TopText番犬が行く!

17 少女、奮闘。



 大きな馬の背に乗って目的地へと飛んで行った二人の少女を見送った慧斗の背中に、声が掛けられる。

「慧斗様」
「ん? どうした?」
「……蔵の中が」

 部下の声はどこか戸惑っているように、慧斗には聞こえた。
 蔵とは、そこにある建築物の事だろう。慧斗たちが抱いていた「牢ではないか」という予想は、布貴と千里がここにいた事実から見て正しかったようだ。
 配下の者に促されるまま、慧斗は蔵の中を覗き込み、――久方ぶりに、腹の底からぎょっとした。

「……なん、だ、こりゃあ……」

 力任せに破られたとしか思えない格子の残骸を目にして、慧斗が声にできたのはたったそれだけだった。
 巫術や神術の類ではない。それであればいっそ見事なまでに粉砕されていただろうし、仮に布貴が術を使える状況だったのであればもっとはやくここから逃げおおせていたはずだ。そう考え、内部に視線を巡らせてみれば案の定天井に術封じの符が貼り付けられていた。槍で刺したような傷はあるが、角度はほぼ真下からと考えられる。格子の向こうに押し込められた状態でつけられる傷ではない。
 では誰の所業か。
 考えるまでもなかった。
 おそらく巻き込まれたのだろう、今は手当てを受けている奈津という名の少女にこのような芸当ができるとは思えない。となると、選択肢は一つしか残らない。
 慧斗は蔵を離れ、奈津の傍らに立つ。

「……お嬢ちゃん」
「は、はい!?」
「蔵のアレ、やったのは千里かい?」
「あ、ああ……はい、そうです。短刀一本でやっちゃったんです。すごいですよね!」

 純粋に称賛し、どこかしら畏敬すら抱いている様子の少女からの証言に、慧斗は思わず顔を顰めた。
 短刀。おそらくは預けた布貴の懐刀だろう。それ一本であの光景を作り上げたなど、にわかには信じがたい。しかし、少女が嘘を吐いているとも思えない。
 成し遂げるには、相当な腕力が必要なはずだ。加えて、刀の耐久度もだろう。千里の腕力は、手合わせした記憶からは布貴より少々上程度と思えた。刀は布貴の物なのでなかなか良い代物ではあるが、よしんば切れたとしても柱一本がせいぜいのはず。何にしろ、あのように打ち破る事は不可能だ。
 しかし現実は、その光景を許容している。

「……何者だ、あいつ……」

 慧斗の怪訝な呟きは、突如吹いた風の音にかき消され、誰にも届かなかった。



 × × ×



 ひんやりした空気が頬と首筋を撫でた気がした。貼りつくように引きつる瞼を押し上げ、どんよりと重たい頭を持ち上げる。

「あら、もう起きてしまったの?」

 涼やかな声。ひめはそちらを振り向いた。その時点ではまだぼんやりしていた意識が、声の主を認識した途端明瞭になる。
 そこにいるのは、神社にいる巫女のような服装ではあるが、間違いなくひめを閉じ込めていた女だった。女の向こうには、光のない瞳をした女性が数人、あとは千里と相対していたくのいちらしき人物。誰もが感情のない視線をひめに向けている。嫌な雰囲気に、肌が軽く粟立つ。

「やはり、さすがは神の寵愛を受けし者。私の術では長く眠らせてはおけないのね」
「なに……!? ここ、どこですか!?」

 困ったように笑む女に問う。
 ひめはいつもの部屋にいたはずだ。せっかく千里と再開できたものの、千里は捕らえられ、どこかへと連れて行かれてしまった。悲しくて、悔しくて、想いのまま奈津とともに泣いて……それから……それから?
 おそらくは泣き疲れて眠ったのだろうと思う。
 だが、それならここは一体どこなのか。
 周囲に壁は一切なく、あるのはどこか暗い色を見せる木々と、その枝になる葉。生の冷えた風がひめの髪を揺らし、頬と首筋を撫で、草葉を揺らして過ぎて行く。

「ごめんなさいね。私にもう少し力があれば、眠っている間に全てを終わらせてあげられたのだけれど」

 投げかけられる声はやんわりとして優しい響きを持っていたが、その内にはひめをぞっとさせる何かを孕んでいた。血の気のない顔で、ひめは自身を見つめる女に視線を返す。
 ひめは何かの台の上に乗せられているようで、目線は地べたに座り込んでいるよりもずっと高い位置にあった。しかし、視線を下へと向ける事すらできない。掌から伝わる硬く冷たい感触は石のように思えたが、定かではない。
 女は台の上のひめへと顔を近づけ、白く美しい指先をひめへと向ける。伸ばされた手の先で、しゃらりと音がする。誘われるようにほんの少し視線を落とすと、身に付けた覚えのない珠で作られた首飾りが、そこにはあった。

「もう一度術をかけてあげられたらいいのだけど、この後に大事な儀式があるから、あまり力を使えないの。でも安心して。怖いのはほんの少しの時間だから」

 微笑みはあくまで穏やか。しかしその右手に短くも鋭利な刃物が握られているのを、ひめは見た。ざあ、と音を立てて急速に血の気が引いて行く。今や、ひめの顔は白どころか真っ青だ。
 これまでに何度も危険に晒されてきたひめだったが、これほどまでに命の危険を感じた事はなかった。
 本能的にそこから逃れようとして立ち上がったものの、恐怖に震える脚はまともに言う事を聞かず、ひめは台の上から転がり落ちた。結果として、女と刃物からは少し距離を取れたのだが、硬い地面に容赦なく打ちつけた体がひどく痛み、何を考えるよりも先に涙が溢れてきた。
 しかし、転んで泣いているといつも手を差し伸べてくれた千里は、今はいない。縄で縛られ、武器を持った男たちにどこかへ連れて行かれた。
 いないのだ。今、ひめはひとりきり。

 ――行くよ。絶対助けに行く。
 ――でも、それまでの間お前はひとりだろ。
 ――ひとりで頑張んなきゃ駄目なんだ。
 ――すっ転んで擦り剥いたくらいで挫けるようじゃ駄目だ。

 ぱしん、と頭の中で何かが弾けた。涙は流れ続けているが、ひめの心が前を向く。
 どことも知れない場所に連れて来られ、不思議な鎖で繋がれ、閉じ込められ、もう千里に会えないのではないかとすら思っていた。
 けれど、会えた。千里は来てくれた。
 千里がいる。どこかもわからないこの場所で、味方のいないこの場所で、けれど千里は来てくれた。そのたった一つの事実が、ひめを支える。
 千里に会いたい。もう一度。何度でも。
 願いが、弱いひめの心を衝き動かす。
 泣いていてもいい。とにかく、立って、逃げなければ。
 ひめは震える脚で、今度はどうにか立ち上がり、大地を蹴った。膝が笑って崩れ落ちそうになるが、手をついて体を支え、脚は決して止めない。
 逃げる事以外、ひめの頭には何も浮かばなかった。どうやって逃げるか、どこへ逃げるか、そういった事は一切考えられなかった。とにかく走る事で精一杯だ。
 しかし、何かに躓き、派手に転倒してしまう。手を前に突き出したが、柔らかい草と土の上を滑って行ってしまった。

「い、た……ふぇ……」

 泣きながら、振り向いた。
 そしてその行動を激しく後悔することになった。

「……え?」

 それは人間のようだった。纏っている着物や体つきから女性である事もわかった。
 しかし、頭がなかった。
 首の中ほどから先が途切れていた。
 そして血の雨でも被ったかのようにその上半身は赤く濡れていた。
 ゆるりと視線を動かせば、同じように打ち捨てられた女の体がいくつも視界に映り込む。

「あらあら、血は出ていないのかしら」

 呆然としていると、何時の間にやらすぐ傍に女が立っていた。しまった、と思いながらも、女が手にしている短い刀から目が離せない。動悸が激しくなる。嘔吐感が襲い来る。上下の歯がぶつかり合ってガチガチと音を立てる。

「まあいいわ。祭壇へ運んで」
「はい」

 命じられ、生気のない女たちがひめを拘束した。同じ性別とは思えないほど強い力で腕を掴まれ、引きずられる。抵抗する間もなく、ひめは元いた場所まで連れ戻されてしまった。
 立ち振る舞いは優雅、しかしその右手には人を傷つけるための道具。女はいくつもある首のない死体を目の前にしても、その穏やかな微笑を絶やさなかった。
 体が動かない。まるで金縛りにあったようだ。
 ゆったりと女が近づいてくる。逃げなければ、という思考が機能するより先に、周囲の女に両腕両足を捕られ、石造りの台へとはりつけられる。抵抗は遅すぎた。暴れてみようにも、手足ががっちり押さえられ、ほとんど身動きがとれない。
 逃げられない。
 そんなひめに向かって、凶器を持った女がゆっくり、ゆっくりと近づいてくる。

「やっ……やだ! やだあ!!」

 恐怖が頭いっぱいに詰まり、今にも破裂しそうだ。どうすればこの状況から逃げ出せるかなど、もう今のひめには思考する事さえできない。嫌だ、怖い、助けて。そればかりがひめの脳内を走り回る。

「そうそう。何故貴女が必要なのかお話しする約束だったわね」
「ひっ……!」

 ひめの怯えなどないもののように、女はひめに手を伸ばし、頬をそうっと撫でてきた。その手に凶器はないものの、もう一方の手にはしっかりと握られている。少し振り上げ、振り下ろせば、ひめに突き刺さる。それほどの距離まで、女は近付いていた。

「私ね、力が欲しいの」
「ち、力……?」
「そう、力。とてもとても強い力よ。それがこの地に眠っているの。でも、それを手に入れるのは少し大変なのよね……九十九もの娘を使わなければならないの。それも、一日に一人ずつ。今日で百日目。ああ、長い百日だったわ」
「……じゃ、じゃあ……さっきの、女の人たちは……」

 首のない、女の死体。それがいくつも転がされていた。数は数えていないし、ひめの視界に入っていなかったものもあっただろう。
 自然と辿り着いた答えに女は満足げに笑みを深めた。

「そしてこの百日目は、少し特別。貴女の血をもって力は目覚める。けれど、ただそれだけでは力は暴走するだけ……周辺を見境なく破壊するだけの脅威でしかなくなる。でもね、貴女を上手く使えば、それを制御できるのよ」

 女の手がひめの頬から滑り降り、知らぬ間に首に掛けられていた首飾りを愛しそうに撫でる。玉と勾玉と組み合わせてつくられた首飾りだ。首筋に感じるひんやりした硬い、しかし滑らかな感触。

「目覚めた力を貴女に宿す。私はこの首飾りを通じて力を制御するの。そのために必要な術は今日までに無事仕込み終わっているわ」
「や、やど……?」
「そうよ、宿すだけ。だから死ぬ事はないわ。もっとも、強大な力を前に貴女の自我は崩壊してしまうでしょうけれど。でも大丈夫よ。痛いのも怖いのもほんの短い時間だけだもの」

 まるで幼い子供に言い聞かせるような口調。仕草。しかしその奥を見通せない、混濁した闇。

 ――嫌だ……

 自我が崩壊する。肉体は生きていても、それでは死んだも同然だ。何もわからない。何もできない。たとえ大好きな人が目の前にいても、その名を呼んで駆け寄る事もできなくなる。

 ――せんちゃん……!

 ただ一人、いつだってひめを助けてくれた千里に助けを求める。それは無意識の行動であり、それが千里に届くか届かないかは意味を持っていない。
 しかし、千里は今、この場にいない。呼んだところで応えはない。
 今度こそ駄目かもしれない。恐怖の片隅で、後悔の念が浮かぶ。ひめは千里に助けられるばかりで、千里を助けられた事など一度だってない。いじめっ子に追いかけられれば千里に庇われ、授業の内容がわからなければ千里を頼り、怪我をしたら手当てしてもらい、絡まれれば追い払ってもらい……。唯一得意と胸を張れる料理にしても、千里に頼まれたわけでもなく、ひめの自己満足によって振舞ってきた。武器を持った男たちにどこかへと連れて行かれる千里を、追いかける事もできなかった。千里の優しさに、自分の無力さに、ひめはずっと甘えてきた。

 ――死にたくない!

 まだ何もできていないのだ。千里に「ごめんなさい」も「ありがとう」も伝えられていない。このまま、何もできないままで終わりたくない。
 ひめは真っ白になりそうな思考の波の中で、祈る。小さく。しかし、強く。

 ――神様……!



 その時だった。
 馬蹄の音が聞こえてきたのは。



「……この音は……」

 女が顔を顰めて、ひめから視線をそらした。凶器は下ろされていない。拘束の手もそのままだ。しかし、視線がそらされた事で、ひめの心にもほんの少し余裕が生まれる。
 何の音なのか。馬の蹄だという事はわかる。しかし、それが意味するところが、ひめにはわからない。
 音は一秒、一秒、大きくなっていく。その速度が半端ではない。とてつもない速度で近付いてきている。

「弓、構え!」

 女が鋭く号令を出した。弓を携えていた数人の女が静かに構える。
 鬱蒼とした木々の向こうに、真っ白な影が見えた。音が近づくにつれ、その影も大きくなる。それが馬なのだと理解するのに要した時間はおよそ十秒。その間に、ひめの視力で馬の背に乗って身を乗り出している小さな人の姿を捕らえられるようになった。
 いや、人が小さいのではない。馬が大きいのだ。
 大馬に乗った人影は、見知ったものではなさそうだった。その人影は馬に乗りながら、手綱の類は手にしていない。代わりに、弓が引き絞られていた。



「――美貴!!」



 その音が届いた瞬間、凶器を携えた女は、呆然とした顔を見せた。苛立ちは抜け落ち、優雅さも消えた。

「……布、貴……?」

 からからと渇いた声音が、紅を引いた唇の奥からこぼれた。その声を聞いた途端に、ひめの中にあったはずの彼女への恐怖心は急激に薄れて行く。何故だか、彼女がとても可哀想な人のように思えてきたのだ。
 馬上から一本の矢が放たれる。それは、ひめが気づいた時にはすでにすぐ傍まで届いており、女の凶器を握っていた手を掠めて落ちた。女の小さな悲鳴、それから少し遅れて、女の手からも凶器がこぼれる。
 大きな白馬は、ひめが拘束されている石造りの壇より数メートル先まで迫る。蹄は地に着いていない。不思議な事に、その白馬は空を駆けて来る。
 ふらりとした足取りで、女はひめから一歩、また一歩と離れて行く。

「っ、いけない! 美貴!!」

 馬上の弓を握る女が声を張った。その直後、だった。

「あっ……!!」

 短い悲鳴を残し、先ほどまでそこにあったはずの女の姿が消えた。ひめは驚いて目を丸くする。それから数秒後、ひめを押さえていた女や、武装していた者たちも一斉に姿を消した。まるで幻だったかのように、跡形なく消えたのだ。
 自由になった体をのろのろと起こすと、

「ひめ!」
「っ、せんちゃん!」

 頭上まで白馬がやって来て、その背から誰かがひめの名前を呼びながら飛び降りて来た。
 千里だ。ひめが千里を見間違えるわけがない。白馬が向かってくる姿を見ている時にはその存在に気付けなかった。おそらく前に乗っている女の影になっていたためだろう。じわじわと体の中心から熱が戻っていき、流れるように力が四肢に戻る。
 千里はなんなく石壇前に着地し、ひめに駆け寄って来る。ひめも石壇から降りて、着物を引きずって千里へと手を伸ばす。

「大丈夫か、ひめ!」
「せんちゃーん!」
「うぉ!?」

 目の前までやって来た千里に飛びつくように抱きついた。

 ――ようやく会えた!
 ――ようやく触れられた!

 ひめの体は、その喜びでいっぱいになっていく。
 いつもなら顔を歪めて「離せ」と言うはずの千里は、今に限っては嫌がる事も怒る事もなかった。ただ、ひめの頭を優しく撫でた。ぎゅうぎゅうとある限りの力を込めても、千里は文句ひとつ言わない。おそらく、ひめの力いっぱいなど千里からしてみればどうという事はないのだろう。
 しかし、そうして千里の体に触れたひめは、違和感に気づく。

「……あれ?」
「どうした?」
「……せんちゃん、なんか違う?」

 柔らかい。もともとそれほど男らしくゴツゴツしていたわけではないのだが、少し前の記憶が間違っていなければもっと骨っぽかったように思う。それに、目線がいつもよりうんと近い。
 千里の表情が呆れを前面に押し出したものになる。

「……今更か。ていうかなんで迷いなく俺だと思ったんだよ、お前」
「えー、だってせんちゃんはせんちゃんだもん」
「……思ってた以上に元気そうかつ変わりなくて安心した。怪我は?」
「んと、なさそう」
「そか」

 呆れ顔を見せていた千里は安堵の表情に変わり、それから心配そうに頭上を見上げた。

「……布貴」

 それは、馬上で弓を握ったままの女の名前らしい。千里とどういう関係なのか、少し気になった。
 布貴と呼ばれた彼女は、千里を振り返る事なく答える。

「……ここは切り立った崖の上です。美貴も、その事を知らなかったわけはないでしょうに……」

 美貴。それが、ひめを攫い、微笑を浮かべたまま己の欲のためにひめを利用しようとした、あの女の名前なのだろう。ひめは気付かなかったが、すぐそこに崖があるというのなら、彼女が唐突に姿を消したのは崖から落ちたから。それが意味するところを遅れて理解し、ひめは顔を青くした。

「高度もある。あの様子では……」

 沈痛な声だった。あれほど鋭く、それだけで相対する者を貫き倒してしまいそうな声と視線を向けてなお、布貴には美貴に対する何かしらの想いがあるのか。

「……それでも、もしかしたらまだ息があるかもしれないだろ。そしたら、その馬で都に戻って治療すりゃいい。見てもないのに勝手に諦めてんな」
「……」
「実際のとこ、見るのは辛いものかもしれないけどさ……たとえ駄目だったとしても、何も見ないよりは、踏ん切りつくんじゃねえか?」

 布貴の迷いは、短かった。千里の言葉を受け止めたほんの数秒後に、彼女は初めて千里を、そしてひめを見た。

「……下ります。二人はどうしますか?」
「俺たちは……」
「い、行きます!」
「ひめ?」

 珍しく強く答えたひめに、千里は不思議そうな顔をした。千里にも何かを答えたくて口を動かしてみたが、どう説明していいかわからず、結局のところ何も言えなかった。
 実のところ、ひめ自身にもよくわかっていなかった。ただ、ずっと恐怖の対象でしかなかった美貴が、布貴に呼ばれた瞬間に憑き物でも落ちたかのような表情に変わった事が気に掛かった。
 本当にそれだけなのだ。言ったところで、千里もきっと難しい顔をするだろう。
 そして、もう一つ。

 ――行かなくちゃ。

 何故か、そう強く思ったのだ。これこそ、理由も何もありはしない。どうしてそう思ったのか、自分でもまったくわからない。
 それでも、その気持ちは考えている今も薄れる事がない。
 白馬の蹄がようやく地面につき、四つの脚を折りたたむ。

「……乗ってください」

 布貴に促され、それを受けて千里に手伝ってもらって馬の背に乗る。乗馬など、初めての経験だ。こんな、普通ではありえない大きさの馬の背によじ登る事を乗馬と呼んでもいいのかどうかはわからないが。
 ひめは布貴の後ろ、その後ろに千里が乗る。弓を背負い直した布貴は、空いた両手で手綱らしき物を握った。
 そっと、千里の手が腰に柔らかく触れる。

「結構揺れるけど、暴れるなよ」
「あ、暴れないよぉ!」
「行きます」
「きゃっ!?」

 布貴は声と共に手綱を引いた。白馬がゆるりと立ち上がる。体が左右に揺れたが、千里の支えによってその場は事無きを得た。しかし、立ち上がるだけでこれほど揺れるとなると、本格的に動き出したらどうなるのか。ひめの頬を不安の汗が流れる。
 ちらりと、前方の布貴が肩越しに振り返った。

「ひめさん、私に捕まってください」
「は、はい!」

 促しに甘え、布貴の腰に手を伸ばした。
 手綱を打つ音が響くと白馬が浮かび、同時に重力に逆らう事によって生じる違和感が訪れる。安定していないエレベーターのようなものだと、ひめは思った。
 馬は勢いよく風を蹴り、石壇の向こう――崖の上へと飛び出し、崖の面に沿うように浮かんだまま走る。今度はシートベルトがない、スピードが幾分緩やかなジェットコースターのようだと思った。
 ぱっと見たところ、布貴の言葉通り、崖の上から下までは相当の距離があるように思えた。しかし、大きな白馬が駆ければそれはほんの数秒程度の距離でしかなかった。
 落ちたら、どうなるのだろう。ふと考え、胸のあたりがきゅっと痛くなる。美貴はもっと痛かったろう。当然だ。転んだだけで、ひめは泣いてしまうほど痛いのだ。あんな高いところから落ちた時の痛みなど、想像する事すらできない。
 白馬の足先が地面に下り、わずかな砂煙が生まれる。それが収まるよりも先に、布貴は白馬から飛び降り、駆けた。

「姉さん!」

 ひめは驚き、目を瞠る。
 馬が再び脚を折ると、まず千里が先に地面に降りた。

「あの人、布貴のお姉さんなんだって」
「そ……なの?」
「ああ。もう、五年くらい会ってなかったって聞いた」

 五年。それは、きっととても長い時間だ。千里と五年会えなかったら、と考えると、寂しくて寂しくて、毎日泣いてしまう事だろう。
 千里から差し出された手を借り、ひめも地面の上に降り立つ。そして、千里と二人で布貴が向かった先を見る。
 美貴は血溜まりの上で横たわっていた。その光景に、ひめは思わず千里に寄り添い、その着物の端を握り締める。

「……姉さん……姉さん、どうして……」

 布貴の弱々しい声が、風の音に混ざって届く。膝をつき、頭を垂れ、肩を震わせている。
 きっと、姉が大好きだったのだろう。小さく見える布貴の背中が、それを物語っている。
 そんな布貴の向こう側。横たわったままの美貴の姿。
 ぴくりとも動かなかった彼女の唇が、微かに動いた。呼吸の音ででも気づいたのか、布貴も顔を上げ、更に美貴に近付く。

「姉さん!?」

 まだ息がある。
 生きている。

「布貴、運ぶぞ!」
「っ、はい!」

 必死の千里。必死の布貴。弾かれたように、二人は美貴の命を救うために動き出す。
 ひめは一人、彼女の唇から目が離せなかった。
 千里ほど視力も、聴力も良くはない。けれど、ひめには、美貴の言葉が聞こえた。

 ――逃げて

「っ、駄目!」

 何故そう思ったのか。何を感じたのか。言葉にはできない。ただ、それは衝動のように、唐突にひめの奥底から溢れ出した。
 千里が足を止め、ひめを振り返る。布貴も不思議なものを見るような視線を向けてくる。
 その直後だった。
 美貴の体が光に包まれる。それはとても強い光だった。その光の中、美貴の輪郭が徐々に崩れていく。溶けていくように、壊れていく。
 そして、大地が大きく揺れ出す。

「なっ……!?」
「千里!」

 ただ驚愕する千里の首根っこを、美貴の傍らから飛び退いた布貴が掴み、力任せに引っ張ってその場を離れる。

「ひめさん、馬王の後ろに!」
「え、え!?」

 布貴の言葉に、ひめは困惑した。ただでさえ急な大地震に動転しているところに拍車が掛かる。バオウ、が何を指すのか、ひめにはわからなかったのだ。

「馬だ、ひめ!」
「あ、あ! はい!」

 千里から寄越された補足に、揺れる世界によろめきながら、どうにか大きな白馬――馬王の脚に縋りつき、その感触に頼って移動する。
 少しの間一人で耐えていると、布貴と、いつの間にか布貴の手から解放されていた千里も回りこんできた。
 馬王の向こう側で、何かが破裂するような大音量で凶暴なまでの轟音が生まれた。
 同時に熱を持った強風も発生し、周辺の木をは薙ぎ倒されていく。馬王がいなければ、ひめたちも吹き飛ばされ、どうなっていたかわからない。
 そして、咆哮が響き渡った。

「なんっ……なんなんだ!?」

 何が何だかわからない。千里の叫びはその思いに溢れていた。同じ心境のひめは、少しでも恐怖をやり過ごそうと千里に縋りつく。千里はひめの肩を抱いていてくれたが、ひめの目からは涙がこぼれ始めていた。
 じっと次に起こるかもしれない何かを待っていると、地面の揺れが徐々に収まっていく。

「……目覚めて、しまわれた……」

 布貴の呆然とした呟きが、ひめと千里の鼓膜を叩いた。布貴を見れば、彼女は流れる涙をそのままに、茫然とした様相で上空を見上げていた。
 ひめと千里も視線を空に移す。
 そして、目を焼くほどに金色に輝き、稲光を纏うように空へと泳ぎ登る巨大な龍を見た。
 どくどくと、心臓が悲鳴を上げる。叫ぶ。恐怖とはまた違った理由で、体が震える。
 その、あまりの神々しさ。
 震える声で、布貴がその存在の名を呼んだ。

「……ミカヅチ、様……」



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