TopText番犬が行く!

08 不穏の影、都を覆う。



 布貴と同行して三日目になる昼前。
 千里はとうとう摘伽の都へと足を踏み入れた。
 溢れるような活気が、眺めているだけで伝わってくる。街並みはやはり時代劇にでも出てきそうな、どこか懐かしさを感じられる日本風のもので、道行く人たちの中に洋服を着ている姿は一つもない。異世界に来たというよりも、なんだかタイムスリップしたような気分だ。
 しかし、と首を傾げると、半歩ほど先を歩く布貴が振り返り、彼女もまた首を傾ける。

「どうしました?」
「いや……思ったより空気悪いな、と思って。や、空気っつーのも、なんか違うんだけど……なんつーのかなあ……」

 それは街中の雰囲気が悪いという意味ではない。千里が言いたいのは、都に入る前からなんとなく感じ取っていた、しかし些細な違和感でしかないと思っていた事だ。
 この世界には、少なくともこの摘伽には排気ガスなどというものは存在しない。まず自動車やバイクといった類の乗り物を見かけなかった。道中見かけた移動手段のほとんどは徒歩、時折馬に乗る人を見るくらいだったのだ。町並みを見ても、千里が見慣れている現代的な文明の利器は存在しないと考えていいのだろう。
 それにしては、空気があまり美味しいと思えなずにいた。大気汚染で騒がれている天離界となど、比べること事態が馬鹿馬鹿しい。しかしどうしてか、何とも表現しづらい不快な感覚が纏わりついてくるのだ。その感覚は都に近づくほどに強くなり、今でははっきりわかるくらいになっている。アスファルトなどないので多少砂埃が舞ってはいるが、そういったものに起因する不快感とはどこかが違っている気がする。離れたところに見える高台に建っている城が霞んで見える、という事もない。
 抱えている違和感を上手く表現できる言葉を見つけられず、千里はますます首を捻った。
 対して、布貴は千里が口の乗せた疑問に表情を引き締めた。

「あなたにもわかりますか」
「どういう事だ?」
「あなたが感じているものは、おそらく《邪気》です」
「じゃき……?」

 聞き慣れない言葉に、千里はさらに首を傾げた。こういったやりとりも、もう何度目になるか。千里は数えていないし、布貴も数えていないだろう。また、布貴のほうも心得たように、嫌な顔もせず説明してくれる。

「邪悪なあやかし、邪悪な術、そういったものによって発生し、拡大していくものです。程度によっては命にかかわるものですが、この程度なら少々敏感な方が体調不良を訴えるくらいでしょうね」
「じゃあ、まったく気付かない人もいるのか?」
「いますよ。現に都の人々の大半は元気そうじゃないですか」
「……確かに」

 道行く人々の姿は非常に活き活きとしている。街並みから活気を感じられるという事は、そこに住む人々が活気に満ちているという事だ。仕事をしている様子の人でも、千里がよく街中ですれ違う疲れ切ったサラリーマンたちとはまるで違い、溌剌とした印象をを受ける。空気が悪いなど、まるで千里の勘違いなのではないかとすら思えるほどだ。
 布貴はその不調和さなど意に介した様子もなく、都の奥へと足を進めていく。千里はそれを追う。
 そのまま進むと布貴は建物の中に入り、受け付けを担当しているらしき人物と二、三の言葉を交わした。彼女は「二泊、二人です」と言いながら懐から袋を取り出し、そこから二枚ほどの貨幣らしきものを取って渡していた。
 受け付け担当に呼ばれてすぐに出てきた女性に先導され、襖で仕切られた一室へと案内された。少々荒れた様子の畳を踏みしめて、お世辞にも清潔そうとは言えない室内を見回した。

「ここは……宿か?」
「はい」

 布貴は都に入ってから真っ直ぐにこの建物を目指した。ここが宿であると知っていたのだ。都へ迷いなく進んだ事といい、布貴はこのあたりの地理に明るいらしい。

「二泊って聞こえたけど……」
「一日、二日で用が済むとも思えませんから」
「布貴もか?」

 もともと、布貴には布貴の用があってこの都を目指していたはずだ。それがどういった類のものなのか、千里は知らない。だが、布貴がこれ以上千里の用に付き合う義理はないという事はわかっている。
 もちろん、右も左もわからない千里からすると、天宮界の人間であり千里の事情を理解してくれている布貴が一緒にいてくれるというのであれば非常にありがたいのだが。だからと言って、それに返せるものが千里にはないのだ。

「ええ。私もここで調べたい事があるので……。ついでですからひめさんの事も一緒に調べます。特徴を教えていただけますか?」
「……いいのか?」
「乗りかかった船、というやつですね」

 甘えっぱなしだ。しかし、今の千里に頼れる相手は布貴しかおらず、また布貴を頼らずに事を成すのは難業である事くらいはわかっている。

「……すまん、恩に着る」
「どうも。それで、ひめさんの特徴を教えていただけますか?」
「ああ、そうだな……と言っても……」

 千里は自分の今の格好を見ろして、苦笑した。

「正直、俺みたいに服装をこの世界のもので整えたら、そうそう特徴らしい特徴はないぞ。髪型だって変えてるかもしれないし」
「それでも、何もわからないよりはいいでしょう」
「……まあそうか。じゃあまず、身長はこんくらいだ」

 そう言って、千里は自分の肩のあたりで手を水平にした。それから不意に、一つの疑問を抱いた。

「いや、待てよ……もしかしたら、俺の身長もいくらか縮んでるかもしれないからな……もう少し高いのかもしれない」

 天宮界へやって来た直後の戦闘で、腕の長さについて感覚と現実に誤差が出ていた。自分の間合いの範囲を間違えるなど、これまでになかった事だ。次の戦闘の際には修正してしまったため、その違和感についてはそれきり忘れてしまっていた。

「有り得る話ですね。では、千里の肩から、同じくらいまでの背丈として考えておきましょう」
「そうしてくれ。――髪の毛は、色は黒。後ろ髪は背中の中ごろまである。横は左右をこんな感じでくくってたけど……これは解いてるかもな。髪だって……場合によっちゃ、長いままとは限らないし」

 横髪を軽く掬って、ひめの髪型を真似ながら苦笑する。
 何か事情があって髪を切っている場合もあるだろう。もしひめの意思ではなく誰かが無理矢理切ったとしたなら……その相手は二目と見れない顔にしてやろうと固く誓う。

「えーっと、あと……」

 ちらりと浮かんだ情報を布貴に伝えるべきか悩んで悩んで悩んで……、

「なんですか?」

 布貴やんわり促されたので、答える。

「……胸が、でかい。こんくらい」
「そうですか」

 小さな声で、一応大体の大きさまで伝えると、布貴は軽く頷いた。
 軽蔑の視線を向けられるかとも思ったが、思いの外あっさりした反応だった。千里は少しだけ安堵して息を吐き出した。

「服装は?」
「とにかくこの世界じゃ目立ちそうな、明らかに変わった格好だ。洋服って知ってるか?」
「いいえ、初めて聞く言葉です」
「だよな……。着物とはまったくの別物だ。絵を描いて見せられたらいいんだけどな……」
「あ、そうですね。似顔絵とかがあれば……」

 これは名案、とばかりに布貴が食いつくが、千里は顔を顰めて首を横に振る。

「残念ながら俺の美術の成績は二だ。別人にしかならん」
「二……? ですか?」

 布貴が首を傾げた事で、千里はこの表現方法が天宮界では通じない事を理解した。

「ああ、わかんないか。こっち、学校ってあるか?」
「がっこう……いいえ」
「同じ年くらいの子どもたちが集まって勉強する場所なんだが」
「ああ、私塾みたいなものでしょうか」
「そんなとこか。天離界の学校じゃ、学ぶ教科ごとに成績評価があってな。学校ごとに多少違う事もあるらしいが……うちは五段階評価。一から五の数字で格付けされるんだ。一が一番悪くて五が一番良い。三までなら胸をなでおろせる成績だが二になるとがっくり肩が落ちるような評価だ」
「一ではなく?」
「一になっちまうと顔から血の気が引く段階だな」

 なにせ留年の可能性が出てくるのだから。もう一度同じ学年で勉強し直すだけの事なのだが、留年者に対する世間の風は冷たい。親は不出来な自分の子どもを嘆く。人間は自分より劣るものを蔑視する。そうして生まれるのは一種の強迫観念だ。
 もっとも、千里は成績表に「一」とつけられた事はまだないが。これがつくのは相当成績がよくないか、そもそも出席日数が足りない生徒くらいではないだろうか、と千里は考えている。

「なるほど……つまり千里は、絵を描く事があまり得意ではない、という事ですね」
「少し遠回りになったが、そういう事だ」
「それではしかたありませんね」

 千里の芸術的なセンスはかなりひどい。美術だけではなく、音楽の評価もよくない。声はいいのに、と音楽の教師を残念がらせたのは一度や二度ではなかった。そういった中でも、とりわけ絵は苦手だ。
 中学生の頃、美術の課題のため、ひめと組んで互いの似顔絵を描き合った事がある。その時でき上がった千里の絵を見てクラス中が愕然としたものだ。当のひめだけは「せんちゃんてば相変わらずへたくそー」などと言いながらけらけらと笑っていた。
 千里だって、できる事ならひめを可愛らしく描いてやりたかった。しかしその能力が千里にはないのだからどうしようもない。

「あ、あと」
「はい」
「あいつは異様にモテる」
「……はあ?」
「普通っぽいのにも、性質が悪そうなのにもな。男からも、女から見ても、妙に目を惹くらしい」
「……そうですか」

 布貴が胡乱気な視線を千里に向ける。

「あ、お前馬鹿にしてるな。ひめは本当にそうなんだ。あれは一種の体質なんじゃないかと思うぞ」

 それから千里は、これまでのひめにまつわる苦労話を訥々と羅列していった。幼稚園でガキ大将にいじめられていたあたりなどは可愛いもの。ある日見るからにガラの悪い男どもに誘拐されそうになったり、次から次へとストーカーをひっ付けたり――ここでストーカーについて説明するという工程も追加された――、血の気が多い奴に強引に迫られたり。
 そういった類の話が十件目に届く頃には布貴は表情を硬くし、茶々を入れる事もせず千里の話を聞いていた。直近の事件を語り終えたところで、布貴はようやく言葉を紡ぐ。

「ひめさんは……もしかしたら《加護》を受けていらっしゃるのかもしれませんね」
「加護?」
「神からの祝福、と表現するのがわかりやすいでしょうか。加護を戴く人間は神の恩恵を受けますが、同時に災難にも見舞われやすいのです。世界の理により、一人に振りかかる幸不幸の量はある程度の調和が保たれています。そのため、大きな幸運を約束された者の頭上には、同じく大きな困難も振りかかる。……千里、私は最初、あなたの言を誇張だと思いました。しかし、話を聞いているとどうやらそうではないような気がしてきました。ひめさんの災難は多過ぎる」
「ちょ……っと待てよ。天離界には神はいないんだろ? なんで天離界生まれのひめが神の加護なんかもらってるなんて話が出てくるんだよ」
「いないのではなく、存在が希薄なのだそうです。おそらく影響力もあまりないのでしょう。しかし、私はあなたにこう教えたはずです。天宮界と天離界は深いところで繋がっている、と」
「……確かに、聞いたな」

 千里の事情を聞いた布貴が、天宮界と天離界について説明してくれた時だ。三日ほど前の記憶だ。まだきっちり覚えている。肯定した千里に、布貴が一つ頷く。

「転生、というものをご存知ですか? 生まれ変わり、とも言うのですが」
「概念くらいは知ってる。死んだ人間が未来に別の人間として生まれるってやつだろ?」
「はい。こちらでも、やはり限定的にしか知られていない事ですが……それは天宮界、天離界ともに実際に起こる現象です」
「なっ……」

 千里は愕然とした。千里にとって、転生というものは夢物語に等しいものだ。宗教的要素を多く含んで語られるものであり、現代ではファンタジックな要素として扱われる。なぜなら、死後の魂の行方についての科学的証明がなされていないからだ。
 証明するには、証明する本人がそれを実体験しなければならないし、証明したい相手にも体験できなければならない。しかし、死後の世界は言葉の通り死後にしか触れる事はかなわず、死した者は生き返る事も生者の世界に干渉する事もできない。千里個人としてはあってもなくてもどちらでもいい世界だが、あるのならばそれは一種の別次元であり、ある意味では一番身近な異世界とも言えるような気がした。
 死後の事は死者にしかわからない。そう諦めがついているのが世界的な認識だ。そんな世界で生きる千里にとって、布貴の発言は爆弾が爆発するくらいの衝撃を与えた。

「おま……それ、とんでもねーぞ」

 千里の中では、すでに布貴の言葉を疑うという選択肢は消えうせたものだった。天宮界の事をほとんど知らない千里からすれば、布貴の言葉は疑うだけ無駄な労力だと思えたし、また三日も行動を共にすれば彼女がそういった嘘はつかない人物である事くらいはわかってくるものだ。
 否定する様子のない千里に、布貴はどこかほっとした様子を見せた。彼女は「限定的にしかしられていない」と前置きしていたのだ。天宮界でも大多数の人間は転生が実際に起こる事であるなどと本気で信じてはいないのだろう。頑として否定されたらどう説明すべきかと身構えていたのかもしれない。

「で、その転生って現象が、ひめが加護を受けてるかもしれないって事に、何か関係あるのか?」
「はい。実際に起こる現象とは言っても、誰が、誰に、何時、何処に生まれるのかはわかりません。しかし、これに関していくつか確実に言える事があります。その一、転生は世界を限定しません。天宮界で死んだ者が天離界に転生する事も、天離界で死んだ者が天宮界に転生する事も、どちらも有り得る事です。その二、転生した場合、生前に受けた加護は継続します」
「継続……?」
「加護とは個人に与えられるものではなく、魂に与えられるものです。魂が神の意図から外れ穢れたならば、加護は剥奪されます。そうそう滅多にある事ではありませんが。……以上の二点から、たとえ天離界で生まれ育ったひめさんが神の加護を戴いていても、まったく不思議はないという事になるのです」

 つまり、布貴はこう言いたいのだ。ひめの魂はかつて天宮界で生まれ落ちた事があり、その際に神の加護を受けた。その加護を引き継いだまま天離界にて《市ノ瀬ひめ》として誕生した可能性がある、と。

「……冗談、だろ?」

 恐る恐る問うと、布貴はふるふると首を横に振った。
 わかっていた。布貴はそんな真剣な顔でそんな真剣な冗談は言わないだろう事くらい。しかし、与えられた情報は千里の常識を軽々と飛び越しているため、どうしても飲み込みきれない。
 そんな千里を様子を察してか、布貴が安心させるような穏やかな声調で言う。

「まだ可能性の話です。その、ひめさんは千里と同じ年頃ですよね? それにしては災難の数が多過ぎる……というのは私の個人的な印象でしかありません。ただの偶然かもしれませんから」
「……そっか。そうだな」

 そう答えはしたものの、千里は胸の引っかかりが取れないでいた。
 千里はひめと幼馴染だ。ひめが危険にさらされた時、必ず傍に千里がいた。その千里から見ても、布貴の「災難が多過ぎる」という言葉を否定しきれない。どうしても「そんなものだろう」と割り切れない。千里自身、ずっとそう思い続けてきたのだ。
 ひめには周囲を惹きつける何かがある。男からは異様なほど下心込みの好意を向けられる。それでいて、同性から嫌われた事もない。ひめの可愛らしい顔にあの大きな胸だから、男が好意を向けるのはわかる。しかし、あれだけ男に好かれながら女からも好かれるというのは、なかなかにない話のような気がするのだ。
 ひめが加護を受けているというのなら、それこそが与えられた恩恵なのかもしれない。そしてまた、千里も――――

「……くだらない」
「どうしました?」
「いや、なんでも」

 自分がひめを守ろうとする事も、加護による恩恵の形なのかもしれない。一瞬、そんな考えが過った。しかし千里は短く吐き捨てる事でその思考を斬って捨てた。
 ひめを守りたい。それは千里の願いであり、望みであり、意思でもある。たとえ加護が関わっていたとしても、千里には関係ない。
 千里のすべき事。それは、ひめを見つけ出し、取り戻す事だ。

「さて、千里。とりあえず……」
「おう、なんだ?」
「お風呂に行きましょうか」

 千里の脳内で激しい稲妻が走った。時が止まった。実際に再稼働するために要した時間は十秒程度だったが、千里には何時間にも感じられた。
 室内に緊張が走る。布貴は微笑んでいる。千里がじり、と後退る。

「……俺はいい」
「いけません。三日とはいえ、何度も襲われましたから、どろどろですよ」
「いや、でも……」
「あら、もしひめさんにお会いした際、そんなどろどろの状態でひめさんを抱きしめるつもりですか?」
「うっ……いや、いやいや、抱きしめるって決まってないし」

 思わず突き刺さった言葉だったが、うっかりその光景を想像して恥ずかしくなり、頭を振って否定した。しかし布貴は退かない。

「引き裂かれた幼馴染、感動の再会。特に千里はひめさんが攫われた際に怪我を負ったそうじゃないですか。無事なあなたを見たらひめさんはきっと泣いて喜ぶのでは?」

 さすがにこれは否定する事ができず、千里は黙り込むしかなかった。
 確かに、ひめなら有りうる。そして、汚れた状態でひめが抱きついてきた場合、彼女まで汚す事になる。それはよくない。しかし、だからと言って「風呂に入れ」というのは受け入れがたい。
 何故なら千里は今女の体であり、見た限りこの室内に浴室が取りつけてある様子もない。となれば、風呂は共同ものという事になる。

「観念なさい、千里」
「……面白がってるよな」
「少々」
「だよな!」
「ですが、ひめさんの行動については嘘偽りない予想ですよ。どうします?」

 それは千里も否定しない。できなくて先ほどは黙したのだ。しかし、だとしても、千里はここで頷く事はできなかった。そもそも、問題があるのは千里だけではないはずなのに、布貴はまるで気にしていない様子だ。千里の頬をつうっと一筋の汗が流れていく。

「……あのさ、布貴」
「はい?」
「……風呂って、共同だろ?」
「はい」
「……お前も入るつもりだろ?」
「もちろんです」
「俺が本来は男だって、知ってるよな?」
「…………」

 布貴が目を丸くして黙った。千里が止めの一言を発する。

「……俺に裸見られてもいいのか?」
「……そうでした」

 単に思い至らなかったのか、それともあるいは千里の本来の性別を完全に忘れきっていたのか。何にせよ、布貴のほうもようやく問題点が思い当たったらしい。
 しかし、彼女が恥ずかしさで顔を赤に染める事はなく、ひたすら困っている様子を見せる。

「どうにも、今の千里しか知らないので抵抗感が薄いんですよね」
「お前な……」

 がっくりと肩を落とした千里に、布貴は「見てください」と声をかけた。千里は顔を上げて、ぎょっとした。目の前に持ち出された、もともと部屋に備えられていた姿見に映る少女の姿。目を丸くして、ぱかっと口を大きく開けて驚いているその表情は、そのまま千里の心境であり、また実際に千里の表情そのものだった。

「どうですか?」
「……どうも何も……」

 もはやぐうの音も出ない、といったところだ。
 鏡に映し出された自分は、普通の、どこにでもいるような少女にしか見えなかった。
 特別華奢なわけではないが、それでも男よりはずっとほっそりとした手足。首。髪型は男の状態と変わらないが、千里は特別短くしていたわけでもなかったので何の変哲もないショートヘアに見える。
 何より、その顔。少し前の千里の顔は、成長期の男子らしく、幼さを残しながらもかたい印象を与えていた輪郭だったはずだ。しかし今、輪郭が丸みを帯びた事で幼さをさらに増している。
 男である千里の面影は残しているが、知らない人間が見たら今の千里は本当に女としか思えないだろう。

「もちろん、仕草は男の頃のままでしょうけれど。それを加味しても、男勝りな女の子にしか見えないんですよね」
「……俺が嘘をついてるとでも?」
「いいえ、ただ実感がないです」

 じっとり睨むと、やんわりかわされた。
 確かに、今の千里は女の体らしい。共同風呂に入っても、誰も咎めはしないだろう。
 それで割り切れないのは、いまだ男の意識である自分が女と一緒に風呂に入る事は許されない、と思うからだ。
 ストイックな性質、というよりは幼い頃からしみついた意識だろう。千里はひめを男のいやらしい目から守る立場にずっといたのだ。そのため、同年代の男に比べると千里はかなり禁欲的になってしまっている。
 しかし、そんな千里の葛藤を布貴は笑顔で踏みつぶす。

「では千里、選択の時間です。自らを茨の中に放り込むか、ひめさんを汚すか」
「……すごく誤解を生みそうな選択肢だな。特に後半。あと結局自分の事はいいのか」
「私にとって千里は女性なので気にしない事にします。ちなみに、旅の道中は我慢していますが、私、不潔は好みません」
「……それ脅し? なあ脅しなのか?」

 言外に「風呂に入らないなら放り出す」と言われているような気がしたのだ。布貴はにっこり笑んで小首を傾げた。

「さあどうでしょう」



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