TopText番犬が行く!

06 旅は道連れ、世は情け。



「そうです」

 ぽむ、と女が両の掌を合わせた。

「都へ行ってみるのはいかがでしょう」
「都?」
「はい。ここから二日も歩けば、摘伽の中心部に着けます。人の多く集まるところでは噂も多く飛び交うものです。そこでなら、何か新しい手掛かりが掴めるかもしれません」

 女の提案は理にかなっているように思えた。一番の情報源は人間なのだ。ここに留まったところで新たな手掛かりは何一つ掴めない事は明白なのだから、移動する他ない。都が近いと言うのであれば、行ってみる価値はあるだろう。

「なるほど……。その都って、どっちだ?」
「ご案内しますよ」

 女からの申し出に、千里は目を瞠った。

「いいのか? そうしてもらえるのは助かるけど、世話になりっぱなしだ」
「こうして、《天離界》よりいらした直後に出逢った事も何かの縁でしょう。それに、この世界の事をほぼまったく知らない状態の人間を放り出すような人でなしのつもりはありません。……もともと私も都へ向かうところでしたので、ちょうどいいかと」

 すっと、女の眼が鋭く細められた。女にも、何かしらの事情があるらしい。気にならないと言えば嘘になるが、出逢ったばかりの女の事情に踏み込むような失礼はできない。千里はそれについては聞かない事にした。

「そうか……そういう事なら、甘えさせてもらう事にするよ。ええっと……そういえばお互い名乗っていなかったな」

 ここまで来て、千里は女の名前すら聞いていなかった事に気付いた。同時に、千里自身も名前を告げた覚えがない。相対する女もここで初めて気付いたらしく、目を丸くした。

「そういえば、そうですね……ついうっかり」
「俺もうっかり」

 それから無言の時間が数秒ほど流れ、二人はほぼ同時に軽くふき出し、小さく笑い合った。

「申し遅れました。私は布貴(ふき)といいます」

 布貴はそう言い、がりがりと枝の先で土を削り、《布貴》と刻んだ。そして、その枝を千里に手渡す。

「俺は千里だ。よろしく頼む」

 千里もそれに倣い、名乗りながら自らの名前を土に刻み込んだ。

「よろしくお願いします。では早速ですが……」

 布貴がすっと静かな動作で千里に差し出してきたのは、衣類のようだった。千里が不思議そうにそれを眺めていると、彼女はそのまま続けた。

「こちらに着替えてください。千里のそのままの格好はあまりに無防備ですので」

 言われてみれば、その通りである。千里は紐を結んでとめるだけの簡単な患者服を着たままだ。生地もさほど分厚くない。一応下着はつけているようだが、衣服として心もとない事に違いはない。しかも千里は現在女の体なのだ。元は男なので、当然上半身に身につける下着の類などない。それは先程自分の目で確認した。患者服の紐が少し緩めば、非常に簡単に胸の部分が露わになるわけで、つまり……。
 そこまで考えて、千里は着替えるにしても大きな壁がある事に気付いた。

「……なあ、布貴」
「なんでしょう」
「着替えるって事は、俺は今着ているものを脱がなきゃならないんだよな」
「そうでなければ着替えはできませんね。……ああ……」

 布貴も千里がぶつかっている壁に気付いたらしく、どこか哀れむような声音をこぼした。それから真顔で言った。

「しばらくこちらで生活するのであれば、どのみち慣れなくてはいけないと思いますが」
「……だよ、な」

 腹をくくるしかない。それでもなお、千里は少し迷っていた。自分の体、とはいえ女の裸を見るのはさすがに恥ずかしいにもほどがある。
 とにかく、いつまでも布貴に持たせているのも悪い気がしてきたので衣服を受け取る。そういえばこれは一体どこから出てきたのだろう、布貴はそう大きな荷物を持っていないようなのに、などと考えながらそれを片手で器用に開いてから、また別の難関にも気付いてしまう。

「……布貴、俺片手じゃ着物着るのは無理」
「むしろ常人であれば普通無理だと思います、それは」

 結局、着替えは布貴に手伝ってもらった。千里はちらちらと自分の体に視線を落とし、その度に真っ赤になる事を抑制できなかった。

「無理、慣れるとか無理、絶対無理。ていうかあんまり慣れたくない、これは」
「ご心配なく。人間とは慣れて生きる生き物です」

 千里は布貴の切り返しを受けて、がっくりと頭と肩を落とした。



 × × ×



 ひめは和室の片隅で、膝を抱えて俯いていた。じわじわと目じりに涙が溜まり始め、それが大きくなって流れ落ちる前に指で拭いとる。

「なんで……どうしてこんな事になっちゃったんだろ……」

 声に出してみても、状況は何一つ変わらない。そんな事はもう何度も確認したが、それでも言わずにはいられなかった。
 昔からそうだった。幼稚園では男子に追い掛け回され、小学校の時には見るからに怖そうな男たちに誘拐されかけ、中学校に上がる頃に初めてストーカーというものに遭遇した。告白されて、お付き合いなんてできませんと答えたら強引な手段に出られた事も一度や二度ではない。
 何故自分ばかりこんな目に合うのだろう。神様は自分が嫌いなのだろうか。自分に何の罪があってこうまで災難に見舞われるのだろうか。
 ……罪ならある。
 優しい周囲に甘え、何もして来なかった、変わろうとしなかった弱い自分。
 いつも通りだったはずの下校途中、よくわからないものに拘束され、気を失い、気が付けばもうこの部屋の中だった。その時にはすでに着ていた制服は剥ぎ取られ、時代劇にでも出てきそうな煌びやかな着物を着せられていた。和風と呼ばれる世界観を好むひめは、このような状況でなければ目を輝かせた事だろう。実際にはそんな気分にはとてもではないがなれなかったが。
 食事は日に三食きちんと運ばれてくるから飢える事はない。掌と膝に出来ていた擦り傷も丁寧に手当てされていたし、風呂にも入れてもらった。
 周囲の目に見えている事実のみから考えれば、むしろ優遇されていると見えるだろう。
 しかし、決してそうではない。
 ひめは軽く右足を動かした。じゃら、と冷たさを含んだ音が耳に届く。そして、自分の足首をそっと撫でて、その冷たい感触を確かめた。
 ひめは拘束されていた。右足に枷を付けられ、そこには鎖が繋がっている。これが不思議な鎖で、繋がっている鎖の先がまるで見えないのだ。
 今、自分は危険にさらされている。ひめはこれまで、幾度となく悪意にさらされてきた。その経験から、そういったものに関して常人よりほんの少し敏感になっていた。
 ひめが気がついた時にはすでに足首の枷は取り付けられていた。そして、ひめの前には一人の女が立っていて、ひめを見下ろしていた。表面だけは優しい、その裏のどす黒さを押し込めた微笑でもって。
 美しい女だったが、それ故にその笑みは一層恐ろしいもののように思えた。女が何かよからぬ事を企てている事をなんとなくではあるが感じ取り、同時に自身がそれに巻き込まれているのだという事を否応なく気付かされた。

 ――どうして……?

 ひめは尋ねた。短い言葉だったが、意味は通じたのだろう。女は表情をぴくりとも動かさず答えた。

 ――その内に嫌と言っても教えてあげましょう。

 つまり、今は何も言うつもりはない、時期が来たら教えてやる、例えひめが拒否しようとも……女はそう言ったのだ。その瞬間、外気に起因するものではない寒さが体を包み込み、頭からは血の気が引いたような気がした。恐怖から涙を流すひめを微笑で見下ろし、女は静かに立ち去った。
 あれ以来、あの女はひめに会いには来ない。会いたいとは思わないし、あの女を恐れる気持ちもあるのだから来ないほうが心は平穏なのだ。しかし、いつまでこの部屋にいればいいのか、いつ危険がはっきりとした形を持って迫ってくるのか、それがどんな形なのか、そういった諸々が何一つひめにはわからない。
 わからないという事が、ひめの中の恐怖心をさらに煽る。
 ざわざわと背後から迫ってきているようなその感覚が、再び涙を呼ぶ。体をぎゅうっと小さくし、左右の手で着物をぎゅうっと握りしめ、せめて嗚咽を噛み殺そうとした。

「ひめ様、お食事をお持ちしました」

 少し幼さの残る響きをもった声が、部屋の外から掛けられた。のろ、と顔を上げてそちらを向くと、ひめと比べて見れば控えめで、もう少し動きやすそうな着物を着た少女が膝と両手の指先を床につき、頭を下げていた。宣言通り、その横には食事が乗った膳が置かれている。
 ひめの顔を見て、少女はぎょっとしてみせる。

「ひ、ひめ様!?」
「なっちゃん……」

 少女は泣いている姫におたおたとし、ひめは裏のない少女の態度にますます涙を溢れさせる。

「ああ、ひめ様! 泣かないで! どうか泣かないでくださいませ!」
「ふえぇ……」

 少女がひめの傍まで寄り、ひめを慰めようとするが、それもまた逆効果だ。彼女の優しい態度に、ひめはさらに泣いてしまう。
 少女の名前は奈津。歳はひめより一つ二つくらいは下だと思われる。ひめの世話全般を一人で任されてしまったようで、食事だの湯浴みだのの対応を当初から引き受けてくれている。
 そんな少女に「ひめ様」などと呼ばれるのは非常に居心地悪いのだが、何回言っても直してくれない。もう諦めているが、ひめが「なっちゃん」と呼び始めると「やめてほしい」と言いだしたので、「《ひめ様》って呼ぶのやめてくれたら考える」と言ってある。奈津は毎度のように困った表情を浮かべ、結局現状で落ち着きつつも、度々似たような言を繰り返していたりする。
 それと似た遣り取りを、千里とも繰り返した。ひめの世話を焼いてくれる奈津との触れ合いは、それだけで千里の事を思い出させる。
 犬山千里。幼少の頃は体が弱く、何かスポーツを習わせてみようと両親が引っ張り回した先の一つである剣道道場の子供。幼稚園から一緒で、男子に追い掛け回されよく泣かされていたひめにとって、ただ一人の異質。
 彼はずっとひめを守ってくれていた。幼稚園ではひめを追い掛け回す男子を追い払ってくれたり、小学校では誘拐されそうになったひめを守ろうとして大怪我を負ったり、中学校ではストーカーを捕まえてくれたり、付き纏う男子を撃退してくれたり。そうやって彼は幾度もひめの危機を救ってくれた。
 だからつい、願ってしまう。

 ――せんちゃん、たすけて……

 そして願った後には必ず自己嫌悪に陥るのだ。
 千里は来ない。連れ去られようとするひめを助けようとして、ひめを拘束していた何かに襲われ、怪我を負っているはずだ。意識が朦朧としていたが、千里の腹部に突き刺さった何かを確かに見たのだ。いくら千里でも、あれではすぐに動けないだろう。
 それでなくても、ひめはもう、千里に愛想を尽かされたに決まっている。
 あの直前、千里は転んで泣いていたひめに「自分で立て」と言った。いつもならすぐに助け起こしてくれる千里がどうしてそんな事を言うのか、その時はまったく理解できなかった。
 続けて千里は「いつも傍にいられるわけじゃない。そういう時、自分で自分の身を守らなきゃならない」というような事を言った。それを聞いてひめは暗い気持ちに襲われた。千里はもうひめを守ってくれないのかと思った。非道いとさえ思った。
 違うのだ。そうではなかったのだ。
 千里が言いたかったのは、こういう事だったのだ。千里に何かしら事情ができ――今回に関して言えば千里の負傷がそれにあたる――、ひめを助けにいけなくなった場合、ひめは自分の力で危機を脱しなければならない。
 今のままのひめでは無理だ。千里はひめより先にそれに思い至った。だから、いつもひめに優しかった千里は、あえてひめを突き放した。そうだと気付いた時には、千里はもう倒れていた。
 千里と引き離され、絶望し、散々泣いてから、ひめはこの状況から脱する事を考えてみた。
 しかし、何も浮かばないのだ。
 情けなかった。ひめは、千里がいなければ何もできない。自分を守る事さえ。守る必要などなかったから。いつだって千里が守ってくれていたから。千里に甘えて、ひめは努力を忘れていた。
 こんなどうしようもない女、情けないお荷物、千里はきっともう嫌いになってしまっただろう。
 自分に危険が迫っている事よりも、そう考える事のほうがひめにとっては恐ろしい事に思えた。

「ひめ様、ひめ様、大丈夫です。奈津がお側にいます。元気を出して……。あ、そうだ! 少々お待ちください!」

 言って、奈津は足音を立てて走り出し、しばらくしてからまた走って戻ってきた。その間にも、ひめの涙は止まらなかった。

「どうぞ!」

 奈津が笑顔で差し出してきたのは、お団子だった。ずずっ、と鼻を啜って、それをきょとんと眺める。

「召し上がってください。同僚の間で大人気のお団子なんですよ。町の、ちょっと見つけづらいところに店があるんですけどね。すっごく美味しいんです!」

 何度か笑顔の奈津とお団子を見比べて、ひめはそっとお団子に手を伸ばした。そして、それを一口齧り、噛み締める。
 ひめは眼を丸くし、夢中になった。

「美味しい!」

 思わず感嘆の声が出た。こんなに美味しいお団子はこれまで食べた事がない。

「……美味しいものを食べると、元気が出ますよね」

 奈津の言葉にはっとした。驚きのあまり、涙は止まっていた。我ながら現金すぎる、とひめは少々恥ずかしくなったが、奈津は穏やかに笑っていた。

「奈津にはひめ様が何故そんなに悲しそうにしていらっしゃるのかわかりませんが……奈津は、ひめ様には笑ってほしいです」
「なっちゃん……」

 優しい少女だ。こんなに優しくしてもらう資格は自分にはないと思うのに、それでもその優しさがたまらなく嬉しい。

「……ありがとう。ちょっと、元気出た」
「よかったです!」

 泣き腫らした顔でほんのり笑っただけで、奈津は喜色を顔いっぱいに広げた。それがなんだかむず痒くて身動ぎする。同時に、じゃら、という冷たい音がした。しかし、奈津は笑顔のままだ。
 どういうわけか、奈津にはこの音が聞こえていないらしいのだ。
 何の反応も示さない奈津に、ひめは何度か「鎖のような音が聞こえなかったか」と問いかけてみた。しかし何度尋ねてみても、奈津の返事はいつも変わらず、「いいえ、何も……」だ。
 嘘を付いている可能性はあるが、奈津からひめに対する悪意は感じられない。おそらく、鎖の存在自体見えていないだろう。そして、奈津もひめがこの部屋にいる理由を知らないのだ。

「そのお団子、全部食べちゃっていいですよ。私、今度町に行く予定なので、その時また買ってきますね」
「……うん、ありがとう。ごはん、食べるね」
「え? お団子先に食べないんですか?」
「食後のデザートにさせてもらうよ」
「でざぁと? ですか?」
「ご飯の後に食べる、甘いお菓子や果物の事なんだ」
「ひめ様の生国では不思議な言葉を使うんですねえ」

 膳の用意をするために奈津が離れてから、ひめは手元の団子を眺めた。
 ひめはこういった和菓子の類が好物だ。よく美味しい和菓子の話を聞いては千里に付き合って食べ歩いていた。
 千里は今、どうしているだろうか。怪我は大丈夫だろうか。無茶はしていないだろうか。

 ――助けて。

 そう願う気持ちは止められず、自己嫌悪は積み重なっていく。
 けれど、それ以上に強く、降り積もる想いがあった。



 ――会いたいよ、せんちゃん……



TopText番犬が行く!