05 見知らぬ世界、見知らぬ姿。
「ん……」
千里が目を覚ますと、視界に収まったのは青々とした葉を揺らす木々の群れだった。
どうやらここは森だか林だかの中らしい。風に揺られてかさかさと鳴る梢、鳥の優しく唄う声。揺れる枝葉の隙間から柔らかな陽光が降り注いでいる。なかなかに清々しい朝である。
――なんだか、目覚める度に場所が変わるな。
ぼんやり考えながら体を起こす。起き上がって、自分の体の上にあまり綺麗とは言いがたい布が被せられている事に気づく。手にとって軽く広げてみると、どうやらそれは羽織りもののようだった。ついでに枕がわりに、やはりあまり綺麗とは言えない布袋が置かれていた。手のひらで押してみた感触はさして柔らかくはないが、硬くもない。おそらく中にも布類が詰め込まれているのだろう。
「ああ、起きられましたか」
掛けられた声に首を動かす。木々の向こうから茂る草を踏み分け、一人の女が歩いている姿があった。千里の記憶の中ではつい先ほどの事、鎖鎌を手に男数人と渡り合っていたあの女だ。腕には竹筒らしきものを抱えている。
どうして現状のような事態になっているのかわからず、千里はただ首を傾げる。
「えっと……?」
「どこまで記憶にありますか?」
「ああ、ちょっと待って……確か、目が覚めたらあんたがいて、複数の男と戦ってた。で、俺も咄嗟に割り込んで、二人倒した。そしたら腹が……」
そこまで口にして、違和感に気づく。
――痛くない。
千里は驚いて腹に左手を置いた。
あんなに痛かったはずの腹の傷が、今はさっぱりと痛くない。右肩の鈍痛は変わらずに残っているのだから、余計に不思議だ。
女が少し離れた場所に膝をつく。
「……腹部の傷は、勝手かと思いましたが手持ちの薬を使用させて頂きました。我が家に代々伝えられる霊薬で、どんな傷でも通常の半分以下の期間で治癒してしまう優れものです。肩も固定されているようですが……骨ですか?」
「あ、ああ……」
「折れているのですか?」
「いや、ヒビが入ってるだけだって聞いてる」
質問に答えると、女は腰帯に下げた布袋から小さな紙包みを取り出した。
「でしたら、こちらの服用を二、三日続ければ動かせるようになるでしょう。一日二回、朝夕です。ただし服用を忘れた場合については責任を持ちません」
「ど、どうも……」
つらつらと並べ立てられた信じがたい言葉たちをどうにか飲み込み、女が差し出してきた小さな包みを六個ほど受け取る。どうやらこれは薬らしい。まじまじ手のひらの上のそれを眺める。確か、化学の実験の最中にこのように粉上の薬品を紙で包むという作業をしたことがあるような気がする。
次いで、女から竹筒が差し出される。
「お水です。それは粉薬ですから、お水なしでは飲みづらいでしょう」
「あ、ありがとう」
竹筒を受け取って、千里ははたと、目の前の女を信じてもいいものか少しばかり考えた。会ったばかりの人間を、こうも容易く信じてしまっていいのだろうか、と。しかし、と自分の腹に視線をやる。実際、腹の傷はもうほとんど痛まない。彼女が言う霊薬とやらが本当に効いているという前提に立つと、ここで千里を騙す理由が思いつかない。例えばこれが毒だとするなら、腹の傷を癒す必要などないはずだ。
しかし、法外な金額を搾取するという事は有り得そうな気がする。
「あの……すごくありがたいんだけど。なんでここまでしてくれるんだ?」
「成り行きです」
「は……?」
「あなたは私の目の前で倒れられました。調べてみれば腹部に大きな傷がある、ほうっておけば死んでしまうかもしれない。それは甚だ気分が悪いので、治療させていただこう。どうせ薬を施すのですから、ついでに肩の怪我に効く薬を処方してしまおう。それだけの事です」
聞いたものの、返答の内容は予想外にも程があった。淡々と静かに語られる《成り行き》に、千里はぽかんとしてしまう。
そうして出た言葉は、これだった。
「俺、金とか持ってないぞ?」
「あなたが完全に身ひとつである事は見ればわかります」
どうやら本当に見返りを請求する気はないらしい。彼女の《成り行き》は相当に遠まわしな表現になっていたが、ようするにただの親切である。
「……ありがとう、いただきます」
純粋なる親切は、拒絶する事が最大の失礼だ。そう考えた千里は、改めて礼を述べ、ありがたく薬をいただく事にした。女はわずかに微笑んで「はい、どうぞ」と軽やかに応えた。
× × ×
「あなたのような若い娘が、そのような無防備な着物で、路端で無防備に寝ていては、襲われたって文句は言えませんよ。気をつけたほうがよろしいかと」
「……………………は?」
薬の粉をひんやりとした水で流し込み、一息ついた千里に女が言った内容が理解できず、数テンポ遅れて千里は間の抜けた声を口からこぼした。手に持っているのが栓がされた竹筒でなくコップの類であれば、千里は間違いなく中身をだばだばとこぼしていただろう。
「……娘?」
「はい」
千里が確認すると、女は軽く答えた。
実を言えば、中性的な顔立ちゆえに性別を間違って認識される事は幾度かあった。しかし、それは幼少時の話だ。ここ数年で男らしく全体的に骨ばってきており、間違われる事はなくなったも同然だった。
まさかいまだに間違われる事があるとは……と、ため息をつきたい衝動をどうにか抑え込んで、正しい性別を答える。
「……あの、俺、男なんだけど」
しかしすると、女は不思議そうに首を傾げた。
「そんなはずはありません。治療のため、失礼ながら体を拝見しましたが、あなたの体は間違いなく女性のものでした」
――そんな馬鹿な!
咄嗟に千里はそう返そうとした。しかし、千里をまっすぐに見つける女の瞳に曇りは一切ない。嘘を言っているわけではなさそうだった。
千里は無造作に自分の胴体へと視線を落とした。
そして、違和感を覚えた。
薄い患者服の胸の部分を、何かが押し上げている。その形はまるで……。
そこまで思考して、千里はそっと患者服の唯一の留め具である紐をほどいた。はらりと開いた患者服。顕になる千里の肌。
そこに、あるはずのないもの、あってはいけないはずのものの存在を認めた次の瞬間、千里の手は素早い動作で服の前を合わせていた。
どっどっど、と精神的衝撃から心臓が鳴る。服の前を合わせている両腕にふよんとやわらかい感触が伝わり慌てて自分の胸から離した。
おかしい。どう考えてもおかしい。
犬山千里、十五歳。男として生まれ、十五年もの時間を男として育ってきた。間違いない。千里は自分の記憶を疑う事はしなかった。
しかし、今千里が見たものは、ふんわりとやわらかそうに膨らんだ胸だった。となると下半身は、と考えたが、さすがに恐ろしくて目で確認する気にはならなかった。とりあえず、足をすり合わせる事であるべきものがない事は確認できた。
間違いなく、女の体だった。
――いったいどうして!?
千里の思考がぐるぐると迷走を始めるが、そのうちに一つの記憶が甦ってきた。千里はそれを夢だと思った。そう思っていた。
だが、しかし。
千里はごくりと唾を飲み込み、喉を鳴らし、恐る恐る目の前の女に問いかけた。
「あの、さ……あんた、《てんぐうかい》って、知ってる?」
何だそれは、というような反応が返ってくる事を千里は予測した。いや、期待した。あの意味がよくわからない記憶は夢であってほしい、と思っていた。
しかし、後で冷静になってみればそれは一種の無理な相談だと言えた。千里は現に《ここ》に存在し、女の体になっており、目の前の女や彼女とともに撃退した男どもの格好は、時代錯誤にもほどがあったのだから。
「……何故それを?」
女は驚きからか目を瞠り、少しの警戒心を持って千里に問い返してきた。
× × ×
千里は、自分が説明できる範囲でここまでの経過を説明した。
幼馴染の少女が妙な生き物……生き物かもよくわからない不思議なものにどこかへ連れ去られた事。千里の腹と右肩の怪我はその時のものである事。幼馴染を助けに行く途中、何やら白い空間に取り込まれ、そこで不思議な雰囲気を纏う幼女に出逢った事。そして、次に気がついた時には女が男に囲まれ戦っていた事。
一連の出来事を聞いた女は警戒心を緩め、納得顔で頷いて見せた。
「なるほど……では、あなたは《天離界(てんりかい)》から来たのですね」
「てんり……?」
聞き慣れない言葉に首を傾げる。それで言えば、「てんぐう」という言葉も聞き慣れないものだ。千里の無知を笑う事なく、女はきわめて淡々と告げた。
「あなたが元いた世界の事です。今あなたが存在するこの世界が、あなたが先ほど口にした《天宮界》となります」
脳による理解が追いつかず、千里はきょとんと眼を丸くするしかなかった。それを意に介さず、女はそこらに転がっていた木の枝を拾い上げ、柔らかな土に突き刺し、動かす。適当な大きさの丸を二つ描き、それぞれの中に二つの言葉を刻む。
ひとつは《天宮界》。もうひとつは《天離界》。
「この二つの世界は似て非なるものと言われています。しかし遠く離れているわけでもない。それぞれの深い部分で繋がっている世界なのだと、幼少の頃教えられました」
「……よくわからないな」
千里が率直な感想を述べると、女は微苦笑を見せた。
「……実は私も詳しい事はあまり……。《天離界》から来た人間に、実際にお会いするのはこれが初めてなもので」
「まあ、こんな事小難しく考えたってしょうがねーよな。とにかく、世界が二つあって、一つはここ、もう一つは俺が元いた世界。それでいいんだな?」
「はい」
これまで多重世界だの異世界だのに対してまったく興味を持って来なかった千里には、それが納得の限界でもあった。女もまた、それに頷く。
「あんた、さっきすごく驚いてたみたいだけど、この二つの呼び名は一般的じゃないのか?」
千里の疑問に、女はまた頷く。
「この名称は神に繋がりのある者が知っている程度で、一般には広まっていません。そもそも彼らは、この世界とは別の世界がある事すら知らないでしょう」
「……神?」
「はい」
「……ソ、ソウデスカ……」
そう答えるしかなかった。
千里は、神を信じていない。今や日本に生きる多くの人間、特に若い世代は神の存在を信じてはいないだろう。
過去から現在に至るまで、千里が生まれ育った日本にはいくつもの宗教が存在してきた。過去には弾圧やら何やらあったと歴史の授業で習ったが、現在では信仰の自由が認められている。いつから、どのような経緯でそうなったのかという詳しい事はわからないが、少なくとも現代の日本は宗教の違いに寛大だ。しかし、それは同時に信仰心の薄弱さを意味する。
過去に敬虔な信者を多く持った宗教も、現代の多くの日本人は、宗教の核を神としてではく人間の心を支える何かとして捉えているところがあるように思える。あるいはそれを神と称するのかもしれない。
病気、天災、不慮の死。そういった人間にとっての脅威、どうする事もできない何かが目の前に現れた時、ひとは祈る。その祈りの対象として、宗教がある。心境としては、溺れる者は藁をもすがる、といったところだろう。祈ったところで救ってくれる神などいない。千里はそう考えているし、同じように考えている人間は決して少なくはないだろう。これは、無条件に神が信じられていた時代から科学を世界の中心に据えた時代へと移り変わり、宗教についても学問的な研究が実施されてきた結果と考えられる。
歴史上、それは政治の道具であった事もある。宗教によって人民の意識をまとめ、都合のいいように誘導する事も可能だったのだ。
宗教とはそういったものだという認識が千里の中にはある。
とはいえ、誰が何を信じるかはそのひとの自由だ。神を信じる者は勝手に信じていればいい。しかし、千里は信じていない。それだけの事だ。
だからこそ、ここで当たり前に存在する者のように神を持ち出されてしまえば、千里は戸惑うほかなかった。
「……そういえば、《天離界》において神の存在は希薄なのでしたね」
千里の戸惑いを察した女も、さすがに困った様子で呟いた。
この《天宮界》において、神の存在は疑うものではない。確固たる存在が認められている。この辺りを説明する事は難儀だ。千里とて、神がいない理由など聞かれても答えられない。たとえば神がいたとして、いる理由を答える事もやはりできないだろう。いないからいない。いるのだからいる。それ以外の答えを持っている者となると、相当そういった分野に熱心な学者くらいだろう。
「……とりあえず、いるんだな、神が」
「はい、そうなんです」
とにかくこの場はそれで納得しておくしかないだろう。もっとも、だからといって千里に関わりがあるかどうかはわからない。いくら神がいるからと言っても、そうそうぽっと出現するような事はないだろう、と勝手に決め付ける事にする。
女は人差し指を顎に当て、呟くように言葉を紡ぐ。
「しかし、不思議な事があるものですね……。通常、《天離界》から《天宮界》へと入る術はありません。この二つの世界に物質的な繋がりは基本的にないと考えられています。世界を移動しようと思うと、どうしても呪術が必要となってきますが……」
「そんなもの、聞いた事もないぞ」
「でしょうね。たとえ情報が存在していたとしても、こちらの世界同様、限られた者だけが知り得る情報でしょうから」
それは納得だ。もしそんなものが公になっていたら、今頃千里の世界では大騒ぎになっている事だろう。空想の産物としか考えられていなかった異世界が実在するのであれば、その存在の是非が科学的に論議され、研究され、世界的大発見となっているはずだ。
「あなたが夢の中で話をした少女というのが何者かはわかりませんが……《天離界》の人間を《天宮界》へ引き込めるほどの力を持つのは神、あるいはその末裔……あと考えられるのは、あやかし、でしょうか」
「あやかし? 妖怪ってやつか?」
「そういった呼び方もします。あやかしであった場合、相当強い力を持っている事になります。そうした者は得てして性質の悪いものなのですが……性別の変化以外に、何か異常はありますか?」
「うーん……いや、特になさそうだ」
体をあちこちを軽く動かしてみて、確認する。腹の傷をまったく気にせずに動かすと、多少引きつるような痛みを感じはしたが、耐えられる程度だった。まったく素晴らしい薬の効き目だ。いったいどんな精製方法によって生み出されたのか、少しばかり気になった。
「そうですか。だったら良いのですけど……しかし何故性別が?」
女が首を傾げる。千里も首を傾げる。
「それは俺もよくわからないんだ。一応、事前にそうなるって事は聞かされてたんだが……夢だと思ってたから、あんまり真に受けてなかった」
「ごく一般的の反応ですね」
普通、千里のような経験をすれば千里のように考えるだろう。夢の様な出来事。それを真っ直ぐすんなり現実として受け止める事ができるのは、頭の中が夢見がちに育ってしまった人間くらいだ。……ひめが当てはまりそうだ、と千里はこっそり思った。ひめはファンタジー系統の小説を好んで読んでいた。ひめが例えばあの状況に置かれたならば、嬉々として根掘り葉掘り聞き出すような真似をしたかもしれない。
「ま、なっちまったもんは仕方がない。それに、俺としては自分の体の変化よりも、ひめの安否のほうが気にかかる」
「姫? 連れ去られたというあなたの幼馴染の事ですか? どこかの姫君でいらっしゃるので?」
「いや、単にそういう名前なんだ」
「……《天離界》には変わった名前があるものなのですね。非常に興味深いです」
千里からしてみれば、それは別に変わった名前でも、特に珍しい名前でもない。だが、この世界に《姫》と呼ばれる人物が現実的に存在するというのであれば、必然的に名前としては珍しくなってしまうのかもしれない。《姫》とは高貴な身分の女性につけられる言葉だ。それをわざわざ名前にしようとする図太い感覚は、この世界の人間にはないのかもしれない。
女の出で立ちから考えるに、この世界は現代より何百年か昔の日本の様子に近いものがありそうだ。本当に《姫》と称される女性がいても、今さら驚きはしない。
「そうだ、確か《ツミカ》ってところにいるらしいって言ってた。というか、そのくらいしか手掛かりがないんだな……。あんた、何か知らないか?」
「《摘伽》なら、すでにこの地は摘伽の中です。しかし残念ながら……人攫いの噂程度はそこかしこで耳に入ってきますが、呪術的な関わりがある事件となると……」
女の反応に、どうやらこの世界は思った以上に物騒な事が溢れかえっているようだと言う事がわかった。そこかしこで人攫いの噂が聞こえるなど、千里が過ごしてきた現代日本ではありえない事だ。
おまけに人攫いの情報がそれほど多いとなると、その中から関係ありそうな話を選びぬくだけでも時間がかかりそうである。気が遠くなりそうだった。