TopText番犬が行く!

13 誓い、誰が為に。



 喧嘩は千里の負けだった。
 汚れなど気にせず地面に大の字で寝そべり、情けなくも忙しない呼吸を繰り返す。慧斗は大きな岩を椅子替わりにして、水を浴びるように飲んでいた。

「ぶっはぁ! ああ、うめえ! 千里、お前さんも飲むか?」
「……もらう」

 体を引きずるように起こし、水が入った竹筒を受け取る。ごっくごっくと五回ほど喉を通す頃には水の冷たさが体の芯まで沁み渡り、沸騰するように興奮していた脳が完全に落ち着きを取り戻していた。

「……すみません、ありがとうございました」
「んなかしこまんなって! さっきまでの威勢はどうしたよ、千里」
「いやでも、慧斗さんは年上だし……」
「年なんざ関係ねえよ。俺とお前さんは本気で遊んだ仲なんだ。遠慮は無用ってもんさ。呼び方も『慧斗』で構わん。本当なら布貴にももっと砕けてほしいんだがなあ。あいつのあれはもう性質だな」

 かかっ、と笑う慧斗に、肩から力が抜ける。なんだか自分が意固地になっているだけのような気がして、馬鹿らしくなった。

「……わかった。水、ありがとう」
「そうそう、その調子だ」

 年に似合わない無邪気な笑顔を見せる様子に、単に同じ趣味の友人が欲しかっただけなのではないか、という気さえしてくる。そして、それがあながち間違いではない気がするのは、喧嘩中の彼がまるで幼い子供のように楽しそうなかおをしていたからだ。

「慧斗、強いな。何ていうか、年季が違う気がする」
「あったぼーよ! こちとら物心ついた頃から喧嘩三昧だからな!」
「威張れる事か」

 千里が呆れても、慧斗は欠片ほども気にしないと言わんばかりにいっと口を歪める。

「いいんだよ、俺の誇りなんだからな。まあなんだ、千里も初級者にしちゃいい線行ってたぜ。とりあえずはもうちょっと思い切りが欲しいところだな」
「前に一回、最中完全に意識がすっ飛んでた事があったけど」
「それは駄目だ。意識ねえんじゃ楽しくねえだろうが」

 同意しかけて、理性がそれを思いとどまらせた。慧斗はおそらく、ある程度のところまで行きついてしまった人間だ。彼曰く初級者である千里には、まだそこまで思いきる事はできなかった。

「だが、今のは楽しかったろう」
「……ああ」

 自分より格上の相手と向き合う事がこんなにも心躍る事だったとは。昨日までの千里は思いもよらなかっただろう。脳は冷静さを取り戻したが、心臓がドックドックと跳ねるように鳴る感覚は未だ興奮の余韻を引きずっている。
 父はあくまで千里に教える立場だった。体術の師匠も同様だ。彼らと真っ向から戦おうなど、千里は考える事さえなかった。不良達にぼろぼろにされた事もあったが、個々の力で言えば千里の方が上だという気がしている。小学生の頃、千里の腕と肋骨を折った男たちの事を想像しても、今なら負けないと思える。
 何より、千里が戦う時、そこには必ずひめがいた。ひめを守る、という絶対の理由が千里の中にあった。楽しむなどという事は論外だったのだ。
 けれど、先程の喧嘩はそういった理由がなかった。難しい理屈は一切なし。ただ純粋な力のぶつかり合い。
 初めてだった。
 心の底から、「勝ちたい」と思ったのは。
 結果として負けてしまったわけだが。まず、慧斗は千里に比べ幾分年上だ。その分、千里よりも修行を積んでいるだろう。おまけにここは彼ら曰くの天離界ではない。真剣で命のやり取りをするような世界。彼らの修行はより実戦的なもののはずだ。剣道の基礎と、子供の喧嘩による実戦程度の経験しかない千里で敵うはずもない。
 だからこそ、考える。どうすればこの男を超えられるか。その答えは、すぐには出そうもないが。それを考える事すら、千里には愉快に思えた。
 土と汗にまみれながらも充実した笑みを浮かべる千里に、慧斗もまた子供のような笑みに変わる。

「俺も楽しかったぞ」
「俺程度が相手じゃ、あんたには物足りなかったんじゃないか?」
「そりゃあちっとはなあ……でも、その分先を思う楽しみができたから文句はねえよ。お前さんはこの先、もっと強くなるだろうからな」
「……先って……俺、ひめの事助けたら帰るつもりなんだけど」
「あ! そうかしまった!」
「……ふはっ……あててっ」

 本気で忘れてしまっていたらしい。そんな慧斗の反応があまりに可笑しくて思わず噴出すと、同時に小さな痛みが襲ってきた。どうやら口の端を切っていたらしい。

「おっと。あー、すまんすまん、なるべく顔には傷付けんようにとは思ってたんだが」

 そんな余裕があったという事だ。それに気付いた千里は、ほんの少しむっと顔をしかめる。

「気にすんなよ、こんくらい。もっとぼこぼこになった事もあったし」
「……お前さんなあ、もうちょっと気にしろよ。せっかく綺麗な顔してんだからよ」
「ひめが怪我してなきゃいいさ」

 それに実は女ではないし、とは思うだけで言わなかった。
 慧斗のこの反応からして、布貴は結局何も言っていないのだろう。わざわざ自分から面倒を招く必要はない。それに、顔の心配をされるくらいで、特別女として扱われているという感じはしない。なにせ慧斗の打ち込みは結構容赦なかったのだ。千里なら女に対してあんな威力の打ち込みはしない。そう考えると、慧斗を相手にしていると性別の変化についてあまり強く意識しなくなる。
 慧斗は溜息をついて、背筋をぐっと伸ばした。

「とにかく薬を塗ろう。うちの薬はよく効くぞ」
「もしかして、布貴が持ち歩いてる霊薬ってやつ?」
「なんだ、とっくに世話になってんのか」
「こっち来たばっかの時にな。ひめを攫ってった奴に腹刺されたんだけど、その傷が一日で治った。すごいな、あれ」
「ああ、そういや布貴も重症って……よく生きてたな」
「俺もそう思う」

 無意識に腹部を撫でる。帯と着物の下にははっきりとした痕が残ってはいるものの、傷自体は完全に塞がっている。ヒビが入っていたはずの肩ですら、今では元気に振りまわせる。天宮界に出てすぐさま布貴と出会えたのは、千里にとってこの上ない幸運だった。
 二人で屋敷の中に入ろうとした時だ。
 ふわりと白い鳥が慧斗の前へと滑り込んだ。その時は不思議と淡い光を纏っているように見えた。

「こいつは……」

 慧斗の声が強張る。千里は声をかけようとしたが、張り詰めていく空気にその機会を逸した。
 千里が見守る隣で、慧斗はゆっくりと手を差し伸べ、白い鳥に触れる。指先が接触したかと思った途端、それは幻のように空気に溶けて消えてしまった。

「あの馬鹿がっ……」

 慧斗はその手を握り締め、苦々しく吐き捨てた。千里は恐る恐る口を動かす。

「慧斗、今のは……?」
「ああ……布貴が放った《巫術(ふじゅつ)》だ。って言われてもお前さんにゃわからんだろうが……まあ不思議な術だと思っとけ。一般人の認識はそれでいい」

 随分と適当な答えではあるが、それはそれでわかりやすい。詳しく説明されたところで、この世界について疎い千里が間違いなく理解できるとは思いがたい。

「それで、さっきのはどういう術なんだ?」
「他者に情報を伝達するためのものだ。伝書鳩を術にしたもんだな」
「……何か、言ってきたのか?」

 千里は慧斗と目を合わせた。逸らさず覗き込むと、慧斗の方が降参とで言うように溜息をつき、軽く頭を垂れた。

「……どうもお城の連中に捕まったらしい」
「え!? だ、大丈夫なのか!?」
「大丈夫ではない。が、すぐどうこうって事はないだろう。そう簡単に殺されるタマでもねえさ。しかし……布貴ほど巫術に長けた奴がさしたる情報も送ってこれねえとは……予想はしていたが、厄介な事態だな」

 捕まったら、どうなるのか。
 千里は特にこういった中世日本に近い世界観に精通しているわけではない。だから、城に拘束された人間がどうなるのか等についてはまるで知識がないのだ。
 不安なのは、布貴が残していった情報。音信不通になった間者たち。もし何らかの事情があって連絡できない状況であると言うのならいい。しかし、もし彼らがすでに殺されているとしたら……?
 布貴も殺されるかもしれない。その想像は、千里の想いを駆り立てるには十分すぎた。

「……慧斗、城に忍び込む方法はあるか?」

 慧斗は特に驚く事もなく、何ともやるせなさそうな眼で千里を見下ろす。

「昨日のやりとりからして、慧斗たちは動けないんだよな。なら、俺が行く! 俺には鳴上なんて関係ないからな、いつどこで何しようが自由……って事になるだろ?」

 慧斗も最初からわかっていたはずだ。荒事にもある程度対処でき、今自由に動けるのは千里しかいない。だから彼は、大して悩みもせずに布貴の窮地を知らせたのだ。言えば、千里が動くと予想して。
 それでもその選択は彼にとって苦渋のものだったのだろう。布貴が捕らわれた事により、城の危険性がはっきりと浮かび上がってきた。そこに、大した実戦経験もない子供を送り込むしか、今は手がない。
 彼はきつく目を閉じ、力なく頭を下げた。

「……すまん」
「いや、元々俺の問題なのに、あいつに任せた俺が悪いんだし」
「ところがそういうわけでもないんだ、これが」
「え?」

 どういう事か、と千里が首を傾げる。慧斗が頭を上げると、その瞳には冷たい炎が宿っていた。ひやり、と緊迫感が千里を包む。それはまるで、昨夜の話し合いの場のような空気だった。

「ひめちゃんは加護持ちである可能性が高い、っつってたな。少なくとも布貴はそう判断した。そうだな?」
「あ、ああ……」
「布貴は自分の発言に責任が持てる奴だ。大して可能性のない話をそうそう口にするとは思えん。おそらく相当高確率でそうであろうとあいつは判断したんだな。……だとすると、ちょいと嫌な話になってくるんだ」
「どういう事だ?」
「今、都周辺じゃどこそこの娘が行方知れずになるっていう話がそこらにごろごろしてる。大概が家出と思われるもんだが、ここ三か月あまりでその数が九十に届こうとしている」
「そんなに……? でも、それとひめと何の関係があるんだ?」
「こっから先の話に確証はねえ。本当なら布貴が何かしら掴むつもりだったんだろうが……。関係者以外にはあんまり知られてねえ事なんだが、この摘伽はちょいと厄介な土地でな……ここにはある神様が封印されているんだ」

 本来であれば、ここは驚愕するところだったのかもしれない。しかし、千里はきょとんとするしかなかった。

「……神が、封印……?」
「おっと、天離界は神の存在が希薄なんだったな。お前さんには信じがたい事かもしれんが……すまんが無理にでも飲み込んでくれ。今回の件に関しては無関係じゃないんでな。信じてもらわんと困る」
「……わかった」

 そう言われては頷くほかない。すると、慧斗はほっとしたように、一瞬だけ目元を和らげた。

「いい子だ。……そもそも鳴上の役割はこれの封印守でな。封印自体は時が来れば自然に解けるものらしいんだが、一応巫子が祝詞を捧げる事でも目覚めるだろうとは言われている。試したやつはいないがね。それ以外の方法も伝えられてるんだが……こいつは外道だ」
「……よくない方法って事か?」
「ああ。方法も、結果もな。――まず、神の眠る地で九十九人の乙女の血を捧げる。一度に捧げても駄目だ。一日、一人分」
「……それは、ちょっと傷をつけて血をたらす、なんて程度じゃ……駄目なんだよな?」

 確信を持って問いかけた。案の定、慧斗は重く頷いて見せた。

「だろうな。血を捧げろっていうのは、つまるところ生贄を捧げろって事だ。この九十九人の命はまずないと思っていいだろう。そして、最後、百人目。これはただの人間じゃあ駄目だ」
「なんで?」
「この方法で目覚めた神様は《アラノカミ》化しちまう。……って、これもわかんねーよな。あー、荒ぶる神って意味なんだが……これでわかるか?」
「えぇっと……荒々しいっていうか……ようするに暴れるって事か」
「おうよ。しかも見境がない。神は祀る人間に恩恵を与えるものとして語られる事が多いが、反面それを怠れば祟る存在でもある。しかし、恩恵を与える性も崇りを与える性も一柱の神の中に同居するもんだ。俺たちはそれらの状態をそれぞれ《ナゴノカミ》、《アラノカミ》と表現する。――《アラノカミ》を制御する事はできない。通常はな」
「って事は、制御する方法がないわけじゃない……?」
「ああ。その鍵となる最後の生贄、百人目は重要な役割を担う。神を制御するための礎となるんだ。……そんな大役、よほど徳の高い巫子か、加護持ちの人間以外には務まらん」

 途端、千里は驚愕に眼を瞠り、次いで思い切り遠慮なく顔を顰めた。

「俺の言いたい事、わかったか?」
「……嫌ってくらい」

 なるほど、こうしてしっかり話を聞いてみれば、昨日も今も、布貴や慧斗がこうまで緊張する理由が理解できる。百人の人間を生贄に、封印されている神を無理矢理引っ張り出そうと言うのだ。神の封印を解くという行為自体がどれほど危ないものなのかまでは千里にはわからないが、そのために百人もの人間を犠牲にしようという、その考えがまず恐ろしい。
 そこに自分の幼馴染みが含まれていると言うのだから、尚更だ。

「最初は布貴のただのおせっかいだったんだろうが、関わってみりゃうちとも無縁の話じゃあなかったってわけだ。とは言え、確たる証拠がないんで今のところは推測の域を出ないんだが。――正確な行方不明者の数がわからん。いつから始まっているのかもわからんし、下手すりゃうちの連中も何人かやられてるだろう。すでに手遅れの可能性もある。逆に、布貴が飛び込んで行った事で、ひめちゃんはお役御免になった可能性もあるが……その場合でも、生きて戻れるかは保証できん」
「そこまであんたらに求めてない。……頼むからそういう話はもっと早く教えてくれ」
「すまん」
「もういいよ、今さら。……とにかく、俺行くよ。ひめは当然、布貴も見つけてくる。あいつには散々世話になったからな」
「すまん……恩に着る」
「着なくていいよ、そんなの」
「しかしだなあ、こういうのは本来封印守である俺ら鳴上が動くべきなんだ。それを無関係……じゃ、ねえけど、一応一般人の奴に押し付けるのはなんつーか……やっぱこう、申し訳ないわけよ。そもそも、お前さんも幼馴染みちゃんも被害者なんだしなあ」

 ぐちぐちと言い続ける慧斗。その言い分を聞いていると、まともな人のように見える。考えてみればそもそも、彼はここ鳴上神社の宮司を任されているのだ。本家というものが存在するからには、そこの承認も得ているのだろう。宮司としての最低限の責任感はあってしかるべきなのだ。
 戦闘狂という一面の印象的すぎて、すっかり頭から抜け落ちていたが。

「いいんだって。俺は俺にできる事やってるだけなんだからさ」

 結局この人も、布貴に負けず劣らず《いい人》なのだ。そう思うと、緊張感は変わらずあるのに、どことなく力が抜ける感じがした。自然に目尻が下がり、口の両端が緩く上がる。
 ふいに、じいっと慧斗が真剣な眼で千里を見つめた。どうしたのだろうか、と問いかける前に、慧斗の方が口を開く。

「……なあ千里、事が片づいた後、天離界に帰らないでこっちに永住しねえか? ウチで面倒見てやるから」
「はあ? なんだよ、急に」
「伝わんなかったか? 直球で『嫁に来ねえか』って言った方が良かったかな」

 硬直五秒。直後、千里はずさっと音を立てて慧斗から距離を取った。

「――んなっ、ざっけんな、誰が行くか!」
「いやあ、だってよ? お前さんとは色々解り合えそうだし、これからも強くなりそうだから帰すのは惜しいし。あと美人だし」
「やめろ、寒気がする! ……いや、つか美人って要素はついでかよ。あんた、女選ぶ基準考え直した方がいいんじゃないか?」
「乱暴な口調も新鮮でいいなあ」
「……それ以上言うならあんたのイチモツ叩き潰す」
「すまん、冗談だ」

 意識的に眼を据わらせ、木刀を握り締めてあからさまに脅せば、慧斗はあっさりと手のひらを返した。笑顔はからっとしたものだ。千里はぐったりと肩を落とした。

「ちっとは緊張ほぐれたか? ガチガチに固まってると返って失敗するもんだからな」
「……言ってる事はわかるけど、永住のくだりは完全にいらなかったよ。時間の無駄だ」
「すまん、すまん。まあそう急くな。何があるかわからんからな、腹ごしらえくらいして行った方がいい。傷の手当てもな」

 完全に脱力してしまった千里は、慧斗の提案を一つとして跳ねのける事ができなかった。



 × × ×



 傷の手当てを受け、簡単な食事を供された後、千里の前にはずらりと四種類の金物が並べられた。

「これは……?」
「餞別だ。持って行くといい」

 慧斗は端から手に取り、千里に見せる。まずは小さな刃物。彫刻刀よりも小さなサイズだが、その刃は鋭く、また綺麗に研がれているようだ。

「こいつは仕込み用の小刀だ。ま、懐刀みてーなもんだな。少々軟っこいが、役に立つ事もあるかもしれんからな。そうだな、帯裏にでも隠しとけ。で、これはくないっつーんだが……」
「それは知ってる。使った事はないけど」
「お、そうか。まあ使いこなすのは難しいだろうが、小刀同様、何かの役に立つかもしれんからな。で、お次のこいつは……まあ見ての通り、刀だ」
「刀なら一振り持ってるけど……」
「だが大して手入れはしてねえだろ?」
「……まあ」

 何せ真剣を持ち歩くなど初めての事だったし、そもそも千里が持っている刀は元はと言えば布貴が殺したならず者の持ち物だった。鞘なしで使用したのは最初の一回だけだが、刃はぼろぼろになっていたはずだ。

「こうなるとわかってりゃ、もっと良いもんを用意したんだがな。まあ、今お前さんが持ってるのよりは確実にいい切れ味だ。保証する」
「……そんな事を保証されてもだな……」

 正直な心境を吐露するが、慧斗は笑みを崩さず、刀を千里に押し付けるだけだった。千里は渋々それを受け取る。
 一応、鞘から抜いて刃を確認した。小刀同様、鋭く磨き上げられた姿がきらりと光る。確かによく斬れそうだ。故に恐ろしい、等と言っても慧斗は取り合ってくれないだろう。

 ――後で紐を使って鞘を固定しよう。

 ため息をつく千里の目の前に、最後の一つ、短い刀を差し出した。これについては見覚えのあるものだった。

「そんで、こいつが最後……布貴が旅の間持ち歩いてるもんだ。見覚えあるか?」
「ああ、手入れの時に並べてた。懐刀ってやつだろ?」
「その通り。使ってんのは見た事あるか?」
「いや、ない」
「そうか……」
「置いてったのか? これ」
「ちゃんと手入れしてほしいって頼まれてたもんでな。職人からさっき届いたんだ。持って行ってやってくれるか? もちろん、必要になったら途中で使ってもいい」
「……わかった。ところでさ、慧斗。鳴上は忍者集団だったりするのか?」
「あん? なんだよ急に」
「いや、なんか忍び道具みたいなものがわんさか出てくるから……」

 思い返せば、布貴がメインで使っている鎖鎌も忍び道具に数えられるものではなかっただろうか、と考える千里の前で、慧斗はにやりと愉しげに笑った。

「俺の趣味だ」
「あっそ」

 とにかく武器は借りていく事にした。武器の重量により多少体が重くなるが、仕方がないと割り切る事にする。
 小刀やくないを身につけるのに、女性を一人付けられた。ついでにと、この世界に来てからずっと布貴に借りた服を着続けていた千里に、新しい着物が与えられた。デザインはさほど変わらない、動きやすさを重視して作られたらしい着物だ。
 帯に小刀、大腿にくないを隠し、布貴の懐刀を着物の合わせ目から奥へと挿し込む。刀はずっと手に持って着ていたが、女性にアドバイスを受け腰に下げるようにした。確かに片手しか空いていないと不都合が起こりやすい。状況が状況なので、刀を捨てるわけにもいかないだろう。

「こっちだ」

 慧斗に促され、庭へ出て敷地の奥へと進む。邸宅の裏と呼べそうなその場所には、井戸が一つあった。

「こいつがお城と繋がってる。これを使って忍び込め」
「え……でも、水は……」
「通ってねえよ。枯井戸だ。見た目普通の井戸だが、その実ただの隠し通路さ」
「ただの、って……城の人たちは知ってんの!?」
「知ってるぜ。本来ならこれは俺らが使うもんじゃなくて、お城の避難用の通路だからな」
「あ……なるほど……」

 もしも敵に城まで攻め入られた際に、敵に悟られずに城を抜け出すためのもの。その出口がここにある事で、鳴上と城の繋がりの深さを千里は感じ取った。布貴の説明からはあまり仲良くなさそうなイメージを持っていたが、ここぞという時には一致団結する間柄、という事なのだろう。それは、双方が国の大事に思っていなければ不可能な事だ。時に意見が噛み合わなくても。きっと彼らはそうやって、この摘伽という国を守ってきたのだろう。

「ちょっと覗いてみな。鎹(かすがい)が打ってあんの、見えるか?」
「……ああ、見える」
「あれに足をかけて降りるんだ。結構深いから、足は踏み外さねえように。お城側の井戸も同じように鎹が打ち込んである。ただ、先にも言った通りお城もこの通路の存在は知ってるからな、警戒されてる可能性がある」
「見張りがいたら倒せばいいんだろ?」
「そういうこった。ま、並の兵士なら楽勝だろ」
「そう祈る」

 並の兵士がどの程度の力を持っているかはわからない。都の外にうじゃうじゃいたならず者たち程度、それよりもう少し上くらいであってもどうにかなるだろうから、できればそのくらいであって欲しいと千里は願った。

「分かれ道もあるが、通るべき道には火を灯してあるから迷う事はねえはずだ」
「城のどこに出るんだ?」
「二の丸……っつってもわかんねえよな」
「ああ、わからん」

 慧斗が懐に手を入れ、一枚の紙を取り出し、それを千里に差し出す。

「とりあえずだな。布貴の居場所についてはある程度目星がついてんだ。数カ月前、蔵を一つ改装したらしいって情報があってな。それが牢になってんじゃねえかと睨んでる。その一番近くの井戸だ。ほれ、これが内部の地図。簡単なもんだけどな」
「大まかな道がわかればいいよ」

 受け取った薄っぺらい紙は、墨で描かれた城敷地の略図だった。ぽつぽつと目印になりそうなものも描かれているようだが、一つ残念な事があった。

「……達筆すぎだろ」
「なんだ、字が読めねえのかい?」
「読めるけど、これは無理。崩しすぎだ。どれが問題の蔵なんだ?」
「これだ」
「……じゃあ俺が出る予定の井戸は、これか?」
「そうだ。理解力はあるな。安心した」
「馬鹿にすんなっつーの」

 ため息混じりに呟いて、改めて地図を眺める。大まかには三つの区画に分かれるらしく、端のほうに「一」「二」「三」と漢数字がぽつりと書かれている。先程、慧斗は「二の丸」と言ったので、千里が目指すのは「二」の範囲。実際、慧斗が指し示した問題の蔵はその範囲内にあった。井戸には「井」と書いてある。さすがにこれは読めた。
 千里は紙を四つに畳んで着物の合わせ目に挿し込む。

「そんじゃ……」
「……千里」

 井戸に足を掛けた千里に、慧斗が改まって声を掛けた。その表情は、これまで見た表情の中で一等真剣なものだ。

「人を殺した事はあるか?」
「……いや」

 問われた内容に、千里は素直に答えた。予想はできていたのだろう、慧斗は少しも表情を変えず、続けた。

「……こんな事、言ったところで大した意味はないんだろうがな。言うだけじゃ身に迫る実感はない。そんでも、言うだけは言わせてもらう。立ちはだかるものを斬る事を躊躇うな。障害を取り除く事を迷うな。それはお前さんや、お前さんが守りたいと思ってる相手を危険に差し出すようなもんだ。抵抗はあるだろう。恐ろしいと思うだろう。実際、決して心地良いもんでもない。だが、それに惑わされて守るべきものが守れないんじゃ、意味がない」
「……わかった」

 慧斗自身が言った通り、そう言葉で言われても実感も危機感も湧いてこない。布貴との旅の間も、殺さずにやって来れた。それが良い事なのか、悪い事なのか、ほんの少し考えた。そして、答えは出せなかった。
 けれど、慧斗の言葉が案じているために出てきたものである事は理解できる。戦闘狂のくせに、他者の身を案じる。矛盾しているようにも思えるが、それが慧斗なのだろう。

「じゃあ、行ってくる」
「ああ、すまん」

 慧斗の口から出た言葉に、千里は苦笑した。

「それ、もう聞き飽きたよ」
「お、そうか。そりゃすまん。……頼んだぞ、千里」
「ああ」

 千里は今度こそ、井戸の内側へと入り込んだ。鎹そのものは頑丈で、また深く横壁に打ち込まれているらしく、千里が体重を乗せてもびくともしない。
 徐々に太陽の光が遠のく中、千里は誓う。

 ――またここに戻ってくる。ひめも、布貴も一緒に。



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