TopText番犬が行く!

03 もう一度、君を守るために。



 気がついた時、千里は病室のベッドの上だった。
 最初の覚醒はごく浅く、まどろむような意識の中、病室の天井だけをぼんやりと網膜に写しただけ。身動ぎすることさえなく、そのまま再び意識を落とした。
 二度目の覚醒は痛覚によるものだった。腹部の焼けるような痛みに意識を無理やり引っ張り起こされ、医師から痛み止めを投与され、副作用からかそのまま再び眠りについた。
 三度目の覚醒は、自然なものだった。ゆるやかに浮上した意識がそのまま浮かび続け、千里は自らの呼吸の音を聞いた。

 ――生きてる……?

 当然のようにそう思考した。一分後になぜそんな事が浮かんだのかと考えた。その更に一分後に、全てを思い出した。

「ひめっ、つぅっ……!」

 慌てて跳び起きたが、腹部の痛みに背を丸めるほかなかった。右腕は固定されていて動かせなかった。左腕で体を抱えると、そこにつながっていた針と管につられて点滴のスタンドが音を立てて揺れた。
 痛みに喘ぎ、震えている間にも、同じ記憶がぐるぐると頭の中でループする。繰り返し、繰り返し。
 その記憶と、腹部と右肩と痛みが教える。

「く……っそおぉぉぉっ!!」

 千里は、ひめを守れなかった。



 × × ×



 千里の慟哭を聞きつけて駆け込んできた医師や看護師から診察を受けた。千里は何を聞かれても何も答えなかった。寝るように言われても態度で拒んだ。ただ、耐えるように、上掛けを左手で握りしめ続けた。
 医師や看護師はやがて諦めて何か言葉を掛けて病室を出て行ったが、その言葉は意味を持って千里に届く事はなかった。
 千里が耐えていると、次には父・里央(りおう)が顔を出した。
 里央はベッド脇の椅子にどっかりと体重を任せ、真剣な顔で千里に声をかける。

「目が覚めたばかりで無茶をするな、千里。お前が腹に穴を開けて倒れていると聞いて、さすがの俺も肝が冷えたぞ。右肩はひびで済んだそうだ」

 千里はうつむいたまま、父の顔を見ようとはしなかった。

「……何があった」

 里央の問いは思いの外直球だった。それを向けられた千里の左手がぴくりと震える。しかしたとえ父からの問いでも千里はやはり答えなかった。今里央にそれを吐き出せば、余計な物まで吐き出してしまうだろう事は想像に難くない。千里は必死に口を噤んだ。
 里央は根気強く千里の言葉を待っていた。

「千里君!」

 そんな親子の根競べは、第三者の登場によって意味をなくしてしまった。
 病室に飛び込んできたのは、一人の女性だった。千里は思わず顔を上げて、その顔をそむけたくなった。しかし、女性は千里のその行動を許さない。

「ひめは!? ねえ、ひめはどうしたの!?」

 間近まで詰め寄られ、衣服を掴まれる。綺麗な瞳には涙が浮かび、顔色は悪い。一目見て憔悴している事がわかる。

「市ノ瀬さん、落ち着いてください。千里は目覚めたばかりで……」
「ひめはどこに行ったの!?」

 千里に詰め寄っている女性は、ひめの母親だ。千里は自分がどのくらいの時間意識を飛ばしていたのかを知らない。しかし、彼女のこの様子では、一日程度の話ではないのかもしれないとは予想ができる。
 凄まじい彼女の剣幕に、千里は眼をそらす事さえできなかった。

「ひめはどこなの!? ねえ千里君! 千里君!」
「っ……」
「市ノ瀬さん!」

 遠慮無く体を揺らされ、右肩と腹部が痛んだ。一瞬息を詰めると、それだけで千里の状態を察したらしい里央が彼女を千里から力づくで引き離し、片手で拘束する。それから空いた片手で素早くナースコールを押し、人を呼んだ。
 ひめの母親は看護師たちに連れられて病室を出ていき、千里はそれを力なく見送った。
 傷が原因で熱が上がり始めていた。里央がそれに気づき、医師に頼んで解熱剤が投与してもらい、結果として千里はそのまままどろみの中に足を突っ込んでしまった。



 × × ×



 気がつくと夜になっていた。室内の電気は消されていて、閉められていないカーテンの向こうから入り込む月の明かりがぼんやりと照らしていた。
 静かだ。人の声も、歩く音もしてこない。

「――――」

 千里は無言でベッドを下りた。素足で床の上に立つと、ひやりとした感覚が足の裏に貼りつく。そこから動くと、から、と車が回るような音がした。千里の左腕に繋がれた点滴の管に引っ張られ、点滴スタンドが移動したのだ。千里は邪魔くさいと言わんばかりの乱暴は仕草で、腕に刺さっている針を引き抜いた。そこから血の玉がじわりと浮かんでくるが、千里は気にしなかった。
 ドアを開け、廊下に出る。廊下はほの暗く、消灯時間がとうに過ぎている事を示していた。
 ぺたり、ぺたり。何も履いていない千里の足が、ゆっくりとした音を立てる。左肩を時折壁に預けながら、ゆっくりと歩く。今の千里に、それ以上のスピードが出せないのだ。
 じりじりと痛む腹を左腕で抱える。輪郭を冷や汗が伝う。呼吸が上手くできず、弱い音が口からもれる。

 ――行かないと……
 ――ひめを、助けないと……

 喘ぐような吐息の中で、千里は祈るように思考した。そのたった一つが、本来なら立って歩く事などできるはずもない千里の体を動かしている。
 しかし、それも長くは続かない。千里の膝はやがて力をなくし、廊下の隅で蹲ってしまう。激しい運動をした後のように荒い呼吸を整えようと、吸って吐くという動作を何度も繰り返す。
 じわりじわり、体の芯に浸透する何かに、みっともなくも涙が浮かぶ。
 千里の中は、後悔ばかりだった。
 ひめを守れなかった。その事実は千里に腹部の傷以上の痛みを与えてくる。ひめの泣き顔が、千里を呼ぶ声がフラッシュバックする度に、ぐうっと胸が圧迫され、急激な息苦しさに見舞われる。
 予想外の出来事であった。それは千里のみならず、ひめにとっても、世界中の誰もが同じだっただろう。プロのボディーガードでもない千里が責められる謂れはないのかもしれない。
 しかし、だからと言って自分を許すつもりは毛頭ない。
 誰かに言われたからではない。
 千里が守りたいと思ったから、守ってきたのだ。
 千里にとって、そもそも女性というものは儚げなものだった。すでにいない母が病弱だった事もあり、千里は幼い頃から「女性とは守る対象である」と認識していた。
 市ノ瀬ひめと出会ったのは、小学校に上がるよりも前だった。千里の家は昔から剣道道場を営んでおり、門下生もそれなりにいる。ひめはそこに剣道を習いに来た。
 幼いひめはあまり体が丈夫でなく、すぐに風邪をひいたりしていたため、もう少し体力を付けさせようと市ノ瀬夫妻がいろいろなスポーツを体験させていたところだった。竹刀の音や気勢の声に怯えていたようだが、同じ年頃の千里の姿を見つけた途端、好奇心に目を輝かせていた。
 道場に剣道を習いに来ている女性が少ない事もあり、千里はひめの姿が道場にある事が不安で仕方なかった。小さな体で振り回されるように竹刀を握るひめの姿に、子供ながらはらはらさせられたものだ。千里でさえそうだったのだから、きっと大人たちはもっと心配だった事だろう。
 ひめはその頃から、異性に執着されがちだった。よく男子にからかわれ、いじめられ、追い回されていた。当時はわからなかったが今にして思えば、あれは「好きな子ほどいじめたい」という心理だったのだろう。当然、ひめもそんな事には気づいていなかったはずだ。単純にいじめられた事に涙を流していた。まず、そういう姿を見せられたから、幼い千里はひめという少女を守らなければ、と思った。
 いじめっ子を追い払ってやれば、涙ながらにほんわりと笑って「ありがとう」と言ってくれた。
 手を繋いでやれば頬を染めて嬉しそうに微笑んだ。
 打ち合いの中で、稀にうまく打ち込めたときに素直に褒めれば、曇天を切り裂く天の光のような輝かしい笑顔を浮かべた。
 その色んな笑顔を、全部、守りたいと思った。
 それは義務などではなく、紛れもない千里の意志だったのだ。
 とんだ大馬鹿者だ。何故ひめと一緒にいて損ばかりしているなどと考えたりしたのか。
 千里が無事に守りきった後、ひめは笑ってくれていた。千里が怪我をすれば泣いて心配していた。千里が《狂犬》などと呼ばれるようになっても、ひめは変わらず傍にいてくれていた。それだけで、十分だったはずなのに。
 今ほど自分を殴り殺したいと思った事はない。
 けれど、まだだ。千里はまだ死ねない。立ち止まるわけにもいかない。
 約束したのだ。必ず助けに行く、と。
 千里は自分の目で見た物を、誰にも伝えていない。どう伝えていいかもわからなかったし、上手く言葉にできたところで信じてもらえるとも思えなかった。千里自身、今でも自分の記憶を疑っているくらいなのだ。それほどまでに、ひめを攫って行った何かは不可解だった。
 それでも。
 幾分呼吸が落ち着いてきた事を自覚し、千里は再び足に力を込め、壁を頼りながら立ち上がる。
 それでも、ひめの行方の手掛かりはその記憶しかないのだ。人間ではない、動物かどうかも怪しいアレの足跡を辿る事でしか、ひめのところへは辿りつけない。とにかく、自分が倒れたあの場所へ千里は向かおうとする。朝を待つべきだと、理性は訴えている。しかし、千里の想いにはそれを完全に抑えつける勢いがあった。

「っ……待ってろ、ひめっ……」

 ひめを連れ戻す。そのためなら、どんな事だってできるだろう。



『――汝の強き意志、確かに認めた』



「え……!?」

 強い風が吹きつけた。千里はとっさに両足を踏ん張り、向かってくる強風から目を守るため左腕で顔をかばう。
 それはほんの数秒で過ぎ去った。その後にはふわりとやわらかな風が舞い、千里を優しく包み込んだ。

 ――いやいやいや。

 おかしいだろう、と千里は思わず冷静になった。千里はまだ病院を抜け出してもいなかったのだ。病院の構造など詳しく知っているわけではないが、少なくとも病室が並ぶ廊下に強風が吹き込むような構造はしていないはずだ。
 左腕を下ろし、視界を確認した。
 千里はすぐさまぱちくりと瞬きをし、一度左手で眼を擦ってもう一度開く。しかし広がる世界は変わらない。
 何もなかった。
 千里は確かに病院の通路を歩いていた。だから、千里が立っているのはリノリウムの床の上であり、病室へと続くドアが立ち並んでいなければおかしい。
 しかし、現実としてそれらは一切存在せず、広がるのはただ白く光る世界だけだった。足元にいたっては、立っているのか浮いているのかすら定かでない。

「……なんだ、ここ……いったい何が……」

 呆然と呟く千里の目の前に淡い黄色の光の玉がふわりふわりと浮かび上がった。それが上から来たのか、下から来たのか、正面からか、それとも突如そこに現れたのか。そんな単純な事さえ、千里には判別できなかった。
 何だろうか、この状況。千里が戸惑っているうちに、光はどんどん大きくなり、

『おお、ようやく形が取れたの』

 幼女の姿になった。一応服も着ている。丈の短い浴衣のようなものだ。
 光の玉から生まれた少女は、自らの小さな手を眺めて一頻り嬉しそうにした後、子供らしからぬ鋭い笑みを浮かべて千里を流し見た。

『ひめを助けたいか、千里よ』
「な、なんだ、お前……なんで俺の事、ひめの事……! つぅ……!」
『あまり興奮するでない。傷が痛むであろう。――ああ、知っておるぞ。何が起こったか。見ていたからな』

 楽しげに告げられた言葉に、千里は首を傾げて考え込む。考えなければいけない気がしたのだが、しかしどこをどう考えればいいのかとっさにはわからなかった。何か糸口を見つけたと思った瞬間、それはかけられた言葉に霧散する。

『ひめは《天宮界(てんぐうかい)》におる』
「は……てんぐ……?」

 わけがわからない、という心境を素直に顔に出せば、少女は不満そうに唇と突き出した。

『なんだ、食いつきが悪いの。もっとがっついてくるかと思ったのに。ひめの居場所、知りたかったのだろう?』
「いや、そりゃ知りたいと思ってたけど……」

 千里は無事な左手で左のこめかみをおさえた。大幅に理解の範疇を超えた現状に、千里はかえって冷静になってしまったのだ。そして理性が、ズキズキとこめかみのあたりを攻撃している。

「……とりあえず《てんぐうかい》ってのは、何の事だ? 初めて聞くが」
『そうであろうな。《天宮界》とは汝が生まれ育った世界とは理異なる次元の世界。所謂《異世界》というものだ』

 頭痛が酷くなった。意識せず眉間に皺を刻んだ千里。

「……ひめの居場所を知っているなら、教えてもらえるのはありがたい。けどな、そもそもお前は何なんだ、ここはどこなんだ、あと《異世界》とやらが本当に存在するものなのか。と、少なくともわからない事がこれだけある。正直、お前の言葉が信じるに足るものなのか……判断できない」
『というかあからさまに疑っておる眼だのぉ……』

 少女は事さらつまらなさそうにため息を吐いた。
 少女の言うとおり、千里は目の前の少女の言葉をまったく信じられていない。そもそも、今眼の前にあるものが現実だとも思っていない。病院の廊下にいたはずが、いつの間にかこんな何もない空間にいて、さらに光の玉が変形して少女になった、などと。ファンタジー小説を好んで読み漁っていたひめならともかく、そういった事のない千里にはこれは夢か幻覚だろうと考えた。
 ファンタジーに興味のない自分の夢または幻覚がファンタジーに染まってしまっている事は納得しかねるが、それが一番妥当だろう。

『うーむ、こういう時は論より証拠、というのが一番効くのだろうが』
「ああ、それでいい。こっちもあまり時間を掛けたくない」

 のんびり夢または幻覚に付き合っている余裕など、千里にはない。一刻も早くひめを探し出し、連れ戻さなければならないのだ。こうしている間にも、ひめはどこでどうしているのか。笑っては……いないだろうが。せめて泣いていなければいいのだけれど、と瞼を下ろし祈る。泣き虫なひめの事だから、祈りの甲斐はないだろうが。

『本当にいいのか?』
「いいって言ってるだろ。早くしてくれ」
『これを実行したら、汝は女になってしまうのだが』
「だからいいって……は?」

 軽く承諾しかけて、遅れて少女の発言内容が脳に浸透し、その意味を掴みかね、結果千里は間の抜けた声を上げた。少女はしれっと続ける。

『だからの。今から汝に論より証拠を突きつけてみようとは思うのだが、それをやると汝の性別が男から女に変わってしまうのだ』
「なんで」
『大人の事情だ』
「子供じゃねーか」

 千里は思わず指をさしてツッコミを入れていた。本当は音量も上げたかったが、それを実行すれば腹部に激痛が走る事間違いなしなのでぐっと堪える。
 しかし、目の前の少女はまったく気にした様子を見せる事なく話を続ける。

『まあ、どうしてもそうでなくてはならんというわけではなく、念のための処置なのだがな。一応本人の意向を聞いてからでないといかんだろう』
「……いやに良心的だな」
『意思確認は重要だろう』
「ああ、正論だ」

 ため息混じりに返答する。先程から不思議ではあったが、目の前の少女は幼女と呼んでも差し支えがないような容姿をしているくせに、言葉遣いというか物言いがまったく子供らしくなく、むしろ老成した者がふざけた調子を混ぜ込んで話しているかのようだ。
 それはさておいて。やはり時間がない事が気にかかる千里は、手早く事を済ませる事にする。

「まあいい。わかった、やってみろ」
『本当にいいのか?』
「くどいぞ」

 もし、この少女の言葉が本当であり、ひめが異世界にいるのであれば。その嘘のような、またはファンタジー創作のような仮定の前提が正しいのであれば。
 やはり千里が出す答えは、一つしかない。

「ひめを助けられるのなら、何だってしてやるって決めたんだ。女になるくらい、なんて事ない」
『女の状態で会ったら、ひめは汝とわからぬかもしれぬぞ?』
「問題ない。俺とひめしか知らないような話はごまんとある。それで信じさせるさ」
『ううむ、そこまで言うならもう何も言わんでもいいだろう。ではこれより、汝を《天宮界》へ送ろう。目が覚めたら女の体になっておるはずだ。せいぜい狼狽えるといい』
「……疑問なんだが、お前は俺をどうしたいんだ」

 何故か非常に愉快そうな少女の表情に千里の頬がひくりと引き攣った。やはりそれについても、少女は完全にスルーする。むしろ千里のそんな反応すら楽しんでいるようだ。

『ワシが気配を追ったところ、ひめは《天宮界》の《摘伽(つみか)》という国に連れ去られたようだ。その辺まで送ってやるから、あとは汝がなんとかせい』
「投げっぱなしかよ……」
『ほーれ、いくぞー』

 少女が両手を千里に向けてかざす。そこから光が生まれ、それは伝染するように千里の全身を包み込んだ。

「うお!? なんっ、」

 千里の言葉は最後まで続かなかった。光りに包まれた千里は、形を変え、少女が最初そうだったように光の玉となり、ふわふわと彼方へ飛んでいった。
 守るべき少女を目指して。



『――む、そういえば名乗るのを忘れておったな。まあそれは今度でもよかろう。あとは、あやつが上手くやってくれるだろうて。――さて、また少し寝るかな』



 千里を見送った少女もまた、光の玉となり、白く輝く空間に溶けていった。



TopText番犬が行く!