TopText番犬が行く!

14 あと一歩、通行止め。



 慧斗の言った通り、通路には火が灯されていた。薄暗い通路を駆け抜けながら、これも《巫術》とかいう不思議な術によるものだろうか、と千里はぼんやり考える。
 神社の井戸から城の井戸まで、相当な距離があるようだ。千里が昼食を取っている間にこの通路の灯りをつけて回った、というのはなかなか無理のある話のように思える。もしそうなら途中で誰かとすれ違ってもよさそうなものだが、千里は誰ともすれ違う事はなかった。あるいは灯りのない通路に身を潜めたのかもしれないし、またはもっと前から準備されていたのかもしれない。もしそうなら、あの男、とんでもない腹黒だ。
 どれほど走ったのか。とうとう頭上から太陽の光が降り注ぐ突き当りまで辿り着いた。こめかみから流れて顎へと辿り着いた汗を手の甲で拭い、息を整える。
 眼前の壁には、当然のように打ち込まれたいくつもの鎹の姿がある。
 千里はなるべく音を立てないように、慎重に井戸を登る。降りるより登るほうが難しかったが、それでもなんとかなりはした。
 あと一歩で外、というところまで登った時点で、そうっと井戸の外の様子を窺う。すぐ近く軽装ではあるが鎧を身に付けた男の姿を発見し、すぐさま頭を引っ込めた。幸い、向こうは井戸に背を向けていた。千里には気づかなかっただろう。
 ある程度予想はしていたが、やはりこの井戸は見張られているようだ。だとすれば、どれほど待ったところで人がいなくなる事はないだろう。
 つまり、結局のところ、やる事は一つらしい。
 千里は一度深呼吸をし、素早い動作で井戸の外に飛び出した。

「えっ」

 男の驚いた声が上がるが、千里は頓着しない。大きな声ならもう少し焦るところだが、完全に虚を突かれたのだろう、男は頓狂な軽い声しか上げなかった。千里はそんな男に真っ直ぐに襲いかかり、その首を強打してやった。男は潰された蛙のような濁った声を零し、白目を剥いてしまう。

「な、何やっ」

 もう一人その場にいた男の背後に瞬時に回りこみ、今度は後頭部を一撃。おそらくは「何奴」とでも言いたかったのだろうが、そんな短い言葉さえ最後まで言わせてもらえなかった男には、「哀れ」という言葉を贈るべきだろうか。くだらない事を考えながら、昏倒した二人の男を近くの茂みへと隠す。
 その作業が終わって、千里自身も適当な茂みへと身を隠した。
 軽く両腕を回す。女になって、明らかに腕力が落ちた。成人していると思われるなかなか体格のいい男二人を引き摺るのは、結構な重労働だった。

「さて、と」

 懐から慧斗に渡された地図を取り出し、確認する。天守閣が目印としては一番わかりやすい。そうっと茂みから顔を出し、天守閣の位置を確認して進むべき方向を定める。千里の右手方向だ。
 細かい道順は書いていないが、とにかくこの方向に進めばいいのだ。千里は人目に止まらないよう慎重に、しかし出来る限り素早い動きで問題の蔵を目指した。
 しばらく進み、ここはどの辺りなのだろうかと考えだした、その時だった。

「奈津ー! 私は先に戻りますからねー!」
「はぁーい、姉様!」

 耳に届いた名前、そして声に、千里の足はぴたりと止まってしまった。
 真っ白だった。千里は何も考える事ができないままその声に誘われる。千里には布の価値などよくわからないが、それでも上等そうだと思える着物を着た少女が、道端で初老の男と談笑している。
 見覚えのある少女だった。そう認識した途端、先刻まで考えていた内容など完全に彼方へと飛び去り、千里の中に残ったのは抑えきれない衝動だった。
 少女は初老の男と別れ、一人歩き出した。男が背を向けてしまえば、その場にはもう人目などないに等しかった。それは幸か不幸か、千里に考える余裕はなかった。
 気が付けば千里は移動し、少女の行く手を予想して先回りしていた。
 少女が近くを通る。茂みから手を伸ばして問題の人物を後ろから捉え、大声を出されないようにと手で口を塞ぎ、そのまま引きずり込む。

「んんぅっ!?」
「声を上げるな」

 驚く声に対して鋭く言い放つ。
 捉えた華奢な体がカタカタと震えている。それを可哀想だとは思うが、その気持ちを上回る衝動があった。誰にも見咎められなかった事を確認し、千里はそうっと腕を緩める。

「ゆっくりこっちを向け」

 恐怖に怯えるままに、得体の知れない何者かの命令を素直に聞き入れた少女は、まずゆっくりと首だけを動かして顔を向けた。
 間違いなく、それは昨日通りすがりのように会った奈津という名の少女だった。奈津のほうも、いるはずのない千里の姿を認めて目を丸くしている。

「せ、千里っ!?」
「しーっ。あんまでかい声を出すな、見つかるだろ」
「あ、ごめ……いや、いやいやいや。な、なんで千里がここに?」

 不審に思っただろうに、奈津は律儀に声をひそめて尋ねてくる。些細な事だが、昨日出会ったのが奈津でよかったと、千里は確かに思った。

「……俺は連れ去られた幼馴染みを探してる」
「う、うん……聞いた」
「その幼馴染みの名前な……『ひめ』っていうんだ」
「え……?」

 それは、不思議な名前を聞いたと言うような、そんな反応ではなかった。驚愕の表情の上に、「そんなまさか」という言葉がどっしりと乗っかっている。少なくとも、千里にはそう見えた。半ば確信を抱きながらも、千里はそれをさらに確固たるものにするため、問う。

「教えてくれ、奈津。奈津が世話してる客人の名前……『ひめ』って言うんじゃないか?」

 奈津は呆然としたまま、しかしはっきりと頷いて見せた。

「……やっぱり」
「う、あ……で、でも、でも! ひめ様はお客人だって……!」

 客人。その言葉もまた、千里を惑わせた要素の一つだ。まさかあれだけ手荒に連れ去った後に、そのような手厚い待遇を受けているなど思いもしなかった。
 信じられないのだろう、青い顔をして否定しようとする奈津の瞳を受け止め、また奈津に真摯な瞳を向ける。

「ここでどういう扱いになってるかは知らない。けど、ひめは連れ去られた。俺の目の前でだ」

 ぐっと奈津が言葉を飲んだ。千里が抱く真剣な想いが、彼女に届いたのかもしれない。

「頼む。ひめの居場所を教えてくれ」
「で、でも……」

 奈津は渋る。困ったように、視線を右往左往させている。

「……俺の事が信用できないか?」

 今度は黙り込んでしまった。複雑なところなのだろう。奈津にとって、千里はちょっとした恩人でもある。自惚れなどではなく、互いに好感を持っていた。
 千里を信じたい。しかし主人がひめを誘拐してきた、またはその行為に加担したなどとは思いたくないのだろう。
 それに、好感を持っている事と、絶対の信用は別物だ。奈津からしてみれば、千里が嘘をついていない保証などどこにもない。そもそも、会ったばかりの相手に信用も何もあったものではない。奈津の迷いは当然のものだ。

「……そうだ。これ貸すよ」
「ふぇ?」

 少し考えてから、千里は懐にしまっていた丈の短い刀を取り出し、奈津に差し出した。奈津は戸惑ったようにそれを見つめる。

「俺が不審な行動をとったら、それで殴ってくれてかまわない、ってのはどうだ?」

 冗談交じりにそう告げると、奈津はくてんと首を傾げた。幼い仕草に、やはりまだ若いのだと思わされる。

「な、殴る、の? 斬るんじゃなくて?」
「殴るほうが簡単だろ? 精神的に」
「そ、そりゃそうだけど……」
「あと、刺されるのは痛そうだ」
「……それは千里の都合じゃない……」

 それから奈津は、しばらく差し出された懐刀とそれを差し出す千里の顔を見比べていた。やがて、彼女の中で何かしらの決着がついたのだろう。胸に抱いていた手を伸ばし、懐刀を受け取る。

「わ、わかった……で、でも! も、もし嘘だったら、殴ると言わず刺してやるからね!?」

 きっと、揺れる瞳で睨むように千里を見上げてくる。

「ははっ、こえーな。わかった、刺されないように気をつける」

 顔が緩む。出会ったばかりなのに、不安に揺れているのに、千里を信じようとしてくれている事が嬉しいという部分も、確かにある。しかし、それ以上に。
 千里はようやっと、ひめへと確かに繋がるものを手にしたのだ。
 ちっとも怖がっていないように見える態度の千里に、奈津はむうっと軽くむくれる。

「あと、ひめ様泣かせても刺すからね!?」
「……そりゃ無理だろ。あいつ泣き虫だから」
「……か、悲しませたり意地悪したりするのが駄目って事!」

 どうやらひめは、奈津の前でもよく泣いているらしい。
 腰に差した刀をぎゅっと握りしめる。

 ――もうすぐ……もうすぐだ、ひめ。



 × × ×



 奈津は渡された刀を胸元に隠し、緊張した面持ちで歩を進めていく。
 第三者に見つからないよう、千里は厳戒に警戒しつつ、少し距離を取って奈津の後を追った。万が一見つかっても奈津まで疑われる事のないよう、千里が取れる数少ない奈津を守るための手段だった。奈津には後ろを振り向かないよう言い含めてある。ちらちら後ろを気にしていては怪しまれるだろうからだ。
 奈津を尾行するような形で進む。邸宅の中は通らない。屋根裏などの構造がはっきりしていればそれも可能だったろうが、あいにく千里にはわからない事だ。そのため、奈津にはなるべく庭園に面した縁側などの外部から見えやすい場所を通ってもらうよう頼み、千里自身は邸宅そのものにはほとんど踏み込まずに進む事にした。
 やがて広く作られた邸宅から切り離された建物、所謂離れというものが見えてきた。ひめはあそこにいると、奈津から事前に聞かされている。
 あそこにひめがいる。そう考えるだけで、緊張とはまた違った理由から鼓動が早まっていく。

 ――ようやく……ようやくひめに辿りつける!

 千里の頭を、そのたった一つが支配していく。
 埋め尽くしていく。
 満たしていく。

 だから、警戒が薄れてしまった。

 ひめがいるという離れまであと少し。
 唐突に襲いかかった悪寒に、肌全体が粟立った。それを危険だと判断したのはごく本能的で、千里は咄嗟に横へと跳んだ。次の瞬間には、千里がいたはずの位置に刀が突き立っていた。千里が手にしているものよりは短く、また奈津に貸した懐刀よりは長い。刃は見事な直線を描いている。見慣れない形ではあるが、刀には違いない。
 あと一瞬判断が遅れていたら、あれは千里の肉を傷つけていただろう。その事実にぞっとした。

「っ、千里!?」

 視界の片隅で、奈津が驚いた顔をして振り向いているのが見えたが、そちらに大きな注意を払う余裕はなかった。羽根のような軽い動作で、屋根から地面へと飛び降りてきた黒装束を纏った女を睨む。
 女の纏っているものは、現代的イメージに似通った忍び装束らしきものだった。鼻から顎にかけてはマスクで覆われいる。胸元は大きく開き、そこから覗くのはおそらく帷子。着物の短い丈からは白い脚が伸びている。
 女が地面から刀を抜き、そのままそれを千里に向けて投げつけた。真っ直ぐに刀の切っ先が千里に襲いかかるが、千里は冷静な動作で腰に差した刀を鞘ごと抜き、それを弾き飛ばす。

「……いきなりご挨拶じゃねーか」
「侵入者風情が何を言う」
「もっともだな」

 マスクのせいか、こもった声。表情もわからないが、ひどく冷たい印象を与える。
 つっと嫌な汗が頬を伝い落ちていく。一切の容赦がない。遊びもない。欲もない。だから、付け入る隙がない。
 感情が一つとして込められていないような冷え切った瞳が千里を射ぬく。おそらく、千里の首を刎ねたところで彼女は眉一つ動かさないだろう。
 そこの大きな邸宅は、御殿と呼ばれる国主たちの住居だという。国一番の要人だ。そこを影に紛れて守る存在があったとしても、なんら不思議はない。この女はおそらくそういった類の者だ。
 びりびりと肌に感じるのは相手の強さか。湧きあがりそうになる高揚を必死で抑える。相手は慧斗とは違う。おそらく本気で千里を殺しに来る。そうなった場合、勝てる自信がない。
 名うての剣士などは、千里のその姿勢を臆病者だと嘲笑うだろう。しかし、千里は剣士ではない。負ける事は好きではないが、勝てないと思ったのなら逃げればいい。千里がすべき事は《勝つ事》ではなく、《守る事》なのだ。
 女の視線が千里から逸れ、その奥の奈津へと向かった。千里の意識がそれにつられた一瞬のうちに、女は奈津の背後まで移動していた。あまりの速さに瞠目する千里の視線の先で、女はくないの尖端を奈津の首筋にひたりと添える。

「娘、こいつの仲間か」
「ひっ……」
「答えろ」

 完全に血の気をなくした奈津は、もうまともに言葉を発する事もできない。

「……違う」

 奈津の代わりに千里が答えた。

「信じると思うか?」
「どーせ本人が言ったって信じねーんだろ?」
「……」
「昨日、ちっとばかし縁があってな。名前を教え合ったんだ。忍び込んでみたら見た顔があったから、探りを入れてみようとしただけさ」
「……」

 女は何も言わない。動かない。しかし探るように、千里を見ている。千里の頬をさらに汗が流れる。

「仲間にするってんなら、もっと度胸があるやつにするよ。そんなビビりはいても足手まといだ」
「……と、言っているが? どうだ、娘。やつの言っている事は本当か?」

 打ち合わせなどない。だから千里は、「とりあえず頷いておけ」と視線だけで必死に訴えた。奈津は血の気のない顔で、恐怖に震えながら、がくがくとぎこちなく頭を上下させた。その事に小さく安堵する。

「……そうか」

 呟くと、女は無造作に、投げるように奈津を放り出した。

「きゃっ!?」
「奈津!?」
「他人の心配をしている場合か?」
「っ!!」

 気がつくと、くないが一つ、千里の顔に風穴を開けんばかりの勢いで迫っていた。咄嗟にしゃがみこみ、それを回避する。くないは毛髪をほんの少し掠めて遠くへと飛んで行った。
 改めて女を見ると、一つの手にくないを四本ずつ、その状態で両手を構えて千里を見ている。

「諜報活動を生業とする者ではないな……何が目的だ」
「……アンタに言う義理はねえよ」
「ならば強引にでも吐かせるまでだ」

 この科白からして、捕まれば拷問にでも掛けられそうな雰囲気である。すぐそこにひめがいるかもしれない。しかし、捕まってしまっては元も子もない。

 ――ここは一度退くべきか……

 それは苦渋の選択だ。手を伸ばせば届きそうなのに、手を伸ばす事さえできない。
 それでも、ここで負けてしまえば二度とひめに届かなくなる可能性がある。それだけは避けなければならない。
 千里がそう考えた時だった。

「なっちゃん……?」

 引き離されて数日。聞きたかった、聞きなれた、甘いソプラノの声音。

「どうしたの? 何かあったの……?」

 離れの中から、顔を出した少女。
 それはまさに、千里が探し、求めていたもの――

「ひめっ!」
「え……?」

 呼んでも、不思議そうな顔で首を傾げる。ふと、着替えや風呂でこそ困らされてはいるがほとんど違和感を忘れていた事を思い出した。
 千里は今、女なのだ。鏡で自分の姿を確認すれば、面影は残っていても別人だろうと思うような姿だ。
 しかし、

「――――せん、ちゃん?」

 信じられるだろうか。
 それでもひめは、千里の名前を呼んだのだ。千里だと気付いたのだ。
 これほど嬉しい事は、きっと他にない。

「せんちゃっ、あぅ!」

 ひめが離れを飛び出そうとした。しかし、まるで何かがそれを邪魔するようにひめの体は後方に引っ張られ、ひめは低い階段の上へと転び出た。

「ひめ!」「ひめ様!」

 千里は女に阻まれてひめに近寄れないが、代わりに奈津が這いずってひめの元へと向かう。
 じゃらり、と聴覚に障る音がした。
 華やかな着物に不釣り合いの無骨な鎖が、その裾から見えている。
 頭の中で何かが千切れそうになった。胸の内側から喉にかけてが、炎にさらされでもしているかのように熱い。

「……鎖で繋いでるのか……」

 呟くように言葉にすれば、女は初めて、表情を動かした。

「……見えるの?」

 女の疑問が何を意味するのか、千里にはわからなかった。
 わかる事は一つ。

 ――こいつらは《敵》だ。

「てめえ……許さねえ!」
「……吠えるのは勝手だが、この場で許しを乞わなければならないのは、どちらだろうな」
「っ、待て、」
「曲者だ!」

 その場を退こうとする女を止めようと動きかけた千里だったが、後方から聞こえた男の声にぎくりと体を強張らせた。それが隙になってしまったのだろう、女が投げつけてきた錘付きの縄に足を取られ、その場に倒れてしまう。

「しまっ、ぐぅっ!」
「せん、……!!」

 そのまま女に踏みつけられる千里に、涙目のひめが手を伸ばす。しかし、千里の名前を呼ぼうとした次の瞬間には、愕然として自らの喉にその手を当てた。
 ガシャガシャと甲冑の音をさせてやってきた兵たちに、女は先ほどから変わらぬ冷たい視線を向ける。

「遅いぞ」
「何奴!?」
「馬鹿っ、あれはご側室様の……」
「あ、ああ、そうか……」

 一時は女にも槍や刀の切っ先が向けられたが、それはすぐに逸らされ、すべて千里へと向けられる。

「井戸の見張りがやられていた。もっと早く気付け」
「か、かたじけない……」
「いい。こいつはいつものところへ」

 女が足をどけると、兵士たちが千里を槍や刀とともに取り囲んだ。逃げ場はない。顔の横に槍の先が突き立てられる。

「っ……」
「いつまでそうしている、立て!」
「……そのままで立てるわけがあるか」

 兵士の恫喝に呆れた女が千里の足を解放し、代わりに両手を背中にまわして拘束した。なんとか隙を見つけられないかと探したが、これほどの男たちに囲まれた状態では、よしんば女を出し抜けたとしても包囲網を抜けられる気はしなかった。

「……くっ」

 強引に立たされ、鍛えられた肉体の男に前後左右を包囲されて進む事を余儀なくされる。
 ひめは、と振り返ると、彼女は大きな瞳から大粒の涙を惜しげもなく零し、片手を伸ばして、もう片手は奈津に縋るようにして、声なく叫んでいた。



 × × ×



 声が出ない。

 ――待って!

 口は動くのに。

 ――連れて行かないで!

 涙は出るのに。

 ――せんちゃん!

 心はこんなにも求めているのに。

 ――せんちゃん!!

 どうしてか、かすかすと無意味に空気が溢れていくだけで、たった一音すらも出て来てくれなかった。
 こんなのってない。もう会えないかもしれないと思っていたのに。来てくれないかもしれないと思っていたのに。それでもまた、探しに来てくれたのに。
 拘束され、どこかへ連れて行かれる千里を助けるどころか、駆け寄ってその存在を確かめる事さえできなかった。
 千里の姿さえもう見えなくなって、伸ばしていた手が地に落ちる。さらさらの土を、白く細い指で削り抉る。

「ひ、ひめ、様……」

 傍で支えるように寄り添ってくれる奈津のあたたかさが沁みる。千里を連れて行かれたからだけではない。己の無力さが悔しくて、涙が出てくる。
 ふいに、奈津の体が大きく跳ねた。
 どうしたのだろうと思ってほんの少し顔を上げると、傍らには黒い忍装束を纏う女の姿があった。マスクらしきもので顔の下半分を隠しているため、表情は読み取れない。しかし、その瞳は隠しようもなく冷え切っていた。当人からすれば隠す気そのものがないのかもしれない。
 その視線は奈津に向けられていた。それに気づいたひめの体は、自然に、奈津の体を隠すように動いた。
 怖かった。例え己に向けられているのではないとわかっていても、その視線は鋭い痛みを伴うほどだった。それでもひめは奈津を隠す。
 奈津まで奪われたら、自分はきっともう立ち上がれない。
 それは自分自身の弱さを突きつけられたような心地だった。そうと気づいていても、失えなかった。守りたかった。それはもしかしたら、千里を守る事ができないが故の反動なのかもしれない。
 もう、理由など何でも良かった。
 ただ、奪われたくなかった。

「……お部屋にお戻りください」

 ふいに、女はそれだけを言い残し、踵を返した。それはごくあっさりとした動作で、先ほどまで視線を注がれていたのが夢だったかのように、いや、その存在自体が夢だったのかと思うほどに、女は静かに姿を消した。

 ――守れた……?

 そこに考え至った瞬間、体から急激に力が抜けた。ずるりと崩れ落ちたところを、奈津が慌てて支えてくれる。

「ひめ様!?」

 自分の手が目に入った。ひどく震えていた。ある意味で当然の反応だった。ひめからしてみれば、あの女の視線はとてつもなく恐ろしいものだった。後先など何も考えない、危険な行動だった。千里がいれば、「馬鹿」「無茶をするな」とでも言って怒るだろうか。
 怒ってくれるだろうか。
 頬にあたたかい何かが降った。雨だろうか。しかしそれにしてはあたたかい。それとも、ここの雨はあたたかいのだろうか。顔を上げると、奈津の泣き顔があった。

 ――なっちゃん……?

 呼びかけたつもりだった。しかし、声はやはり出て来なかった。原因はわからない。
 声が出ない事がこんなにももどかしく、辛い事だったなんて、ひめは想像した事もなかった。
 震える腕を伸ばし、奈津に縋りつく。
 声が出ないのなら、行動で示すしかない。大丈夫だと、泣かないで、と。それが伝わるように、ひめは奈津の体を優しく抱きしめる。
 奈津の手がひめの着物を握りしめた。しかし、奈津は泣き続ける。どうして奈津がこんなに悲しそうに泣いているのか、ひめにはわからなかった。
 そしてひめも、自分の涙を止める事ができなかった。止まれ、止まれとどれほど強く念じても、涙は流れ続ける。
 そういえば、と思い出す。
 自分で立て、と泣いているひめに言った千里。けれど彼は、その時ですら、ひめに「泣くな」とは言わなかった。



TopText番犬が行く!