TopText番犬が行く!

16 ただ一つ、強き願い。



 行く手を阻む柵に傷を根気よく刻み続ける中。分厚い扉の向こうが、唐突に騒がしくなった。それを聞きつけ、千里と布貴の手が止まる。

「……なんだ?」
「さあ……ただ事ではなさそうですが……」

 やがて人の声はおさまり、次にはずりずりと重たいものを引きずるような音がわずかに聞こえてきた。扉の向こうで何が起こっているのかわからない。二人の緊張感が増す。

「……千里、一度しまいましょう」
「ああ」

 千里は小刀を帯裏に隠し、布貴に貸したくないをズボンの中に戻した。
 ごとん、と重たいものが落ちる音がした。すると、すぐさま扉が開かれ、そこから小さな影が飛び込んで来た。扉から差し込む光が逆光となって影の人相を隠しているため、それが何者なのか瞬時にはわからなかった。

「千里!」
「っ、奈津!?」

 呼ばれた名前。聞き覚えのある声。扉から離れる事で顔がはっきりわかるようになり、千里は目を丸くした。
 千里の顔見知りにして、先ほど巻き込んでしまった少女、奈津だ。ただし、先ほどのような重そうな着物姿ではなく、それらを取り払ってもう一歩で肌着という寸前の格好をしている。
 奈津は必死の形相で空間を隔てる柵へと取りつく。

「千里、千里!」
「ちょ、奈津! お前なんつー格好……いや、それよりもなんでここに、」
「ひめ様がいないんだ!」

 千里はもたらされた驚愕に息を飲む。隣で様子を窺っていた布貴も瞠目した。奈津はただ続ける。

「お部屋にいらっしゃらなくて……! お食事も、今晩からひめ様の分はいらないって言われたって! 千里、どうしよう! すごく……すごく嫌な予感がするんだ!」
「っ、落ち着け、奈津、ちょっと落ち着け」
「落ち着けないよ!」
「わかってる! それでも、無理矢理にでも落ち着け! つかお前に協力してもらなきゃ俺らここ出れねえんだって!」

 肩で息をしていた奈津は辛そうに吐息を飲み込み、千里の言葉通りどうにか落ち着こうと静かな呼吸を意識する。

「ふ、ふぅ……」
「ここの鍵は南京錠みたいなもん使ってるみたいで、自力じゃ出られないんだ。お前、鍵がどこに保管されてるとか、」
「だ、だめ……」
「え?」
「み、見張り、探して、みたけど……見つけ、らんなかった……」

 涙ながらに、奈津は首を振った。すでに探してくれていたらしい。
 しかし、となると出るためには改めて鍵を探すか、この柵を破壊するしかない。
 どうするか、と千里と布貴は顔を見合わせた。
 前者の手段を取る場合、どうしても奈津に頼らなければならない。だが、ここを訪れるだけで、かなりの無茶を強いたはずだ。見張りが黙って彼女を通すとも思えない。先ほどの騒ぎが彼女と見張りのやりとりだったのなら、何らかの方法で見張りを黙らせているはずだ。おそらくは、あまり平和的ではない方法で。そう考えると、時間がない。後者の手段を取るにしても、破壊できるだけの道具がない。あと考えられるのは扉の上にある符を破壊するくらいだが、これもやはり道具がない。奈津にくないを渡したとしても、心得がなければ命中させられるとは思えない。

「こ、これ……」

 牢に入れられた二人が黙して考えていると、奈津が懐から短い刀を引っ張り出し、千里に差し出した。

「これ、じゃ……役に、立たない?」

 布貴の懐刀だ。千里はそれを受け取り、鞘から抜く。仕込み用の小刀よりは頑丈であろう刃が、外の光を受けてきらりと鋭い光を放つ。

「布貴」
「そうですね……まあ小刀とくないでちまちま削るよりは建設的でしょう。しかし、時間がない……」

 千里も同感だ。ひめがいるはずの部屋――離れの部屋にいない。千里が見た限り、彼女は鎖で繋がれていた。自分の意思で外に出る事はないはずだ。それでもいないという事は、鎖をはずせる何者かが連れ出したという事になる。となれば、行きつく先は一つしかない。言葉通り、時間がないのだ。
 それでも、何もしないよりははるかにマシであろう。
 できるだけ早く、目の前の柵を壊してここを出なければ。

 ――ぞわり、と背筋が粟立った。

 反射的に振り向き、その出所を知ると同時に声を上げる。

「奈津!」
「えっ……あぅ!?」

 しかし時遅く、次の瞬間には奈津の体が横へと吹き飛んでいた。壁に叩きつけられ、奈津が小さな悲鳴を上げ、咳き込む。
 彼女を背後から襲い、長い棒のようなもので殴り飛ばした男は、蔵の扉に体を預けて立っていた。辛そうに息を切らせ、目が血走り、ぼたぼたと汗を垂れ流している。扉から離れたかと思うと、男は片足を引きずって移動し始める。その向かう先は、殴られ打ちつけた衝撃でまともに体を動かせなくなっている奈津だ。

「っ、奈津、逃げろ!」

 奈津がわずかに反応を見せた。しかし、奈津が動きだすよりも男が奈津に辿りつくほうが早かった。
 半ば自らの体を支えるように使用していた槍を掲げ、

「こ、の……餓鬼がぁ!!」
「きゃああああ!!」

 尖った槍の先を、奈津の脚に振り下ろした。
 皮膚を破る音に一瞬遅れ、奈津の喉からは甲高い悲鳴が迸る。

「っ、これで、逃げられねえだろぉ……!」
「う、あ……ああっ……」

 痛みの為か、断続的に漏れ出る嗚咽。じわじわと床に広がっていく赤い水溜りが、千里の視界に入った。
 それで終わりになるかと思えば、傷つけられた脚を抱えて体を丸くした奈津を、男は槍の柄でがつがつと殴り出した。そんな光景を見せられて、千里の頭には徐々に血が上っていく。

「奈津! っ、やめろ、もうやめろ! もうそいつ抵抗してねえだろうが!」

 訴えたところで聞き入れられるはずもなく、むしろ何も聞こえていないのではないかと思うほどに、男の攻撃は激しさを増す。倉の中で鈍いはずの殴打の音が高く響く。

「せ、せんり……ひめ、様を……っ!」

 それでも、奈津の口からうわ言のように呟き漏れる言葉は、自分の助けではなく、ひめの助けを乞うためのもの。
 瞬間、頭の奥でぶちりと何かが千切れる音がした。

「……千里?」

 千里の隣で同じように顔を歪めていたはずの布貴が驚いているようだったが、千里はすでにその声も表情も認識していない。無言のうちに奈津から受け取った懐刀を強く握りしめる。鞘の方は無造作に放り捨てた。カランカランと空虚に響くが、それすら千里には聞こえていない。
 千里は身を屈め、刀を後方へと引く。視線を、先ほどまで小刀でつけていた細い傷へと固定する。左足を一歩踏み出す。後方にやった刃を閃かせる。
 刃と柵の衝突音が高らかに響く。刃が傷にぴたりとはまる。同時に肩まで伝わる抵抗。千里はそれでも力を前方へと掛け続けた。

「千里、無茶です!」
「はっ、……はははははっ! 馬鹿か!? そんな短刀一本で壊せるわけがないだろう!」

 布貴の制止、見張りの嘲笑。それらは全て、今の千里にとっては雑音でしかなかった。そんな事は、聞こえていようがいまいが関係ない。
 無茶でも、無理でも、やらなければならないのだ。この柵を壊す以外に、千里がここを出て行く術などないのだから。
 ぎりぎりと、何かが軋み出す。
 ぶちぶちと、何かが千切れて行く。
 じりじりと、何かが焦がす。
 腕が熱い。しかし千里にとってそれは些細な事象でしかない。千里の頭の中は柵の向こう側に出る事でいっぱいだ。そうしなければならない。たとえ今、刀をきつく握りしめている両腕が粉々に砕け壊れたとしても。

「ぐっ……ぅぅううううっ!」

 まずは外へ出なければ。
 ひめどころか、奈津を助ける事さえできやしないのだ。

「うおおおおおおおおおあああああああああ!!」



 腕が振り切れ。
 壮絶な音を立てて、柵が破れ崩れた。



「なっ!?」

 驚きの声を上げたのは、見張りだった男か、布貴か、はたまた奈津か。
 千里は自らの所業を振り返る事なく、破れ目から飛び出し、奈津を痛めつけていた男の元へと跳ぶように駆けた。

「ひっ……うわあああああ!?」

 まるで化け物でも見るような怯えた目をして、男は槍を振りかざす。しかし、千里が懐に入るほうが速かった。千里は懐刀で槍の柄を刀で両断し、何が起こったのかわかっていないような不思議そうな顔をする男の顔面に、裏拳を遠慮容赦なく叩きこんだ。ごり、とした衝撃が骨を伝わる。
 男は意味を持たないうめき声を涙とともに零し、その場に昏倒した。

「……抵抗できねえ女子供をばかすか殴りやがって」

 怒りを収めるには足りず、千里は意識を失った男の背中を蹴りつけた。ただし、その蹴りの威力はさほどない。全力ではないにしても、それなりに力は込めたつもりだった。しかし、急激に疲労が押し寄せ、蹴りの反動でよろけて座り込んでしまう程度に足の踏ん張りがきかなくなっていた。

「……あなたの体は一体どうなっているんですか、まったく」

 柵のなれの果てである欠片を蹴りどかしながら、布貴が近づいてくる。

「……人を化け物みたいに言うなよ」
「この所業が尋常な人のものであると?」
「……火事場の馬鹿力だ」

 反論がそれで終わってしまったのは、疲れているから、ではない。頭が少し冷静に近付けば、己の所業が尋常でない事は確かだと思えたからだ。
 刀をぶつけた辺りから、強引に二分されてしまった柵のなれの果て。斬られたというよりも力任せに押し破られたような状態で、木材は裂け、ささくれ立っている。二分されたうちの下側は、千里と布貴が脱出するために外へ向かって押し出したせいもあり、根元からほとんど真横に折れてしまっている。天井側は床ほど酷くはないが、こちらもやはり外側に向かって歪んでいる。
 これを一人の人間が懐刀一本しかも一撃で成し遂げたと言われても、実際に目で見ていなければ信じる者などいないだろう。
 自分は化け物だったのだろうか、という考えが浮かぶ。しかし、千里は堪忍袋の緒がぶっちりいくと何をしでかすかわからないところが以前からあった。今回もその類の結果なのだろう、と自分を納得させた。
 ふと、何事か考える仕草を見せた布貴が問う。

「……千里、神様とお会いした事はありますか?」
「は……? 天離界でも神に会う事ってあるのか?」
「……いえ、そうですね。やっぱりなんでもありません。気にしないでください」

 ふるり、と布貴が首を振って自身の発言を撤回した。布貴が何を考えたのかは少々気になるところだが、今はそれよりも奈津の事が気にかかる。
 千里は重たい体を引きずるように、ほとんど四つん這いの状態で奈津へと近づく。

「大丈夫か?」
「う、うん……」

 頷くが、とても大丈夫には見えない。顔が真っ青で、体は耐えるように震えている。

「応急処置しておきましょう」

 千里の後ろから布貴が顔を出し、どこに隠し持っていたのか例のよく効く傷薬を持ち出し、それを大量に指ですくって傷口に緩く塗っていく。千里は痛そうに泣く奈津の頭を撫でてやるくらいしかできなかった。薬を塗り終えた布貴は、髪飾りに使用していたリボンをほどき、それで奈津の傷を庇うように巻く。薄紫色をしていた綺麗な布に、痛々しい赤色が広がっていく。
 それから奈津の顔を覗き込んで、ほっと表情を緩めた。

「少々腫れていますが、これなら痕が残る事もないと思います」
「そっか……。よかったな。女の顔に傷が残っちまったら、やっぱ問題だろうし」
「ん……」

 奈津が力なく微笑んだ。よく見れば汗だくだ。脚の痛みもあるのだろうが、何より千里にひめの事を早く伝えようとしてくれたのだ。見張りは二人いたはず。武器を持った男二人を相手にするような危険まで冒して。
 その行動は、いくら感謝しても足りないほどだ。
 布貴は床に転がる柄が両断された槍の頭がついているほうを拾い、それを天井に向けて投げつけた。かつん、と音がして、槍頭が天井の壁に食い込む。それは自重ですぐに落ちてしまったが、取り付けられた符を傷つける事はできた。

「これで術とか使えるようになったのか?」
「ええ」

 答えながら、布貴は右手を胸のあたりまで上げた。なんだろう、と千里が見ている前で、その指先が淡く光を放ち出す。すっと腕ごと指先が動き、光の軌跡が生まれる。描かれたのは、「蔵」という一文字。

「《巫術・影蔵(かげくら)》」

 布貴が唱えると、その足元に影とは別の黒色が広がった。呆然と眺める観客の目の前で布貴はそこに手を入れ、一本の刀を取り出す。

「千里、懐刀を返してください。代わりにこちらを」
「お、おお……」

 言われるままに懐刀を返し、差しだされた刀を受け取る。受け取って、はたと気付く。

「何それ!? つか武器あるじゃねーか!?」
「巫術ですから、符が機能している状態では取り出せません」

 事も無げに言われ、千里はがっくりと肩を落とした。
 布貴は旅の間、さほど大きくない風呂敷のみを持っていた。千里に貸してくれたような着替えなどもそこに入っていたのか、風呂敷の神秘かと思っていたのだが、その謎が解けた気分だ。
 当の本人は千里の反応を気にせず、受け取った懐刀に千里が投げ捨てた鞘をはめ、自らの懐に入れる。

「……その懐刀、千里が使うんじゃ駄目なんですか?」

 少し痛みが和らいできたのか、奈津が不思議そうな表情を見せて、布貴に尋ねた。

「さっきの千里、すごかったのに……」
「いやまあ、あれは火事場の馬鹿力だし。このくらいの長さの方が使い慣れてるしな」
「でも、懐刀でも、もう一本持っておいたら、たとえばそっちの刀が折れたりした時の予備になるんじゃないかなって思うんだけど……」
「……それは、まあ」

 折れずとも、なんらかの理由で手から離れる事もあるだろう。確かに、懐刀でもないよりはあるほうがいいに決まっている。しかし、渡された刀は一本。懐刀は本来布貴のものなので、返せと言われたならば返すのは道理なのだが。

「……残念ながら、千里に貸せる刀はそれ一本ですね。私も一本くらいは持っておきたいですし。それに……」

 いつの間にか、布貴は弓を持ち、矢を背負っていた。それも《影蔵》から出したのだろう。
 そして、彼女は困ったように笑った。

「この懐刀、刃に毒が塗ってあるんです」
「へ!?」

 千里と奈津は同時に目を丸くした。

「即効性も致死性も高いものでして。……千里にはまだ早いかと」
「……ソウデスネ」
「さ、鞘から抜かなくてよかった……!」

 そして同じように青ざめるのだった。



 × × ×



 千里は少しばかり回復した身体をどうに踏ん張って立たせ、まだ満足に動けない奈津は布貴に支えられるようにして蔵を出た。そんな三人の前に、武装した数人が道を阻むように現れる。反射的に身構えるが、人壁の向こうから面白そうに千里たちを見る顔に、唖然とするほかなかった。

「なんだ、自力で脱出したのか」
「慧斗……!?」

 慧斗は昨日から見慣れている着流し姿ではなく、着物に袴を着こなしている。両腕には籠手を装着し、その右手には赤みを帯びた太陽の光を浴びて光を放つ抜き身の刀。
 よく見れば壁のように並ぶ姿も似たような出で立ちだ。という事は、彼らは鳴上神社の者なのだろう。
 しかし、慧斗を含め、彼らは本家とやらの兼ね合いで動けなかったのではなかったのだろうか。

「二人とも無事か。いやあ、よかったよかった。手遅れだったらどうしようかと思ってたぜ」
「慧斗殿……何故ここに」
「そりゃお前、本家から許可が出たからに決まってるだろ」

 千里の気持ちを代弁した布貴に向けられた返答は、あっけらかんとしたものだった。

「『布貴がお城に拘束されちまったぞー』って本家に報告したんだよ。そしたら、『布貴の奪還、及び摘伽城における異常の調査、解決を命ずる』ってな具合に返事が来てな」
「ならもっと早く来てください……千里は時間稼ぎですか?」
「そんなつもりはねえよ。こんな状況だ。打てる手は全部打っといた方がいいだろ。賭けではあったが、見込みはあると思ったしな。一応、これでも大急ぎで準備して来たんだぜ? あとは本家から連絡受けた連中も追って来るはずだ」
「……本家は行動が遅すぎます。城内からひめさんの姿が消えたそうですよ」

 それを聞き、さすがの慧斗も表情を引き締めた。

「……美貴の姿もないそうだ」
「…………」
「話を聞いたところ、どうも国主様は数か月前から伏せっているらしくてな。だから最近じゃ城内の事は美貴が取り仕切っていたようだ。だが、御殿の中をどれだけ探しても見つからないらしい。仕えてる女たちもいないそうだ」

 布貴が苦しげに目を閉じた。千里は何も言わなかった。何も言うべきではないと思ったのだ。
 ふと、慧斗の意識が彼にとって見知らぬ少女に固定された。

「そっちのお嬢ちゃんは?」
「ひめの世話をしてくれてたらしい」

 これには千里が答えた。

「ああ、って事はそのお嬢ちゃんが例の、お城で奉公してるっつー子か」
「ちょ、千里!? ひとには言わないって……!」

 奈津が青い顔をして千里を責める。顔色は怪我のせいだけではないだろう。

「すまん。けど、おかげで城の異常がこうして明るみに出たんだ。プラマイゼロだろ」
「ぷら……?」

 不思議そうな表情を見せる奈津に、ここでは横文字の言葉は通用しないのだと改めて気付かされる。千里は少し考えて、似通った意味合いの言葉を探した。

「怪我の功名ってやつだ」
「……千里もひめ様も、不思議な言葉を使うね……」
「同郷だからな」
「あ、そっか」

 現代日本人であれば、意識せず横文字を使用する事は日常の事だ。ひめも度々そういった言葉を使ったのだろう。
 慧斗と布貴は緊張感を少しも緩める事なく、顔を突き合わせる。

「さて、と。場所はおそらく……」
「城の北方にある祭壇ですね。お城が外部の侵入を徹底的に阻んでいたようですし」

 それを聞き、太陽の位置から大体の方角を割り出して顔を向ける。意図するまでもなく、あまり心地よくない汗が頬を流れる。

「北方って……山なんだけど」
「はい、山中の祭壇です。……神の眠る地です」

 布貴の声が沈んだ。未だに、封印されている神を目覚めさせるなどと言われても、千里にはピンとこない。千里にわかるのは、事の犯人がこの世界にとってとんでもない事をしようとしている事、それにひめを利用しようとしている事、そしてその犯人が布貴の姉であるという事だ。

「儀式が行われるとしたらオウマガトキだろうな。もう時間がねえ」
「慧斗殿」
「わかってるよ」

 慧斗は着物合わせ目から扇子を引っ張り出し、それを広げた。その中央には、「馬」と達筆で書かれている。もしや、と思う間もなく、扇子が光を宿し、慧斗が唱えた。

「《巫術・馬王(ばおう)》!」

 扇子から放たれた光宙に浮き、徐々に形を変えていく。数秒後には、それは美しい馬となっていた。鞍も手綱も取り付けられているが、その体躯は明らかに規格外だ。その背に大人四人くらいは余裕で乗れそうだし、そもそも鞍自体がそれを想定しているのか奇妙な形をしている。
 その馬は四つの脚を折りたたみ、地べたに腹を付けた。そのままでは背に乗りづらいからだろう。
 千里はすでに呆れた心地だった。

「……なんでもありだな、《巫術》ってのは……」
「そうでもねえよ。人によって使えるものと使えないものもあるしな」

 慧斗はそう言うが、千里は頷く気にななれなかった。術といった類の力が一切使えない千里からしてみれば、それでも十分「なんでもあり」の領域だ。
 慧斗の連れに奈津を預けた布貴が、その場から千里に問う。

「千里、まだ戦えますか? 疲労が酷いようであれば……」
「なんだよ、置いてこうってのか?」
「姉が何の備えもしていないとは思えません。いざという時、戦えないのでは足手まといです」

 布貴の声はきっぱりと明瞭だった。揺れなど一切なかった。非情な声。毒を塗った刀を常時持ち歩いている彼女は、千里が思った以上に修羅場を潜ってきているのかもしれない。非情でなければならない事を、彼女は知っているのだろう。

「……慧斗」
「んお? っと!?」

 腰に差した刀を鞘ごと抜き、慧斗に斬りかかる。当然、慧斗はそれを難なく受け止めたのだが。
 千里はすぐに刀を引いた。慧斗も腕を降ろし、苦笑する。

「布貴、問題ねえよ。こんだけ打てれば上等だろ」
「……慧斗殿がそう判断されるのでしたら」

 慧斗を戦闘狂と称するだけあって、布貴も慧斗の戦闘に関する感覚については信頼しているようだ。千里が「大丈夫だ」と主張するより、ずっと説得力があったろう。

「千里……」

 鳴上の者から怪我の手当てを受けていた奈津が、震える声で呼んだ。

「……ひめ様を、お願いします」
「ああ。絶対連れて帰ってくる。だから安静にしてろよ」
「……ん」

 小さく頷いた奈津を見てから、千里は布貴に向かう。布貴も千里を見ていた。

「行きましょう」
「おう」

 馬に乗る。布貴が前で、千里が後ろだ。自然とそうなった。残念ながら馬の乗り方など、千里は知らない。その辺りは布貴に任せるしかないのだ。
 布貴が太い手綱を握ると、それが合図だったかのように馬はすっくと立ち上がった。

「……慧斗は行かないのか?」

 なんとなく、慧斗も一緒に現場まで行くような気がしていたのだが。馬に乗っているのは布貴と千里の二人だけだ。馬の足元にいる慧斗が答える。

「俺はこの都にある神社の宮司だからな。都と民を守るのがお役目だ。都に被害が出る可能性がある以上、俺は都に残ってねえと」
「大変なんだな、宮司ってのも」
「おおよ。それに、ちょっと一筋縄じゃいかなさそうだしな。うちの連中も追って行かせるが、準備させねえと」
「俺たちは先遣隊って事か」
「二人だけですけどね。――行きます!」

 布貴が手綱を鋭く揺らした。馬は一声嘶き、その大きな脚で大地を蹴飛ばした。



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