TopText番犬が行く!

04 夕焼けの中、赤が舞う。



 ――……シュッ……

 何か、音が聞こえた気がした。それもあまり心地よい類いのものでなく、できれば耳を塞ぎたい部類の音だ。
 ぼんやりと目を開けてみれば、広がったのは茜色に染まった天井だった。薄らとした白雲がささやかなグラデーションをかけているそれは、間違いなく、夕焼け空というものだ。
 いつの間に屋外へ出たのだろう。千里は空を見上げたままぼんやり考えた。最後の記憶は、病院の廊下を歩いているところ……。
 いや待てよ、その後に確か……と考えているところに、

「うぎゃあああ!?」

 耳にあまり心地よくない、むしろ不快とさえ言い切っていいだろう悲鳴じみた声、そしてある程度の重量がありそうなものが落下する音とともに、ぬめった生温かいものが千里の顔面に飛び込んで来た。

「うわっ、なん……?」

 反射的に千里は上半身を起こし、顔を腕で擦る。右腕は固定されていて使えないので左腕だ。そうして拭い取ったそれを見て、千里は硬直した。
 血だ。
 卒倒する事はなかった。自分が怪我をして血を流した事もあるし、絡んで来た手合いの相手をした結果流血沙汰になった事もある。千里が《狂犬》などと渾名されるようになったあの事件がまさにそうだ。しかしそれでも、これほど大量で濃厚な血を顔面に浴びた事はない。
 明瞭になった視界の隅に、妙なものが引っ掛かる。
 見慣れた肌の色。しかしそれは不自然な長さで途切れている。
 平らな断面がこちらに向いている。血で濡れ、薄紅色の柔らかそうな肉が見える。白、というよりは乳白色に近い色のものが断面の中央に坐している。その向こう側には、自分の体にもある掌と五本の指。
 それは間違いなく、切断された人間の腕だった。

「え、えぇ!?」

 さすがに切断された人間の腕など見た事がない千里は混乱した声を上げた。

「起きられましたか」

 直後、硬質な響きのある女の声が耳に届いた。咄嗟に自分へ掛けられた声なのだと脳が判断し、声の方向である背後を振り返る。
 菫色に輝く瞳とかち合った。その深すぎる輝きに、千里は直前の困惑を一瞬のうちに思考の隅へと押しやっていた。
 長く艶やかな黒髪を横で一つに束ねている。裾を短くした着物の下からは象牙色の太股が露わになっているが、膝上まで伸びる足袋により脚はほとんど隠されている。腕から手の甲にかけて飾り気のない手甲を装着しており、左手には先端に錘のついた鎖、右手には鎖が繋がっている鎌が握られている。
 鎌には、赤色がべっとり塗りつけられていた。

「起きられたのでしたら、即刻この場から移動される事をおすすめします」
「は、はあ……?」
「このアマァ!」
「へ!?」
「……いい加減、しつこいですね」

 千里が軽く首を傾げた直後に浴びせられた下品な濁声。驚いている千里を尻目に女はため息混じりにつぶやき、右手の鎌を投げた。その鎌は、愚直にも正面から飛び込んだみすぼらしく人相の悪い男の首に深々と突き刺さり、男を人生の終焉へと導く。
 力なく地面へと落ちた男の姿を眺め、千里は体を戦慄かせた。
 一切の遠慮や容赦は存在せず、しかもごく軽い動作だった。しかしそれは紛れもない攻撃であり、現にそれを食らった男はびくびくと痙攣を繰り返した後、完全に動かなくなってしまった。
 女は、実にあっさりと、人間を一人殺して見せたのだ。いや、よくよく見ればもう一人分、死体がある。右腕が存在していないようなので、おそらくは千里の隣にある腕の持ち主だったのだろう。そう思考する事にすら、寒気がした。

「まだやりますか」
「くっ……」

 それでも、いまだ数人の男が彼女を包囲している。背後だけは空いているが、そこには千里がいる。
 相対する男たちは悔しげで苦しげな表情を浮かべて、刀を構えている。
 それを認識した千里は何かがおかしい、と思った。何がおかしいのかと考え、その答えを理解した。
 男たちが握っているのは、《刀》だ。刃のついた、紛れもない真剣。それは凶器に他ならない。よく考えてみれば、女が手にしている鎖付きの鎌も同様だ。時代錯誤のようでどこかずれているような服装も十分な違和感の元ではあるが、そんなものはこの事実の前では霞んでしまう。
 現代日本で、真剣を所持する事は法律違反となる。趣味で隠し持っている輩はいるかもしれない。しかし、それをこんなおおっぴらに見せつけ振りかざすような間抜けはそういない。警察を呼ばれてしまえば終わりなのだから。

「……女一人にコケにされて……はいそうですかと引き下がれるかぁ!」

 リーダー格らしき男が女に飛び掛かり、両手で握った刀を振り上げる。金属と金属がぶつかり合う音が高らかに響き渡り、男と女は至近距離で見つめ合った。重なった刀と鎌の二つのが、ぎりぎりと噛み合う音が断絶的に発生する。
 怒りに燃える男の瞳と、どこまで涼しげで静かな女の瞳。両者はあまりに対照的で、相入れる事などない。

「……残念です」

 小さな呟きは静かな空間に溶けるように馴染んだ。千里にはよく聞こえた。
 女は、その細い腕のどこにそんな力があるのかと思うほど鮮やかに男の刀を弾き飛ばし、長くすらりとした脚を振り上げ男の脇腹に叩き込む。苦しそうな息を吐き出す男に、容赦のないスピードで鎌が襲い掛かるが、男は咄嗟の判断でどうにか体を沈め、命を拾う。
 じりじりと、周囲の男たちが距離を詰めてくる。四人。女一人で相手にするには多すぎる人数だ。いや、そもそも女一人で複数人の男に立ち向かうものではない。
 千里はひどく混乱しつつも、自分の周囲に視線を巡らせた。
 そして、それを見つけた。
 しかし、それを手に取るかどうか、千里は逡巡した。
 女は襲い掛かる一本の刀を流れるような動作で避け、鎌で男の首を刈り取った。その凄惨な光景に生唾を飲み込み、もしかしたら自分が動く事は逆効果になりはしないかと考えた。しかし、女が一息つく間もなく三本同時に襲いかかってきた刀に、そんな迷いは呆気なく散る。
 千里はそれを手にして、可能な限りの速度で駆けた。思ったほどのスピードが出なかったが、その事について深く考える事はしなかった。そもそも万全の状態ではないのだ。
 女が一本を鎌で受け止める。
 残る二本は千里が受け止めた。

「あなた……」

 女は鎌と小太刀を手にしたまま、驚いた様子で千里を見た。しかし、千里には彼女の表情を深く気にする余裕はない。
 千里が左手で握っているのは刀……真剣だ。これは切断された腕の近くに転がっていた。おそらく、腕を切られその他致命傷を受け絶命している男の武器だったのだろう。
 剣道の経験があるとはいっても、真剣など握った試しはない。想像以上の物質的重量、そして精神的重圧。千里の判断一つで、それはひとの命を奪ってしまえるものなのだ。
 左腕一本では、男二人分の力を受け止めるには足りない。しかし、今の千里は右腕を使えないのだ。それでも負けるものかと、顔を歪めながらも重さに耐える。
 割って入る事に、迷いはあった。
 しかし、千里は許せなかった。許してはいけないと思った。
 男が複数人でよってたかって女一人を襲うなど、千里からしてみれば外道の所業だ。
 たとえ、その襲われている女が一切の情け容赦なく男どもを斬り殺していようとも、だ。
 そもそも斬り殺されている男たちは揃いも揃って刀などという凶器を手にしているのだ。無抵抗のままなら、斬り殺されるのは女のほうになる。双方の言動からしても、積極的な殺人を求めているのは明らかに男たちのほうであり、女の行為は正当防衛と言えなくもない。
 千里は、刀を握る手を中心に全身の力をみなぎらせ、女を狙った二本の刀を弾く。くるり、と手のひらの中で刀を転がし、刃を返した。こうすれば、致命傷を与える事はないだろう。

「はあああぁぁぁ!!」

 虚を突かれ、更に力任せに刀を弾かれた事で体勢を崩した男二人は隙だらけだった。
 まず左側の男の脚を狙って刀を水平方向に振り切った。

「ぐあ!?」

 峰打ちとは言え、痛いものは痛いだろう。男は苦悶の声を上げ、衝撃からか刀を手放した。千里は素早くその刀を蹴り飛ばし、続いて男の脳天を刀で殴りつける。それで気絶させるつもりだったが、男は痛みに呻くだけだった。慌ててもう一発、先程よりも力を込めて殴ると、今度こそ呻き声すら上がらなくなった。
 相手の体が力なく崩れ落ちる事を横目で確認しつつ、千里は体の向きを変え、刀を自分の目の前で固定した。直後、鼓膜を強く刺激するような金属音が発生する。数十センチ先には、お世辞にも見目麗しいとは言いがたい、必死の形相をした男の顔がある。
 千里の武器と男の武器がぶつかり合い、競り合う。ぎりぎりと擦れる音が、不思議と精神まで削り取っていくかのようだ。
 男の顔が赤く染まっていく。夕焼けのせいもあるだろうが、それだけではないはずだ。強く力を込められているらしく、徐々に千里が押され始める。見たところ大して鍛えてもいないように見える体の男に力負けし始めた事に舌打ちしたくなるが、それどころではない。

「女子供の分際でっ、ナメるなぁ!!」
「っ、ナメてんのは、そっちだろーが!」

 思わず言い返しながら、千里はわざと刀を引いた。突然支えを失ったかのように、男の体は無様に前のめりに倒れかけ、そこに追い打ちをかけるように脇に回った千里が刀で背中を強打してやった。

「ぐはっ!?」

 苦しげな声が吐き出され、男は地面に正面から倒れる。続いてこちらの男も、先程と同じくらい力を込めた打撃を脳天に加えておく。「がっ」と呻いて、男は痙攣した。今度はちゃんと一撃で沈められた。
 押して駄目なら引いてみろ……という格言は、こういった場面を想定して伝えられたものではないとは思うが、こうした競り合いにも効果的である事を千里は知っていた。千里の体格は年齢から考えると標準前後。年上に絡まれれば圧倒的に不利だったが、こうした方法で不意をつく事は可能だった。もちろん、同じ相手に対してそう何度も使えるものではないが。
 肩で息をして、倒した男二人の様子を観察する。二人とも、もう動かなかった。峰打ちなので死んではいないはずだ。しかし、わざわざ確かめる事は億劫に思えて、千里は肩から少しだけ力を抜くに留めた。

「助かりました。ありがとうございます」
「あ、いや……」

 肩越しに振り向いてから、相手の女がしっかりこちらに体を向けている事を知り、千里も改めて彼女と向き合う。
 そうして気づいたのだが、彼女は千里よりも少しばかり背が高かった。その事に軽い衝撃を受けるが、まだ成長期、まだ成長期、と自分を慰めた。もちろん表面上は平静を繕った。
 ちらりと彼女の後方斜め下を見る。千里が相手をしなかった男一人が、血を流して倒れていた。生死に関しては、考えるだけ無駄なのかもしれない。そちらも気になるが、彼女の様子も気になる事ではあった。最低でも三人、彼女は千里の目の前でひとを殺している。だというのに、彼女の表情には焦りも、苦痛も、愉悦も、それどころか一切の感慨がない。千里はそれを、異常だと思った。
 しかし、その異常について深く考える事さえ、千里にはできなかった。

「このような場所でそのような格好をして眠ってしまっては危険です。今回は偶然にも私が通りがかったから良かったものの、そうでなければ……あの、ちょっと?」
「っ……」

 なにやら説教を受けているようだが、千里の耳は彼女の言葉をすべて聞き流していた。
 限界だった。
 千里は拾い物の刀を手から解放し、その場に倒れた。
 激痛に顔が歪む。空いた左腕で痛みの発生源である腹部を抱えて、しばしの間頭の中から吹っ飛んでいた情報が記憶の奥から舞い戻ってきた。
 彼女を助けようと夢中だったため一時的に忘れていたが、千里は腹に穴が開いていたのだ。手術により縫合はされているはずだが、それもそう昔の事ではないのだから、無理をすれば傷が開くのは自明の事だった。

「どうしました!? 大丈夫ですか!?」

 ――痛い、痛い……!!

 女が何かを言っているようだが、千里にはもう一音も届いていない。千里は霞んでいく意識の中で、このまま死んでしまうかもしれないと考え。
 次の瞬間には、それを否定する。

 ――死ねない……まだ、死ぬわけにはいかないんだ……
 ――ひめを探しだして、取り戻すまでは……!

 千里はそのまま、意識を暗い海の中へと沈めた。



 × × ×



 ひたひたと滴るものを両手に、女は悦びの笑みを浮かべる。それはひどく歪んでいるにも関わらず、異性から見ても同性から見てもひどく魅力的な表情だった。その手に生首と大振りの鉈を下げていなければ、誰もが女に見蕩れただろう。
 しかし、この場には女以外の人間は誰も女の異常性を指摘しない。他に数人女がいるが、皆温度のない瞳を宙に向け、ただ静かに控えている。彼女らが何を言わない事を知っている。ゆえに女は何も気にする事なく愉快気に笑っていた。
 女は左手で掴んでいた生首を自分の目線よりも高い位置まで持ち上げ、それを見上げた。すでに生の色が完全に抜け落ちたその顔は、まだ年端もいかない少女のものだった。首を切断されているというのに、その表情は静かなもので、まるで作り物のようでもあった。しかし、それが元は女と同じ人間であったという事は、切断面からいまだ滴り落ちる赤い液体が証明している。

「九十、五ー」

 女は可憐とも言える声音で数えた。数え歌でも歌っているかのように軽やかな調子で、くるりと着物を翻す。

「あと五日……あと五日で、願いが叶うわ……」

 女は鉈から手を放し、恍惚の表情で物言わぬ少女の生首を空へと掲げた。それは、供物を天に捧げているようにも見えた。滴る血で顔や着物が汚れても、女は少しも動じなかった。その生温ささえ、女を幸福へと導いているようだ。

「待っててね……」

 囁く声には、無垢な毒が孕まれていた。



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