TopText番犬が行く!

18 災厄の宴、小さな決意。



 まず、大地が大きく揺れた。次いで、祭壇の方向から轟音。そして、体の芯まで震わせるような咆哮。
 その出所を視線で探す。北方の山の上に固定される。そこには見た事のない、しかし言葉で表現する事が馬鹿馬鹿しくなるほど神々しく光る龍の姿があった。
 その感想が、答えだった。

「慧斗様! あれは……!」
「ああ……なるようになっちまったなあ……」

 部下である男の悲鳴混じりのような言葉に、慧斗は目を細めてただ静かに呟いた。
 姿を見るのは初めて。当然だ。あの方はずっと眠っていた。慧斗がこの世に生を享ける前から、ずっとだ。現在生きている者は、誰もその姿を見た事などあるはずがない。古い文献にちらりと表記が残っているだけだ。それでもなお、打ちつけるように伝わってくる段違いの存在感。

 ――布貴と千里は、間に合わなかったか……

 時間がないという理由から、先に向かわせた二人の若き娘の姿を思い浮かべる。慧斗が責任者である小隊が武装して二人の後を追ったのがほんの少し前の事。《馬王》は重複しての使用ができないため、彼らは普通の馬を使っている。追いつく事はできなかったろう。
 ちなみに、鳴上本家の部隊は未だ都にすら到着していない。まったくどこまでも愚鈍な連中である。この状況において、最悪の事態を避けられたとでも日和見な本家の老人どもは思えるのだろうか。だとしたらまったく唾を吐きつけてやりたいものである。
 本家から出ようともしない老人どもに現場の判断を任せるしかない今の鳴上の体制は問題ありだと、慧斗は強く思った。

「……城内と町の住民たちを避難させるぞ」
「はい!」

 部下に指示を出して行きながら、慧斗は祈る。神がその声を聞き届ける事はないと知りながら、それでもなお祈らずにはいられなかった。

 ――怪我してても何でもいいから、とにかく戻って来いよ……布貴、千里!



 × × ×



 上空を泳ぐ巨大な龍を、驚愕に満ちた眼で千里は見上げた。
 布貴を疑うつもりはなかったが、神の実在を心の底から本気で信じてなどいなかった。あるいは実感を持てなかっただけなのかもしれない。実際に見た経験がない以上、「布貴たちは神が存在すると言っている」という事実をそのまま飲み込むしかなかったのだ。
 そんな千里でも、見ただけでわかった。その強烈で圧倒的な存在感。それは千里と同じ人間ではありえない。動物などという分類ができるものでもない。
 自然と湧き上がる畏敬の念。あれは存在の格が違うと、本能が叫ぶ。

「……あれが、この国に眠っていたっていう、神……?」

 応えはなかった。求めていたわけでもなかった。これは質問ではなく、ただの確認作業だ。
 あれは神だ。この地で封印され、布貴の姉である美貴が目覚めさせようとしていたもの。
 それを考えて、はたと思う。
 何故、神が目覚めたのか。

「お、かしいだろ……ひめは無事だぞ!? なんで封印が解けるんだよ!?」

 美貴は神の封印を解くために、ひめを必要とした。しかし、そのひめは今、千里のすぐ隣で不安いっぱいの涙目で千里を見ている。感じるぬくもりは、幻の類では決してない。美貴の企みは失敗に終わったはずだ。

「……美貴です」

 視線を地面に落としていた布貴は、小さく唇を震わせた。

「ひめさんが必要だったのは、あの方の力を制御するため……ただ封印を解くだけであれば、最後に捧げられる血は誰のものでもよかったのでしょう」
「そんな……」

 つまりあの神は現在、誰の制御下にもないという事になる。
 城に向かう前、慧斗から聞いた話が脳裏に浮かび、唇が震える。

「……じゃあ、あの神は……完全に、《アラノカミ》って状態なのか……?」
「……慧斗殿に聞きましたか。そうです。ひとに災厄を与える、恐るべき存在です」
「どう、なるんだ……?」
「……わかりません」
「わからないって……!」
「《アラノカミ》の出現は、少なくともここ百年はなかったはずです。摘伽ではなおの事……資料すら残っていません。ですが、他国の記録では……」

 布貴の声を遮るように、空から咆哮が降り注ぐ。それから数瞬遅れ、空から何条もの光の槍が大地へと落とされる。強い稲光に、耳をつんざく爆音。遠くで山肌が崩れるような音がした。風に流されて届く焦げ臭さから、どこかに火がついたらしい事も窺い知れる。

「……鎮まった後は、一面焼け野原……だったそうです」
「……それっぽいなあ……」
「そんな……! じゃあ、なっちゃんは……!?」

 ひめが千里に縋り付いたまま、布貴に向かって身を乗り出す。布貴はちらりとだけ顔を上げ、ひめの見つめた。

「……奈津さん、の事でしょうか……おそらく、慧斗殿たちが避難の誘導を始めているとは思います。……ですが、この災厄がどこまで広がるかは……」

 明言はしなかったが、安全は保証できないという事だ。布貴は再び視線を地に落とした。
 千里は再び空を見上げる。咆哮に呼応するように集まる灰色の雲は、おそらく雷雲。もともと日も暮れかかりだったため徐々に暗さを増していたが、その速度が急速に上がっていく。ゴロゴロという雷鳴は止む事なく、落雷は気紛れに発生しては大地を焼く。

「放っておいたらどこまでも広がりそうだな……。なんか方法はないのか? 慧斗からは、鎮めるとかなんとか聞いた気がすんだけど」

 ひめは無事だったが、だからと言って知らない顔はできない。
 ひめも心配している奈津に、団子屋の店主、慧斗を始めとする鳴上神社の人々。千里は一人でこの世界にやって来たが、ここで出会い、支えられ、ここまでやって来たのだ。
 大切なもの、守りたいものは、もうひめだけではなくなっていた。
 できる事があるのなら、何だってする。その一心で告げた言葉だった。しかし、布貴の表情は一切浮上しなかった。

「……本来であれば、専属の《巫子(みこ)》が祝詞を捧げるなり供物を捧げるなりする事で鎮めます」
「じゃあ、鳴上の人たちに頼んで……」
「単に神社で従事している方たちとはまったくの別物です。……《巫子》はお仕えする神様と直接交信する者。その神様に認められなければ、《巫子》とは呼ばれません。通常であれば、神様は最低でも一人《巫子》を有しています。……ですが、ミカヅチ様には《巫子》がいらっしゃらない」
「なっ……そうか、封印されてたから!」

 この地にずっと封印されていたのであれば、当然その間は人間との接触は一切なかったという事になる。《巫子》を用意したくても、できなかったのだ。
 布貴は頷く事さえしなかったが、項垂れたままのその姿勢こそが布貴からの答えだった。

「我々に、あの方を鎮める術は、ありません……」

 囁くように空気を振動させたその声は、絶望に染まっていた。
 千里は、他に何か術はないのかと、聞きたかった。しかし、力をすっかり失くしている様子の布貴には聞こうにも聞けない。そもそも、この中で唯一天宮界で生まれ育ち神についても詳しいはずの布貴が「術がない」と言うのであれば、もうそれ以上の答えはありえないのだ。

「……くそっ!」

 地面を殴りつける。痛いばかりで、何の解決にもなりはしない。
 理性では理解している。しかし、納得できない。
 ここで終わってしまうのか。ようやくひめに辿り着いたというのに。このまま、この山も、都も、そこで生きる人々も、全てが壊されてしまうのか。上空の神を止める事さえできれば、これ以上犠牲になるものはないはずなのに。たったそれだけの未来が、導き出せない。
 悔しさを歯噛みして堪えていると、ぞわりと背筋を何かが這い登った。遅れて、頭上で強い光が瞬く。
 脳が判断するより先に体が動いた。ひめも巻き込むようにして、布貴に体当たりを仕掛ける。ひめの悲鳴、布貴の呻吟が聞こえた。加減などしている余裕はなかった。
 直後、背中を強い衝撃が襲う。熱を持ったそれに押されるように吹き飛ばされる。それがどんな影響を人体にもたらすかなど、悠長に考えている余裕はなかった。千里はただ必死に、さして大きくもない体をいっぱいに使って、ひめと布貴の体を庇った。



 ――熱い……


「うっ……」

 強制的な浮遊感の終わりはすぐに訪れた。ほんのりと温度を持った土の上に投げ出され、打ちつけた痛みと吹きつける熱風に呻く。
 ひめが力なく上半身を起こすと、ずるりと上に載る形になっていた千里の体が半分地面に落ちる。

「っ、せんちゃっ……!」

 何が起こったのか、ひめにはわからなかった。突然千里に引っ張られ、体が軽く浮いたと思ったら強い力によって押しやられた。
 そして、今、千里が動かない。

「せんちゃん! せんちゃん!?」
「う、ぁ……」

 強く呼び掛けると反応があった。苦しげな声に、苦痛に歪む表情。
 その背中に、大きな焼け焦げの跡。

「あ……ああ……!」

 着物は乱暴に焼け落ち、そこから覗く肌は赤黒くなり、爛れてしまっている。
 雷だ、とひめにも気づけた。
 先程から、上空を漂う神から気まぐれに落とされる災厄。千里はいち早くその襲来に気づき、守ってくれたのだ。いつものように。

 ――またなの……?
 ――また、あたしはせんちゃんを傷つけるだけなの……!?

 守る事も、手助けする事もできない。ひめを守ろうとするとき、千里はどうしても傷を負う。それを癒す力もない。止める強さもない。
 酷い痛みと闘っているのだろう、動かずただ苦しげな呼吸を繰り返す千里に覆いかぶさるように、ひめは頭を垂れた。

「ごめんねっ……ごめんね、せんちゃん……!」

 閉じ込められていた間ずっと、伝えたいと思っていた言葉の一つ。
 こんな形で言いたくはなかった。こんな状況では残る言葉も伝えられない。
 何の力も持っていないひめは、ただ心のままに涙を流して謝る事しか――、

 ――あった……

 自然、顔が上がる。
 ひめは気づいてしまった。

 ――あるよ、あたし……あたしにできる事……!

 ひめには何の力もなかった。守られるだけの存在だった。
 けれど今は、ひめにもある。それはひめの力ではないかもしれないが、少なくともそれはひめの中にある。そのように、ひめは変えられていた。
 どくんどくんという心臓の脈打つ音が体中に響き渡る。そこにあるのは興奮と恐怖、半々だった。
 ひめを変えた女は言った。力を宿せば、自我を失うだろう、と。
 彼女の言う「力」とは、状況からして上空の龍の事だったのだろうとわかる。あれが神という人智を超えた存在である事は、自分が置かれている状況を全て把握しているわけではないひめにもわかっていた。
 あの女――美貴は神をひめの中に宿そうとしていたのだ。その力を自らが制御するために。
 千里の着物に縋る手が震える。
 ひめに宿す事で、神を制御する術がある。少なくとも美貴は持っていた。ならば、美貴に変えられたひめの中にも、それを可能にする力があるかもしれない。
 しかし、それは絶対ではない。もしこの目論見が失敗すれば、ひめは戻れない。死んだも同然になってしまう。死にたくはない。千里に伝えたい事はまだいっぱいあるし、してあげたい事もある。

 ――いやだ……こわい……こわいっ……!
 ――でも……せんちゃんが死んじゃったら、全部意味がなくなっちゃう!

 ぽう、とひめの中に炎が灯る。
 痛みも恐怖も消えていないのに、涙が止まる。
 熱い。そう感じるのは、落雷によって発生している熱風のせいだけではない。千里を守りたいという強い願いが、血流にのって全身へと行き渡る。

「……ちゃんとできるか、わかんないけど……がんばるよ、あたし」

 そっと、千里の着物から手を放し、千里の額に汗で貼りついた前髪を軽く流してやる。指先は震えていた。
 けれどひめは、もう迷わない。
 激痛から固く閉じられていた千里の眼がわずかに開かれる。先程のひめの声が聞こえていたのか、その瞳が「何を言っているのか」と問いかけているように見えた。
 ひめは、今できる一番の笑顔を浮かべる。

「だから……残りは、全部終わってから、言うね」
「ひ……め……?」

 千里の声は、少し掠れていた。
 そういえば、攫われたあの時から、千里はひめの事を「市ノ瀬」ではなく「ひめ」と呼んでくれている。まるで、幼い頃のように。
 それがとても嬉しいのだと。これも《終わったら言う事リスト》に追加して、ひめは立ち上がった。
 千里たちの近くで実行すれば……あまり考えたくはないが即座に失敗した場合、千里たちをとてつもない危険に晒す事になる。ひめはかつてない程冷静な思考で、千里たちから距離を取る事を選んでいた。
 為すための力がある。不思議と、方法もわかっている。
 後はすべて、ひめ次第だ。



 土で汚れてなお華やかさを保つ着物が翻った。



「ば……っか、ひめ! 戻れ! 危険だ! っ、げほっ……ぐ、ぁ……」

 離れていくひめの姿を追おうとしたが、体が思うように動かない。腕を伸ばす、そんな動作ですら千里に強い痛みをもたらす。痛みの大元は疑うまでもなく背中だ。神が落とす雷の余波は遠慮なく千里の背中を焼いたらしい。直撃していたらどうなっていたか、考えたくもない。
 どうにか声は出たものの咽てしまい、咳き込むという動作は痛みを増幅させる。

 ――何が、どうなってんだ……!?

 神の災厄からひめと布貴を庇い、背中を焼かれた。その直後からほんの短い時間だが気を失っていたようで、気がつくとひめが着物に縋りついて泣いていた。「ごめんなさい」と、辛そうに。
 怪我の事なら、ひめが気にする事ではない。ひめのせいではないのだから。そう伝えたくても、動く事も声を出す事もできなかった。
 胸の中で悔しさに歯噛みしながらも激痛にひたすら耐えていると、ひめの声の調子が変わった。
 いつもの柔らかい、頼りなげな声ではない。静かで、それでいて強く、深い。
 どうにか首を動かしても、ひめの姿は視界に映らない。訴え来る痛みを無理矢理遮断して、倒れていた体を起こす。
 ひめの背中が見えた。土で汚れた打掛を風にはためかせて、上空を見ている。正確には、上空を漂うように泳いでいる神を。

「――天原(あまのはら)より産まれ降りし御神よ。我、蔓延せしもろもろの罪穢れの清め、この身をもって願い奉る!」

 そう、叫ぶように声を張り上げる。何をしているのか、と痛みに耐えながら千里は思った。

「い、けないっ……」
「っ、布貴! 無事か!」
「千里っ……ひめさんを、止めてください!」

 どこか怪我を負ったのか、布貴は顔を歪めながらも、千里に訴える。
 しかし、それは遅かった。
 必死な様子の布貴に、何が何やらわからない状態でも、とにかくひめのやっている事はよくない事らしいというくらいの事は理解できた。だから、ひめを止めるために動き出そうとした。
 その直後だった。ひめの体が黄金色の光に包まれた。落雷ではない。それは上空から降ってきたのではなく、ひめから発生したのだ。

「止めて、千里!!」
「あ、ああ! っ、う、あ、ぁっ……!」

 一瞬怯むも、さらに声を上げる布貴に立ち上がり、駆け出そうとした。しかし、それによって背中の痛みが増し、千里の体は再び地面へと崩れ落ちる。

「千里!」
「くっ……そ……!」

 背中に負ったらしい傷は、思ったよりも酷いらしい。
 そうしている間にも、ひめを覆う光は強烈になっていく。直視などすれば、一瞬で目が潰れるだろう。
 そして、そんなひめに、上空から光の奔流が浴びせられた。もう目を開けている事すらできない。千里も布貴も、咄嗟に目を閉じ、手で壁を作り、視覚を守った。
 瞼を下ろし、手のひらで遮っていても世界の明暗はぼんやりとわかる。徐々に弱まっていく光を感じ取り、千里はゆっくり目を開いた。
 ひめは立っていた。先ほどとは違って頭をかくりと落としてはいるが、倒れてはいない。見たところ傷もなさそうだが、ひめを中心に薄く煙が立ち上っている。

「……降りて、しまった……」
「どういう、事だ……? 何が、起こったんだ……」

 呆然と隣で呟かれたそれに、千里は問いかけた。

「ひめさんに、ミカヅチ様が降りてしまわれたんです」
「降りる、って……?」
「《神降ろし》というものです……。神様方はそのままのお姿で人間の前へと出る事は基本的にありません。そもそも表立った交流をしないものです。その中で、最たる例外が先ほど言った《巫子》です。神様方は、ご自分の《巫子》を通じて人間と交流する……その際に《巫子》が使用する方法の一つが《神降ろし》。《巫子》が神様にその身をお貸しするのです」
「……待てよ、おかしいだろ。ひめは《巫子》じゃないはずだろ!? 違うのか!? ……つ、ぅ……!」

 声を荒げると背中に響いた。千里は眼を閉じて呻き、浅い呼吸を繰り返す。
 激痛をやり過ごして再び眼をあけると、辛そうな色の布貴の瞳とかち合った。

「……それで間違いありません。ひめさんは《巫子》ではない。現在天宮界、天離界に存在するすべての人間に同じ事が言えます。ミカヅチ様の《巫子》は存在し得ないのですから」
「だったら、なんで……!」
「……おそらく、姉が何らかの仕掛けをしていたのでしょう。ひめさんの体にミカヅチ様を降ろせるように。もともと、《アラノカミ》と化したミカヅチ様の力を抑え、制御するためにひめさんの体に降ろすつもりだったのだと考えれば……そうするのはごく自然の事です」
「……つまり、今のひめは……」

 構えながらも言葉を交わす二人の前で、ひめの頭がふらりと持ち上げられ、揺らめくような動きで二人の姿を捉えた。
 金の瞳で。
 次の瞬間、二人に向かって稲妻が襲いかかる。先ほどまでのように空から突き落とされるものではなく、ひめの体から放たれた。
 負傷している二人はそれを、転がるように左右に散る事でやり過ごす。

「ひめじゃなくて、ミカヅチとかいう神だってのか!?」
「そういう、事です!」

 ひめへと降りた神からの第一撃を無事に避けた二人は、物理的に距離ができてしまった相手に聞こえるように声を張る。

「じゃあ……ひめはどうなったんだよ!」
「っ……!」

 布貴は、すぐには返答しなかった。それはほんの数秒の沈黙だった。そして、千里の布貴の間を断ち切ろうとするように、第二撃が襲来する。
 乾いた土にまみれながら、続けて襲いかかる稲妻を避け続ける。しかし、布貴が先ほど答えに詰まった事が、千里の心に陰を差す。
 ひめに神が降りた。ひめから稲妻が襲いかかる。それは神の攻撃だ。では、ひめはどうなったのか。無事なのか。元に戻るのか。布貴は何も言わなかった。ひめが無事であるなら、彼女はそう言う。はっきりと答えたはずだ。それがなかった。それが何を意味するのか。
 頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。取り戻したと思った端からすり抜けていく恐怖感。考えども答えが出ない。いや、きっと出したくないだけなのだ。
 布貴が何も言わなかった。それが紛れもない答えだったのではないか。

 ――せんちゃん……

 ひめの笑顔、千里を呼ぶ声が声が聞こえた気がした。

「千里!!」

 布貴に呼ばれ、はっとして意識を現実へ帰せば、全てを焼き滅ぼさんとする光が目前まで迫っていた。
 反射的に地面を蹴飛ばしていた。しかし、少し遅い。足をもぎ取られるような強烈な激痛を受け、上半身が地面の土を削るようにして転げていく。地面の上に投げ出された体を、乱暴に受け止めるあたたかいものがあった。布貴だ。ちょうど、布貴のいる方へと跳んでいたらしい。
 体中あちこち痛いわけだが、今しがた負った足の怪我が一等痛い。痛みが全身に満ちていき、虚脱を伴う諦念が頭の中を埋め尽くしていった。
 もう一度ひめの手を取るために、怪我を押してこんなわけのわからない異世界にまでやってきて。その結果がこの体たらく。
 ひめを守るため、努力はしてきたつもりだった。ひめを守るという事が……一時忘れかけてはいたものの、千里にとっては立派な誇りだったのだ。
 けれど結局、千里はひめを守れなかった。掴んだはずの手はすり抜けていき、千里はそれを止める事ができなかった。
 千里には、何もできないのだ。

 ――ごめん……ごめんな、ひめ……

 じわりと、緩んだ涙腺が涙をこぼし掛けて、



「――しっかりなさい、千里! ひめさんは戦ってらっしゃいます!」



 弱った心を一発で叩き起こすような言葉が、布貴の口から告げられた。



TopText番犬が行く!