TopText番犬が行く!

15 望み、足掻く。



 広い寝所に、すう、すう、とか細い吐息だけが響く。それを無感動に眺めていた女は流れるような動作で立ち上がった。つられてしゅるり、と着物が音を立てる。
 無言で部屋を出て自分へと宛がわれた部屋へ向かう。その背後にはやはり黙したまま侍女たちが付き従っていた。
 美しい女だ。手入れされた黒髪は艶やかに輝き、時折風に流れる。肌はおしろいを使用する必要を感じないほどに白く、またそれだからうっすら施された頬紅がよく映え、唇は印象的な赤を魅せている。それら全て、煌びやかな着物も全て、彼女の美しさを際立たせるために存在しているようだった。
 自室へ戻った女は、侍女たちに一時的な退室を命じた。彼女らは不満も不信も見せず、静かに部屋の中から消えて行った。

「美貴様」

 そうして姿を見せたのは、黒い忍装束を纏った女だった。どこにいたのか、問いはしない。彼女は最初からここにいたのだ。美貴と呼ばれた女は部屋の外に広がる庭園を眺めながら、別の質問をする。

「何かあった?」
「鼠が一匹」

 女の声はくぐもっている。口と鼻を覆う防毒面のためだろう。それももう、聞き慣れたものだった。

「殺したの?」
「いいえ。捕らえて、例の場所に」
「あら、もう必要ないのに」
「美貴様がまだ兵への命を解いていらっしゃらないようだったので」
「ああ、そうだったわね……」

 外部から美貴への面会を願い出る者、侵入者。それらは鳴上の手の者である可能性が高い。つまりは美貴の邪魔をするために差し向けられた者たちだ。
 そんな者たちをどうして迎え入れる事ができようか。かと言って、ただ追い帰したところで、美貴への邪魔は執拗になるばかり。それならばいっそ帰さず、手出しを躊躇わせてしまえばいい。内情がわからなければ、頭の堅い鳴上本家の年寄衆は様子を見ようとするだろう。案の定、少しすれば鳴上からの手出しはほぼなくなった。
 捕らえていても邪魔になる。ならば殺してしまえばいい。女であればただ処分するのも惜しい。そこらの町娘より、ずっと利用価値がある。

「それから、《柱》につけている世話役の娘、鼠との繋がりが疑われますが」
「いいわ、放っておいて」
「はっ……」

 もう、何も必要ない。全ては今日、終わるのだ。
 美貴は力を欲っしている。それを手に入れるまであと一歩のところへと来た。最後の儀式を邪魔されなければそれでいい。力を手に入れてしまえば、もう誰も美貴を止める事はできない。

 ――力を手に入れさえすれば……

 ふと、考える。
 力を入れて、それから己は何をしようとしているのだろうか。
 ぼんやりと思考が停止する。
 そこに、女の声が掛けられる。

「美貴様、そろそろ移動を開始されませんと」
「ああ、そうね。そうだったわ」

 思考が戻った。美貴の顔には微笑が浮かぶ。
 力が欲しかった。ずっとずっと、力が欲しかった。美貴は切実に願っていた。しかし、家の者達は心配そうな仮面をつけて「無理だ」「諦めろ」と言うばかり。挙句には美貴を国主の側室へと送り込み、美貴から修行の自由を奪い取った。
 しかし、そんな苦汁の日々もここまで。美貴は力を手に入れる。その後の事など、手に入れた後にじっくり時間をかけて思い出せばいい。



 × × ×



 千里が連行された先は、一見ただの蔵だった。しかし、出入り口になる扉のところに二人の番兵が立っている時点で、それはもうただの蔵ではないように思えた。その中に押し込められると、真っ先に視界に飛び込んで来たのは木製の柵。そこに設えられているあまり高さのない扉が開けられ、千里は力任せにその向うへと押し込められた。腕を拘束されている千里は、その勢いのまま床へと転がってしまう。

「いっててて……」
「千里!?」
「っ、布貴!」

 柵の向こう側の片隅には、探し人その二の姿があった。布貴は立ち上がって千里に駆け寄り、千里の腕を拘束する縄をほどきにかかる。

「千里、あなたまで……なんて無茶をするんですか!」
「あー……くそ、しくじった」
「聞いてるんですか!?」
「聞いてる、聞いてるって! すまん! でもお前がヘマ打ったって連絡したんだろ!?」
「ええ、ですがそれは千里には言わないように、と…………」

 布貴の言葉が不自然に途切れた。妙な沈黙と、縄の乾いた音が、二人の間に落ちる。
 何も知らなければ、千里がここに来る事はなかっただろう。侵入先として、城は難易度が高い。事実として、千里は布貴が捕らえられていた事も知っていたわけだし、つい先ほどその事を口に出している。
 言わないように頼んだはずの布貴。しかし、千里はその内容を知っていて、現に今ここにいる。

「……普通にすぐ教えてもらったんだけど」
「……一応聞きます。誰に?」
「慧斗」
「…………ですよね」

 諦めたように布貴が声を落とした。慧斗でなければ誰が言うというのか、といったところだろう。
 千里は千里で、教えてもらった時の事を思い返していた。苦々しげな表情だった。しかし、布貴が千里に言わないよう含めていた事を知った今では、それすらも演技だったのではないかとさえ思う。あの男ならやりかねない、そんな事を思わせる雰囲気を持っているのだ。

「真っ黒だな、あの人」
「……信じた私が馬鹿でした……」

 盛大な溜息をついた後、布貴はおもむろに、深々と千里に向かって頭を下げた。その予想外の動きに、千里は反射的に上半身を軽く遠ざける。

「ごめんなさい、千里」
「……何が?」

 告げられたのは謝罪だった。それが何に対するものなのか、千里にはわからない。素直に問うと、布貴は頭を下げたまま、

「今回の件、これは私の身内の不始末と思われます」

 はっきりと、きっぱりと、そう言ったのだ。千里は驚いて、目を丸くした。

「私は門を潜ってすぐ捕らえられました。姉に……美貴に会わせてほしいと願い出たのですが……どうも、『美貴との面会を望んで来た外部の者は取り押さえろ』といったような命令がされていたようです。迂闊でした」
「いや……でも、まあそんなの予想できるもんでないし」
「いいえ、私は予想できていなければいけなかったのです」

 そうは言うが、人間、身内に甘くなってしまうのは当たり前の事のように思える。はたしてそこに布貴の落ち度があったのかと聞かれると、千里としては首をかしげざるを得ない。
 しかし、布貴にとってはそうではないらしい。下げていた頭を少し上げた。布貴の表情は、悲しげに歪んでいた。

「……ひめさんが連れ去られた理由の憶測を、慧斗殿から聞きましたか?」
「……封印されてる神様を目覚めさせるとかなんとか?」
「はい。――その憶測がたった瞬間、私は真っ先に姉を疑いました」
「え……?」

 それはあまりに、千里にとってあまりに予想できない言葉だった。布貴は続ける。

「あの邪法は、一般的に知られているものではありません。知っているのは神の末裔、または巫子くらいのものでしょう。更に、ここ最近お城の奇行が目立っていたと聞けば、国主様の側室となった我が姉を疑うのは必然……なのに、会えると思っていたんです。後ろめたい事があれば、私を捕らえて閉じ込めるというのは考えられた行動。だというのに、私は姉からの拒絶を、予想しなかった……」

 向き合う彼女の表情が、ふっと微笑んだ。しかし、そのまま涙を零し始めても、千里は驚く事はなかっただろう。

「私と姉は、姉妹でありながらあまり一緒に過ごした記憶はありません。私は物心ついたころから修行に明けくれていましたし、十二からはほとんど実家にいませんでした。それでも、時間が合えば姉は私に少女らしい遊びを教えてくれましたし、旅の途中で一時帰宅すればあたたかく迎えてあれこれと世話を焼いてくれたんです……。だから、信じられなかった。姉がそんな恐ろしい事に手を染めようとしているなんて……」

 布貴の両手に力が込められた事が見て取れた。悲しいのだろう。苦しいのだろう。
 泣きそうな顔をしながら、しかし布貴は一粒の涙も落とさなかった。
 布貴に掛けられる言葉は、千里の中にはない。千里は布貴の姉を知らない。ひめの誘拐に関与している事は間違いないのだから、その事を考えれば布貴の姉は千里にとって敵だ。しかし、色々と世話になっている相手の姉となると、その認識もまた複雑な事になっている。怒りはあるが、布貴を傷つける事は本意ではない。
 妹である布貴にも、自分の姉が何故こんな事をしているのかは理解できないらしい。行動の裏にどんな事情があり、どんな理由があるのか。考えなければ楽な話なのだが、恩人の大事な姉とあってはそうもいかないだろう。千里がどのような対応をするかは、犯人が何のために行動を起こしたのかを知らなければ決定できない。
 つまり、千里がすべき事は二つに増えたわけだ。一つは当然、ひめの救出。そしてもう一つは、布貴の姉に理由を問う事。内容如何によっては、二度とひめに手出ししないと誓ってもらえれば許す事だってできるだろう。それが一番良い展開だ。全員の傷が少なくて済む。

「とにかく、ここでうだうだしててもしょうがねーのは確かだな。問題は、どうやってここから出るか……か。武器は取り上げられちまったし」
「私もです」

 確かに、布貴は見たところ得物を身につけていない。腰の後ろ側に差していた小太刀も、鎖鎌も見当たらない。しかし、布貴に手にあるのは見える武器だけではないはずだ。

「なんか不思議な術みたいなの、使えるんじゃないのか?」
「巫術や神術の事ですか? 慧斗殿に聞きましたか」
「……巫術は聞いたけど、神術は初めて聞いたぞ」
「そうですね……神術というのは神の力の一端、と言ったところですか。神様が自らに仕える巫子に貸す力です。巫術はそれ以外の術、と考えていただければ……わかります?」

 不安げに問いかける布貴。対して千里は、新しく増えた知識に頭を抱えた。実際に神に会った事がない千里からすると、その定義はひどく曖昧に思える。しかし、布貴は当然の如くそう説明した。これが一番簡単な説明方法なのだろう。
 千里は理解を放棄する事にした。

「……いや、まあいい。とにかく、そういう術には二種類あるんだな。それを使って出られないのか?」
「確かに、使えれば話は簡単なのですが……あちらを見てください」

 布貴に示されたのは、柵の外側、出入り口の扉が設えられた壁の上部が接地している天井。柵を握りしめてぎりぎりまで近付くと、薄暗い空間の中にぼんやりと札のようなものが見えた。何かしら模様が描かれているようだが、そこまでは判別不可能だ。

「結界符のようです。おそらく、対象はこの蔵一帯。ここから出る、もしくはあの符を破壊しない限り、術は使えません」
「……となると、これをぶっ壊すしか道はないわけだが」

 千里が示した《これ》とは、今も手に握っている木材でつくられた柵だ。扉の鍵は大きな南京錠のような形になっている。これなら道具さえあれば開けられそうだが、当然道具などないし、あいにく千里にはそういった知識はない。それは布貴も同じだろう。
 布貴は驚愕して、声を上げる。

「さすがに……無茶ではないですか?」
「無茶でもなんでも、やらねーと。行方不明になってんの、もう百人近いんだろ? じゃあもう時間の余裕はない。幸い、こいつは木でできてんだから、鉄よりは可能性がある。……あ、そうだ」

 ある重大な事に気付いた。千里は帯の内側をごそごそと探り、少しばかり苦労してそこから細く短い刀を取り出した。
 慧斗によって持たされたものだ。隠す作業は神社の女性が指南ついでにやってくれたのだが、普段している事でもないので、すっかり存在を忘れ去っていた。

「それは……仕込み用の小刀? 慧斗殿が持たせたのですか?」
「ああ。刃はちょっと柔そうだが……無理させなきゃなんとかなるかもしれん」

 腰に差していた刀は取り上げられてしまったが、ここに放り込まれるにあたって身体検査のようなものは受けなかった。杜撰な事だが、千里からすれば幸いに他ならない。慧斗に持たされた仕込み武器の類はまだ身につけたままだ。
 ゆっくりと、しかし確実に、布貴の瞳に光が差す。それは希望だ。

「……他には何を持たせてくれました?」
「他は……くない、と。あ、布貴の懐刀も預かってたんだけど、ちょっと流れで人に貸しちまった。すまん」

 くないは二本ほど、ズボンに隠れるように脚に巻きつけてあるのだった。布貴の懐刀は、奈津に貸してそのままだ。

「状況がよくわかりませんが、まあいいです。くない、貸してください。足掻くのであれば、一人より二人の方が心強いでしょう」

 確かめなければならないのも、止めなければならないのも、布貴とて同じだ。
 千里はにっと口元を歪め、膝上丈のズボンの裾をまくり上げ、そこに隠していたくないを一つ取り出した。

「もう少しくない投げの練習をしていればよかったですね。そうすればここからあの結界符を壊せたかも」
「え……角度急だし、柵がすげー邪魔そうだけど……できんの?」
「慧斗殿ほどの上級者になれば」
「何者だよあの人……」
「ただの腹黒戦闘狂です」

 慧斗に関する認識は、それで問題ないようだ。



 × × ×



 うつらうつらとした意識の中で、奈津は考えていた。きっと千里の証言には一切の偽りがないのだろう。ひめは誘拐されて、客人と言う名目でここに閉じ込められていたのだ。でなければ、ひめが千里を求めるように手を伸ばした事も、千里が捕まって悲しそうに泣いた事も、説明がつかない。
 どうにかして千里を解放して、ひめを連れて逃げてもらおう。奈津がその事に加担したと知れれば斬られるかもしれない。家族は泣いて怒るかもしれない。けれど、あんなにひめが泣くよりは、ずっといい事のように思えるのだ。
 かあ、と大きな烏の声が聞こえ、途端急速に意識が覚醒した。
 ひめと一緒に泣いているうちに寝てしまったのだ、と気付く。

「も、申し訳ありませんひめ様!」

 声をかける。しかし、その後に来るはずの返事はなく、奈津の声がわずかに反響するだけだった。
 外から差しこむ日差しは茜色に近づきつつある。もうそろそろ御台所に向かいひめの夕飯の用意をする時間だろう。
 けれど、室内にひめの姿はなかった。
 一瞬、もしかしてここはひめがいる離れではなく、誰かが自分を女中用の大部屋に移動させたのかとも思った。しかし、周辺を見渡してみれば普段寝起きしている大部屋などではなく、やはりひめがいるはずの離れである。
 けれど、ひめはいない。

 ――そんなはずがない。

 奈津は咄嗟にそう思った。ひめは一度として、この離れを出た事がなかった。今思えば、なんらかの事情で出る事ができなかったのかもしれない。
 そのひめが、離れにいない。
 胸の鼓動が速度を増す。ガンガンと不快な何かが頭を揺さぶるように鳴り響く。
 奈津は衝動のまま、離れを飛び出した。かと言って、向かう宛があるわけではない。見当もつかない。ただじっとしていられなくて、がむしゃらにひめを探そうとした。

「こら奈津、御殿の中を走ってはいけませんよ!」
「姉様……!」

 途中すれ違った女中――奈津にとっては実の姉でもある彼女の声に、奈津は足を止めた。説教の内容は右から左へと流し、姉に縋る。

「姉様、ひめ様を見ませんでしたか!?」
「ひめ様……? って、あなたがお世話してる、例のお客様? お帰りになられたのではないの?」
「え……?」

 姉からの返答内容があまりに想定外だったため、奈津は先ほどまでの勢いをぽかんと忘れ、不思議そうな姉の顔をただ見上げた。

「上から直接お聞きしたわけではないのだけど……御台所の人と『お客様はいつまでご滞在されるのか』と話をしたの。つい昨日の事よ。そうしたら、『明日の夕飯前にはお帰りになるはず』だって言うの。お食事の用意、今晩から必要ないと言われていたのですって」
「……嘘……」
「あなた、何も聞いてなかったの? 変ねえ……お世話を担当している奈津に一言もないなんて……」

 信じられなかった。しかし、姉が嘘を言っているとは思えない。姉は聞いた話を記憶のまま告げているだけだ。首を傾げる姉は、ひたすらに不思議そうなばかりだった。

「……御台所行ってみます! ありがとう、姉様!」
「あ、こら奈津! だから走ってはいけませんと……!」

 背後からかかる姉の声は聞こえない振りをして、奈津は一目散に御台所へ向かった。出入り口に一番近いところにいた男に声を掛けてみて、

「ひめ様? ああ、美貴様のお客様だったな。そう、今晩からお食事の用意は必要ないって聞いてるよ」

 姉の証言が確かなものである事が決定的となった。

 ――嫌な予感がする。

 喉元の不快感が渦を巻いてどんどん大きくなっていく。
 誘拐されたひめを、千里は城内に侵入してまで取り戻そうとした。普通、一国の主が関わっているとなれば、そこにはいくらかの諦念が生まれるはずだ。少なくとも奈津ならばそうなる。
 千里には迷いも躊躇いもなかった。たった一人で城内に忍び込むなど自殺行為に等しい。味方はない、いるのは敵ばかり。今回は運よく拘束されるだけですんだが、その場で斬られる事だってあるだろう。そんな命がけの行動でもってひめを取り戻そうとしていた。
 それは、そうしなければならない何かが、理由が、あったからではないのか。
 ぎゅっと胸元で手を抱き、ふとそこに硬いものがある事に気付いた。千里から借り受けた懐刀だ。第三者に見咎められないようそこに隠して、そのままだった。

 ――助けて。

 それを求める先は、たった一つしか浮かばなかった。
 御台所を離れて、御殿を出る。さらには本丸を出て、二の丸へ。そこにはいくつか蔵が点在しているが、数ヶ月前に一つだけ改装工事されたものがある。大々的に知らされているわけではないが、そこに城内で発見された不届き者を一時的に閉じ込め、場合によっては内々で処罰を下しているともっぱらの噂だ。
 千里はきっとそこだと、わけもなく確信していた。
 途中で息が切れた。着物で走り回る事など日常茶飯事だった。奈津は家族から度々「お転婆」と揶揄されるような少女だったのだ。
 着物が重いせいだ。咄嗟にその事に思い至った奈津は、最低限と思われる分だけを残し、残りの着物を脱ぎ捨てて道端に放った。姉が見れば「こら!」と叱るだろう。父は「嘆かわしい」とでも言うかもしれない。母に至ってはあまりのはしたなさにめまいを起こしかねない。それらすべてが、今の奈津にはどうでもいい事のように思われた。
 奈津は薄着のまま、再び走り出した。やはり、体が軽い。余分な着物を脱ぎ捨てたのは正解だったようだ。
 問題の蔵がすぐそこまで迫り、奈津は低木でその小さな体を隠しながら徐々に近付いて行った。蔵には、番をしているらしい兵士の姿がある。人数は二。「入れてほしい」と頼んだところで、入れてもらえるとは思えない。
 蔵を観察する。扉の施錠に使われているのは、最近蔵や金庫向けに普及し始めた南京錠ではなく、扉の前に頑丈な棒きれを設置して留めるかんぬきが使用されているようだ。あれなら、奈津一人でもすぐに開けられる。
 それを実行するためには、まず二人の見張りをどうにかしなくてはならない。

 ――それで殴ればいい。

 千里の言葉を思い出し、右手が自然と懐に収めた小さな刀へと向かう。冷たい感触を、ぐうっと握り締める。
 他者を攻撃する、という行為を、奈津はした事がない。家族のじゃれあいで姉たちを軽く叩いた事はあれど、このような硬いもので誰かを傷つけようなどとは、考えた事すらなかった。
 未知の恐怖に少し震える。しかし、同時に千里とひめの行動を思い出す。命を危険にさらされながらも、奈津の身を案じた行動を取った千里。千里を連れて行かれた悲しみに泣きながらも、体を張って奈津を庇ってくれたひめ。

 ――報いねば。

 奈津は低木の影から飛び出した。

「やあああああ!!」
「なっ!? ぐあああ!?」

 奈津は腰を低く落とし、一人の膝を力いっぱい懐刀で殴打した。他国との戦争下ならまだしも、平穏そのもののような時代。城内で見張り仕事をしているだけの兵の足元は随分無防備になっている。千里が貸してくれたそれは鞘にも十分な強度があるため、女子供の腕力とはいえ、膝一点に強い打撃を受ければさぞ激痛が走るだろう。下手をすれば大怪我になっているかもしれないが、奈津にその事を気に留めるような余裕はない。

「なんだ貴様は!?」
「きゃあ!?」

 もう一人、残った見張りが奈津の腕を取り、地面の上に落とす。

「……女?」

 相手の性別を認識した途端、その瞳には男らしい劣情の光がぼんやりと灯った。奈津ももう十四。日に日に女らしさを増す体型に、そういった視線を向けられる事も増えてきている。
 もしも不本意な相手に組み敷かれた場合はこうしろと、父から教えられている対処法がある。奈津ならできるだろう、と苦笑して。

「ど、いてえええぇぇっ!!」
「うごふぅ!!?」

 男の股間を思いっきり蹴り上げろ。父はそう言った。男の股間と奈津の間には幾分隙間ができていたので、膝を銅に引き寄せ、踏みつぶすように力いっぱい押し上げた。ぐにょっとした少し気持ち悪い感触と、骨らしい硬い感触が足の裏に届く。蹴られた男はぐらりと横に倒れ、白目を向いてぴくぴくと痙攣していた。
 確かに効果覿面だが、やりすぎると殺してしまうのではないだろうかと、男撃退法を教えてくれた父への疑問がぼんやりと浮かんだ。
 膝を打ちのめしてやった男を見やると、痛みに悶えて転がっていた。この様子であればしばらくは動けないだろう、と奈津は立ち上がり、気絶している男を軽く探った。改装工事が行われたのであれば、そこの扉以外にも施錠がされている可能性がある。そう思って、鍵らしきものを探してみたのだが、それらしいものは見つけられなかった。
 男から離れ、握り締めていた懐刀を再び胸元に収め、蔵の扉にかけられたかんぬきへと手を伸ばした。着物は土で幾分汚れてしまったが、そんなものは後でいい。

「ぐっ……お、っも……!」

 かんぬきは見た目以上に、想像以上に重かった。しかし、引きずって地面に落とすだけならできる。持ちあげて掛けなくてはならないという逆の作業が必要でなくてよかったと、血が体中をめぐる感覚にのぼせそうな頭で考え、やがてかんぬきが音を立てて落ちた。
 呼吸が整うのも待たず、奈津は焦るように扉を開ける。

「千里!」
「っ、奈津!?」

 蔵の中には案の定、本来あるはずのない柵が取り付けられ、その向こうには求めた相手がいた。
 彼女の姿を視界に収めた瞬間、奈津は小さな安堵と満足を感じた。
 ひめに笑ってもらうための一歩を、ようやく踏み出せた。ここまで来て、奈津はその事をようやく実感できたのだ。



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