TopText番犬が行く!

09 広がる不安、深まる疑惑。



 風呂で体の汚れを落とした布貴は、久方ぶりにさっぱりした心地で外を歩き、都の隅に建てられた神社を訪れた。古ぼけた赤い鳥居には「鳴上(なるかみ)神社」という文字を浮き彫りにした神額が取りつけられている。
 その傍らに、三日ほど行動を共にした千里の姿はない。風呂でのぼせてしまった彼女――本当は《彼》らしいのだが、布貴にとってはやはり《彼女》のほうがしっくりくる――は宿に置いてきた。

 ――少し、はしゃぎすぎてしまいましたね。

 真っ赤になってぐったりしている千里の姿を思い出し、それがおかしくて小さな笑いがこみあげてきたが、同時に少しの罪悪感に似た反省も浮かんできた。
 布貴には同年代の友人がいない。親戚だけは大勢いるが、それについても幼少の頃はともかく、布貴が十を過ぎたくらいからは顔を合わせる事すら稀になった。近年はお役目の為に長期の旅に出ていたため、こうして都に足を踏み入れるのも何年ぶりになるのか。
 遠慮なく交わされるふざけた応酬があまりに心地よくて、うっかりやりすぎてしまった気がする。
 しかし、実際のところ千里がどのくらいの時間この世界で過ごす事になるかわからない以上、ある程度女性として振舞う事に慣れておくべきだ。風呂は富裕層でもなければ街中の共同風呂を使用する事が圧倒的に多い。旅人ならなおさらだ。
 千里にはいくらかの金銭を渡してきた。簡単にだが貨幣の意味、値段の計算方法についても説明した。動けるようになっても布貴が戻らなければ何もできない、という事では困るだろうと思っての対処だ。
 決して放り出すつもりはない。布貴には課せられたお役目があるが、それは別に期限が設けられているわけではない。元々、摘伽にやってきたのもお役目とは別の用事によるものだ。用事が一つ追加されたところで、誰が咎める事もないだろう。
 一人の女性が境内に姿を見せた。白の着物に赤い袴を履き、腰よりも伸びる長い黒髪を一つに束ね、箒を手にしている。布貴は鳥居をくぐり、彼女に声をかける。

「すみません、少しよろしいでしょうか」
「はい、なんでしょ……まあ!」

 振り向いた女性は営業用の笑顔を貼り付けていたが、布貴の姿を認めた途端、それを驚きで塗りつぶした。相手は顔見知り。数年会っていなかったが、すぐに布貴であるとわかったのだろう。

「お久しぶりです。早速で申し訳ありませんが、慧斗殿はいらっしゃるでしょうか」
「ええ、すぐ御取次いたします!」
「ありがとうございます」

 女性がばたばたと奥へ駆けて行き、ものの数分で布貴は尋ね人の元へ案内された。場所は神社の施設ではなく、この神社の宮司を務める者の邸宅だ。そこでは宮司を始め、宮司の縁者、神社に勤める者などが暮らしている。
 先ほどの女性に先導され、邸宅の一室に通される。

「おう。久しいな、布貴」
「お久しぶりです、慧斗殿」

 部屋の奥であぐらをかき、布貴を迎えた男。鳴上慧斗(なるかみけいと)。それが都に作られた鳴上神社で現在宮司を務めているこの男の名だ。
 慧斗に「そんなところに突っ立ってないで、こっちへこい」と誘われ、彼の前まで移動する。案内してくれた女性は、いつの間にか姿を消していた。

「驚いたぞ、お前が都にいるなんて。ここらはもう探しつくしたろう?」
「はい。今回は少々別件でして……」

 人好きしそうな笑顔を引っ込めた慧斗が、真剣な光を宿した瞳で布貴を見返す。

「……邪気の事か」
「……はい。十日ほど前よりこちらから邪気の気配を感じ、何事かと参じた次第です」
「そうか……そうだな。最近はうちの若い衆もほとほと参っているようだ」

 慧斗は立ち上がり、窓を開けた。

「見ろよ」

 促され、布貴も立ち上がり窓へと近づく。その先にあるのは、布貴が立つこの土地よりも高い位置に建てられた摘伽を治める血族の者が住まう城だ。
 摘伽はあまり大きな国ではなく、比例してその中心部たる国主の住まいもさほど大きくはない。城と呼ぶには小さすぎる気がしなくもないが、摘伽の民にとってはあれこそこの国唯一の城である。
 その城の上空に、常人には見えないだろう暗澹とした空気が立ち込めている。中心部が城なのか、またはその向うに見える山なのかは判然としない。山には祭壇がある。どちらにしろ、気がかりには違いない。
 なんとも言えない禍々しい雰囲気。邪気は雲ではないので太陽の光は変わらず燦々と降り注いでいるため、激しい違和感を禁じ得ない。

「見ての通りだ」
「山の様子は?」
「これがなあ……近付けねえんだ」
「……どういう事ですか?」

 慧斗に怪訝な瞳を向ける。向けられたほうは心底困った様子で続けた。

「国より立ち入りを禁じられちまってな。山の麓には兵が立っている。どうにかそいつらの目を盗んで入り込めた連中が数人いるが、一人も戻ってこない」
「一人も……!?」
「少人数ではどうにもならんらしい。となれば隊を組む他ないが、それで監視の目を潜り抜けるのは難事だ。国主様に立ち入り禁止令を解いてもらえるよう申し立てたんだが……未だ返答はなくてな。少し前に本家からも圧力をかけてもらったんだが、やはり無視だ」
「……お城で何かが起こっている?」
「やはりお前もそう思うか」

 慧斗が疲れた様子でため息をついた。

「城内の様子は……わからないのですね」

 確信を持って問いかけると、慧斗はやはり苦い顔で頷いた。

「残念ながらな」
「会合は?」
「先月、直前に延期の申し入れがあった。次の期日は未定。延期の理由も尋ねているが、こちらも返答なしだ」
「……妙ですね」
「だろう。俺もそう思って、小間使いに三人ほど新たに送り込んでみたが……こちらも全滅だ。一人として音沙汰がない」
「そんな……」
「かくなる上はと思い、先日俺も足を運んだんだがな……見事に門前払いを食らったぜ」

 苦々しい笑みには、多分の毒が孕まれているようだ。それも当然の事だろう。何が何やらわからぬうちに、彼は何人もの部下を失ってしまったのだ。

「本家はお城と事を構えるのは回避したいようでな。……とにかく動くな、との通達を受けている。今は本家から交渉を行なっているようだが、はてさて、どうなる事やらな。――ってところだ。心配してくれたのは嬉しいが、お前にはお前にしかできん役目がある。そっちの達成を優先するんだ。いいな?」

 がりがりと乱暴に後頭部を掻いた慧斗は、それまでの暗雲を振り払うように明るい調子を見せた。対して、布貴はど事なく晴れない表情でしばらく慧斗を見上げていたが、慧斗が態度を崩さないだろう事を理解し、諦めて頷いた。

「せっかく久しぶりに戻りましたので、これから二、三日は留まるつもりです。何かありましたらご連絡ください」
「はいはい」
「それから、もうひとつお聞きしたい事が……」
「なんだ?」
「《ひめ》という名前の少女をご存じありませんか?」

 今度は慧斗が怪訝そうな顔つきをしてみせた。

「ひめ……? 本当に名前なのか、それ」
「そのようです。年の頃は十代半ば。背は私の肩より少々低いくらいかと。後ろ髪が背中の中ほど、横髪は左右をくくっている事が多い。洋服と言う、着物とは違う衣服を着用し、男女問わず目を引く性質の少女だそうです」

 布貴が羅列した、千里から聞き出したひめの特徴から記憶を探るような仕草を見せた慧斗だったが、結局は首を捻るだけで終わる。

「うーん……まず名前から衝撃的な印象を受けるが、聞き覚えがないな。その少女がどうかしたのか?」
「都までの道中で行き合った方の探し人です」

 慧斗が呆れ顔を見せた。布貴は表情を変えず、それを受け止める。

「……お前さんはなんでそう無駄な苦労を背負い込むんだ?」

 そう言われたところで、布貴は一言も言い返す事はなかった。
 その行き合った相手が天離界の住人であると知れば、慧斗も納得するかもしれない。しかし、現時点でその情報は無用の混乱を引き起こす可能性がある。
 天離界はこの天宮界と似て非なる場所。近くて遠い、遠くて近い。隣人のようでありながらかけ離れた存在。物理的な繋がりはどこにもなく、多くの者がその存在そのものを知らない。
 天宮界から天離界を訪れるものは未だかつて例がないし、その逆も神の気まぐれによってごくたまに起こる程度。布貴とて千里に会うまで実際に天離界の者に会った事はなかったし、多くの者がそうであろう。
 千里の存在が鳴上の本家に伝われば大騒ぎになる。気にかかる点はあるが、今のところ大事にする必要性は感じないため、布貴はこの場は黙っておく事にした。
 代わりに、千里から聞いた、ひめ誘拐の様子を慧斗に伝えておく。

「これがあまり尋常ではない様子だったそうで……何でも、どこから現れたのかも知れない、黒くて太い蔦のようなものが自在に動き、ひめという少女を攫って行ってしまったのだそうです」
「……術、か」
「おそらく。ただ、人によるものかあやかしによるものかまでは判断できません」
「その行き合ったっていうのも、何も見なかったのか?」
「重傷を負わされ気を失ったそうです」
「……そらご愁傷さん」

 大して気の毒にも思ってないような軽い仕草で呟いた慧斗は、ふと真剣味を帯びた表情を浮かべ、腕を組んだ。何事かを考えているように見える。

「……何か、お心当たりが?」
「心当たり……というほどのものでもない。が、最近ちょいと気になってる話があってな」

 慧斗は再び座り込み、布貴にも座るように促した。用意されていた茶を少し啜り、一息ついてから話しだす。

「それに気付いたのはほんのふた月ほど前だ。溺愛していた一人娘がいなくなったと騒いだ夫婦がいた」
「誘拐ですか?」
「……少なくとも、役人側の見解じゃ家出だそうだ。その娘は夜の間に自分で家を出たらしい。争った形跡も破壊された戸や窓もなかったって話だ」
「なるほど」
「で、だ。その夫婦はうちを頼って来て、娘の安否を占ってくれと言って来た。勝手に出て行ったとはいえ、夫婦にとっちゃ可愛い可愛い大事な娘だ。安否が気になるのは当然だろうな。断る理由もないから、担当の者に占わせてみたんだが……」

 言葉が切られ、慧斗が視線を落とした。それだけで、布貴はおおまかな結果を理解した。

「……首が見えた、と言うんだ」
「首……?」
「そう。ここから上。それだけが見えたんだと」

 とん、と慧斗が右手をひらにして自らの喉を叩いた。つまり、占った結果見えたものは、行方をくらませた娘の生首だと言う。若い娘がそのような無残な最期を迎えた事に、布貴も慧斗同様に視線を落とした。

「どうも胸騒ぎがしてな。試しにここしばらくで家出したらしい娘を洗い出してみて、片っぱしから行方を占わせてみた。その内の実に四分の三が首を切られて死亡している、なんつー結果が出やがったよ」
「なっ……!?」

 それには布貴もさすがに目を見張った。実際に家出した娘が何人いたのかは知らないが、なんにしても、四分の三は多すぎる。
 確かに、若い娘が無計画に都を飛び出して生きていけるほど、この世界は生易しくない。しかし、ただ死んだというだけではなく、首を切られて死んでいる、という。
 それはつまり、何らかの意図が娘たちを絡めとり、殺害したという可能性が高くなる。慧斗もそれを感じとっているのだろう。全身に緊張を纏っている。

「こりゃあただ事じゃないと思って、娘たちの足跡を追ってみたんだが……これがうまくいかなくてな。なんせその子らが消えたのは夜中の話。目撃者なんぞいないに等しい。占術も駆使してみたが……お城の方角、としかわからんかった」
「……また、お城ですか」
「と、思うだろ? すぐにでも押し掛けたいところだが、確証がない。さっきの事も合わせて、本家からは待ったがかけられている状態だ」

 鳴上と城の関係は深く、それゆえに複雑だ。どうにか穏便に解決したいと本家は考えているのだろう。
 嫌な予感がする。しかし、それは布貴の勘でしかないため、それだけでは動けない。それは慧斗も同じなのだろう。顔に「まいった」と書いてあるようだ。

「とにかく、俺たちは本家からの次の通達を待つしかねえって事だ」
「……鬱憤が溜まっているご様子で。気晴らしに遊びにでも出かけられたらどうですか?」

 吐き捨てられた言葉を受け、布貴が苦笑交じりに提案する。それを耳に入れた慧斗は、布貴の眺めてにやりと、非常に愉しそうな笑みを浮かべた。
 まずい、と思ってみても後の祭り。

「それもそうだなあ。よし、付き合え、布貴! 鬱憤晴らしだ!」
「ちょ、あの、慧斗殿!」

 腕を引っ張られ、無理やり立たされ、引きずられるように歩く。先ほどまでの不機嫌そうな様子からは一転、慧斗は鼻歌をうたうほどの上機嫌だ。布貴は諦め、乾いた笑いをこぼした。
 宿に戻るのは遅くなりそうだ。千里に金銭についての知識を伝えておいてよかった、とその過去については自分を褒める。しかし、ほんの数秒前の己の短慮にはため息をついた。
 慧斗が戦闘狂であるという事を、すっかり忘れてしまっていたのである。



 × × ×



「あぁー……酷い目にあった……」

 千里は通りの隅でぐうっと全身を伸ばしてから、ため息交じりに吐き出した。
 結局布貴に押し負け、風呂に連れて行かれ、のぼせてしまい、今の今まで宿の部屋で横になっていたのだ。のぼせた原因は湯あたりのみではないだろう。
 油断すると風呂での光景がちらつきそうになる。その度に、千里は激しすぎるほどに頭を振ってそれを払う。男としては人生においてなかなかないであろう極楽な光景だったのだろうが、異性というと身近にひめくらいしかいない千里からすると、一種の毒のようだった。鼻血を出すという失態を犯さなかった事は幸いと言えるかもしれない。
 とはいえ、数日ぶりに入った風呂は心地よかった。千里はそれほど風呂好きというわけではないのだが、こう何日も風呂に入らなかった事は初めてだ。風呂に入っている間はそれどころではなかったが、こうして一息ついて外に出てみると素晴らしい爽快感を覚える。風呂は大事だ、と千里は思い知った。これで邪気とやらがなければ、文句なしなのだが。
 自由になった右腕を見た。風呂のついでに固定した状態から解放したのだ。布貴の言葉通り、もう痛くも何ともない。ぐるぐると肩から回してみるが、違和感もない。骨にヒビが入った場合、どう頑張っても現代医学では三、四日で完治はありえない。しかし、現に千里の右肩は治っている。腹部の傷も、あれ以来一度も痛まない。傷痕は残っているが、完全にふさがっている。布貴の持っている薬というのは、いったいどういう薬なのか。本人は霊薬と言っていた。当初はあまり真剣に信じてはいなかったが、実際今日まで腹の傷が開くこともなく、右肩ももうなんともない。これは本当に不思議な薬なのかもしれない。
 懐に布貴から預かった金銭、左手で刀を持ち、千里は歩き出す。
 風呂からあがってどれくらい時間が経過したのかはわからないが、布貴はまだ戻ってきていない。じっとしている事に飽き、また焦りに似たものを抱えている状態ではただ待つ事もできず、千里は宿から出てきたのだ。
 一応、金銭についての簡単な説明は受けたので、腹が減ればそこらの店で何か買って食べればいい。幸い、摘伽で使用されている文字は千里もよく知る漢字やひらがなだ。多少違うところもあるようだが、ほぼ問題なく読む事ができる。
 ひめは一体どこにいるのか。道行く人にひめを知らないか尋ねてみようかと考えて数秒、千里はそれを実行する事を迷った。
 ひめを連れ去った何者かは、千里の顔を知っている。今は女になっているので向こうは気付かないかもしれないが、ひめを探している者がいると向こうが知れば、ひめに危害を加えるかもしれない。できれば静かにひめの手掛かりをつかみたい。しかし、この世界に伝手も何もない千里にできるのは聞きこみくらいだ。
 どうしたものかと千里がぐるぐる悩んでいると、

「誰か、そいつ捕まえて! 盗人だ!」

 まだ幾分幼さの残る少女の声が、千里の鼓膜に突き刺さった。



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