥歯が強く噛み合う。
 捕まるわけにはいかない。渡すわけにはいかない……!
 私は一刻も早く、目的を達成しなければならなかった。たとえどれほどの疲労が体に重く圧し掛かろうと、それに負けるわけにはいかなかった。
 森に到着し、空を見上げれば、うっすら橙色がかかっていた。じきに日が落ちる。森の中が真っ暗になってしまう。《火》の魔術を使用すれば灯りは得られるが、これ以上目立つことはできるだけ避けたい。
 森の前で躊躇いなく馬を放す。本来なら、ルルテにあるだろう馬貸しの支店に届けるべきなのだが、そんな余裕はない。貸し出される馬には、店が雇っている魔術師が追跡できるよう、魔術師が作ったタグをつけられている。あの馬がどこへ行こうと店主はあの馬を見つけて回収できるのだ。いずれあの店に調査の手が入るかもしれないが、それは明日明後日の話ではないだろう。
 馬の姿が完全に見えなくなる前に、薄暗い森に迷いなく足を踏み入れ、今の自分に出せる最大速力でまっすぐにあの場所を目指す。
 ウディエールの森はよく知っている。神経を研ぎすませれば、目的の場所がどの方向にあるのかわかる。私はひたすら走った。
 途中、進行方向前方を、一体の《ゴル・ウルフ》が横切るように現れた。《ゴル・ウルフ》は私の存在に気づきこちらを向いた。私は反射的に足を止め、すばやく杖を手にし、《ゴル・ウルフ》に向けて掲げて呪文を唱える。

「《ザキ・クレスタ》!」

 《ゴル・ウルフ》がこちらへ飛び出してくる前に、《ゴル・ウルフ》の頭部を鋭利な氷の刃が貫いた。大きな音を立てて地面に倒れ伏し、黒い煙を吹き出し消えていく巨体に、寂しそうな姫のつぶやきが脳裏によみがえる。あの時は、三人だった。今は、一人。
 ふるふると軽く頭を振る。
 今は感傷に浸っている余裕などない。急がなければ。
 私は《ゴル・ウルフ》が完全に消えてしまうより先に、足下の大地を蹴って走り出していた。
 走って、走って――
 どうにか完全に暗くなる前に《魔獣》の召喚に使われた魔術陣の前に出た。あれから数日経過しているが、雨も降っていないので、召喚に使われた魔術陣はそのまま残されている。私と姫は、閉じられていなかった空間の孔だけを閉じて、それ以外の後始末は一切行わなかった。私たちには《瘴気》を浄化する術がなかった。それができるのは、教会にいるという《浄化能力》を持っている者だけなのだ。だから、後始末はすべて国に任せることにした。
 その判断がこんな風に役に立つとは、あの時は思いもしなかったが。
 荒い呼吸を整えることも忘れて、膝と両手を地面について魔術陣を見下ろす。かなり大規模な術だったらしく、比例して陣も大きく描かれ、複雑な文様のようにあらゆる要素が刻み込まれている。そのすべてが古代語であることはわかっているが、どこになにが書かれているかはかすんでしまってほとんどわからない。

「はっ……ここ、と……ここも、……」

 すべてを理解する必要はない。再利用ができるのであればできるだけさせてもらうというだけだ。
 どこかから枝を拾ってくる時間も惜しくて、手にしていた杖で土の上に新たに刻み込んでいく。がりがり、と削る音が静かに響く。
 空間の孔を開けるという行為は、決して難しいことではないのだが、少々面倒くさいものではある。実行するまでに準備期間が必要になるのだ。今目の前にあるような複雑な陣を一から構築するのは非常に手間であるし、またどこでも簡単に孔が開くというわけではなく、開きやすい座標というものがあるらしく、それを探すのは一層手間だ。
 しかし、ここには召喚魔術に使用された魔術陣が残っており、すでに一度孔が開いた場所だ。つまりこの場所は、孔が開きやすい場所だと推測できる。《召喚魔術》に使用された魔術陣の残骸に、最低限必要と思われる要素を書き込んでいく。
 これは、賭だ。
 私はこれまで《闇》の力が関わる魔術を使用したことなどないし、そもそも《異世界》というものが本当に存在かもわからない。けれど、古い情報とはいえ、過去に実在した魔術師が異世界へと渡った記録は残っている。戻ってこなかったという情報は、今の私にはむしろ好都合だ。自由に行き来できるようでは困るのだ。法で禁じられている《魂の捕獲魔術》を使用した上に、今からさらに違法を重ねる。姫は何者かに魂を狙われている。そのために逃げるのだから。
 ……カイルはとんだとばっちりですけど、姫と一緒なら文句はないでしょう。むしろ、連れていかなかった時のほうがよほど怒りそうですね。
 考えて、苦笑する。苦笑だが、笑うことができた。
 もう二人と言葉を交わすこともないというのに、なにを考えているのやら。しかし、その想像はどこか楽しかった。
 魔術陣をほんの少しだけ書き換えて、意識を集中させた。

「……"どうかどうか、我が願いをお聞き届けください"……」

 異世界へと通じる《道》を作ったことなどない。方法も、以前興味本位で調べて本で読んだ一度きりの記憶。その記憶はあやふやで、輪郭は完全に失われていて、正しい手順などわからない。本当に異世界が存在するのかどうかも、その《道》を通った後どうなるかもわかららない。世界を大きく歪める魔術を使うことで、ウディエールの森を更に傷つけてしまうことは、胸が痛い。たとえば成功して、道を通り抜けて、自分の体がどんなダメージを受けるかもわからない。
 けれど、私は迷わなかった。
 魔術に必要なのは強い願い、イメージ、そして集中力。術名も呪文の詠唱も本当は必要ない。あれらは結局のところ、願いとイメージをより強固なものにするためだけのものだ。異世界へと通じる《道》を願い、その道をイメージし、ただそれだけに集中する。
 繋がる世界はどこでもいい。この世界でなければ、どこだろうとかまわない。
 姫を守ることができるのなら、他のすべてがどうなろうとかまわなかった。


 * * *


 ……どこだ、ここは。
 ぼんやりと辺りを見回す。森の中だ。けれど、ウディエールの森ではなかった。見た目も、感じるものも、すべてがあの森とは異なっていた。
 足元にあったはずの魔術陣は影も形もなく、あんなにはっきりと感じ取れていたはずの《瘴気》も今は一切感じられない。鳥のさえずりは相変わらず聞こえないが、代わりにリーン、リーンと高い音が聞こえてきた。なにかの鳴き声のようだったが、それがなんなのかはわからない。別になんの鳴き声でもかまわない。
 ここが見知った森ではないということが、なによりも重要だった。

「……ここ、は……」

 よろよろと杖を支えに立ち上がり、自分の周りを見回した。足にうまく力が入らない。体が芯から崩れていくような感覚がしたが、まだ立つことはできた。
 背後を振り返り、心臓がぎくりと鳴った。
 黒い口がぽっかりと開いている。その奥は闇一色だというのに、陽炎のようにぐらぐらと揺れているのがわかった。その先になにがあるのかはまるで見えない。
 しかし、わかる。私はこの《道》を通り抜けて、ここへ来たのだ。

「……来た、のか」

 成功を確信して、まず、目の前の《道》を閉じることに集中した。急がなければならない。……私にはもう、時間が残されていない……。
 それからしばらく、《道》を閉じることだけに集中した。どれほどの時間が経過したのか……。真っ黒な孔が完全に見えなくなり、注意深く周囲の気配を探ってみたが、なにも感じない。《瘴気》が漏れ出ていることもなさそうだった。無事に《道》を閉じきったことに安堵のため息をつく。
 手に握っている杖を見た。ここでも魔術は使えるようだ。《道》を閉じることができたのだから、使えるのでなくてはつじつまが合わない。
 ……私は本当に、《異世界》に来たのでしょうか。
 おそらくそうだとは思っても、確証はなに一つない。もしかしたら、私の知らない、あの世界のどこかなのかもしれないという考えも捨てきれない。
 ぐるりと、改めて周囲を見てみた。あちらこちらに乱立している木々の一本に近づき、上を見上げてみる。覚えのない木だ。とにかく少なくとも、リオール周辺でないことだけは確実だった。
 《風》の力を借りれないか試してみた。いつもに比べれはかなり不安定ではあるが、足下がふわりと浮かんだので、そのまま上昇してみた。いつも以上に集中しなければならなかったが、それでも空にのぼることは可能だった。
 空は明るかった。しかし、昼間というわけでもなさそうだ。夕暮れ時なのだろう、世界はうっすら橙色で染まり始めていた。最初に気がついた時は夜だったようだし、つい先ほどまで背の高い木々が邪魔をしてあまり光が差し込まないような森の中にいたからか、少し目が痛い。光が目に沁みる。
 そして、世界を見下ろしてみた。



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