19 今度こそ、その手を掴む。
彼女にはもう、自分が何なのかすらわかっていなかった。
崩れゆく存在の輪郭。彼女は静かに終焉を受け入れていた。
けれど、どこかで何かが引っかかっていた。何か、忘れてはいけない何かを、忘れているような気がしていた。しかしそれが何なのかがわからなかった。
――もう、いい……もう、疲れた……
そうして完全に意識を閉じようとした彼女の元に、声が届いた。悲鳴のように聞こえた。求めているように聞こえた。
彼女は探した。そして見つけた。
一人の少女が、強大な存在を目の前にしていた。
少女は抗っていた。痛みと恐怖に泣きながら、声の限りの悲鳴を上げながら。太刀打ち不可能な程の強大な力に抗って、その身を掻き抱いて耐えていた。
――そうだ……あの子を、守らなければ……
小さな体で大人たちに囲まれて。綺麗な肌に傷を作って。良い意味でも悪い意味でも特別扱いされ続け。生まれた時から背負わされていた宿命につぶされないように懸命に立っていた。
妹。
そう、妹だ。
たった一人の可愛い妹。
四つ年下の愛しい妹。
彼女はそんな妹を守りたかった。救いたかった。否応なしに押し付けられた重圧から解放してあげたかった。それが無理ならせめて代わってあげたかった。
だって、あの子は妹で、彼女は姉なのだ。
家に関する責任を多く負うべきなのは姉である彼女であるはずだった。けれど、大人たちは言う。あの子は特別なのだと。天からお役目を与えられ、それを果たす義務があるのだと。だから他の子供には施さないような辛い修業を課し、子供のうちから旅に慣れさせるのだと。
そうして周囲は勝手に、あの子にたくさんのものを背負わせた。たくさんの危険と苦難を与え、それを当然だと言った。
体の傷は霊薬で跡形なく消す事ができても、心についた傷は消えない。
彼女は知っている。初めての旅の最中、同行者があの子を庇って死んだ事で、あの子が強く傷ついていた事を。ひどく泣いていた事を。度々悪夢に苦しめられていた事を。
――守らなきゃ……
彼女は少女に寄り添い、その腕を広げた。
彼女に残る全ての力で、少女を包み込む。
大して強い力ではないけれど、少しでも、助けになれるのならば。
守る事ができるのならば。
それだけが、彼女に残された想いだった。
× × ×
千里は瞠目し、どうにか首と目だけをわずかに動かして、布貴を見る。
「ひめさんの身体変化は瞳の色だけです! 本来、その身を神様に委ねれば変化は全身に及ぶ! しかしひめさんはまだ瞳だけ! ひめさんはまだ消えていない! 諦めていない! なのに、あなたが諦めてしまってどうするんですか、千里!!」
開いた目を更に限界まで開き、痛みが走る体を衝動だけで動かしてひめを見た。今のひめは小さな雷のような光を周囲にまとっており、金色に変わってしまった瞳からは慣れたひめらしさを感じられない。
けれど、その目尻からは止めどなく涙が流れている。
――せんちゃん……
ひめが呼ぶ声が、聞こえた気がした。
それが千里の願いが呼んだ幻聴だろうと関係なかった。
――まだ、間に合うのか……?
――まだ、その手を掴む事ができるのか?
――まだ、終焉には早いのか……!
千里は立ち上がる。あちこちに負った怪我のために、思うように力が入らない四肢に鞭を打つ。大地に血のにじむ爪を立てて上半身を持ち上げて。もう踏ん張りも効かなくなっているだろう脚に、無理矢理力を込めて。もう痛み以外の感覚がわからない左足すら、地につけて。
満身創痍だろうと関係なかった。
助けに行くと、約束したのだ。その約束を果たす事が、まだ許されるのであれば。
千里が立ち上がらない理由は、ない。
「――――なんか、あるの、か? 方法……」
「それを今、考えているんです……」
「ないの、かよ……」
あんな強烈な発破を掛けておいて、それはないだろう。叫び出したいほどだったが、それに回すだけの余分な力はなかった。布貴の表情を見る余裕すら、今の千里はない。ひめを助け出すために、どうすればいいのか。度重なる負傷により消耗した思考能力を懸命に叩き起そうとする。
「……すみません。私がフツヅチ様を見つけられていれば、こんな事には……」
「――――え?」
千里の脳裏に、何かが閃く。
「フツヅチ様……私が、探しているもの……いえ、探している方、です……。あの方には《祓(はらい)》の力があると聞き及んでいますから……」
布貴が何かを言っているが、千里の脳にまで届かない。
代わりに、夢のような、霞んだ記憶が甦る。
『この先、汝の力では太刀打ちできん事態が発生するやもしれん。その時にはワシを呼べ。必ずや汝の力となろう。ワシの名は……』
「――――――フツ、ヅチ?」
音の連なりを声に出した瞬間、千里の内側から光が溢れ出した。体中に熱が巡り、やがてそれが胸と腹の境目に集約されていく。
「な……!?」
「これは……!?」
突然にして全く予想しなかった現象の発現に、千里も布貴も驚きの声を上げた。
内側から溶け出していきそうなほどの熱がどんどんと溜まっていき、もう限界だと千里の脳が警鐘を鳴らすより一足早く、それは光の玉となって千里の体から飛び出していった。
その光には、覚えがあった。
光玉はふよりと千里の眼前へと昇り、徐々にその形を整えていく。
千里をこの天宮界へと導いた、少女の姿に。
『遅いぞ、千里! この馬鹿者!』
第一声はそれだった。
少女は怒りを顔に刻み込み、びしっと右手の人差し指を千里の鼻先に突き出し、空いている左手は腰に添えられていた。いやに偉そうだ。言葉遣いが偉そうなのは最初からだったが。千里はその様子を、言葉なく見ていた。そんな千里を見て、少女が怒りの中に呆れを混ぜて見せた。
『おい、何を呆けておる』
「いや、何って……え? あれ? 現実?」
『……ふむ、どうしようもない程に混乱しておるようだの。まあ今まで精神世界でしか見(まみ)える事ができんかったのだから、無理もないか。しかしそれを許すような余裕はなかろう。ほれ、しゃきっとせんか!』
「いっ……!?」
そう言って、少女は千里に遠慮なしの頭突きをかましたのだった。ただでさえ満身創痍のところに追い打ちがかけられたようなものなのに、少女の頭は信じられないほど堅かった。新たに与えられた強烈な痛みに千里が呻くが、少女はそんな事は知らぬ顔で視線を布貴に移す。
『汝――名は、布貴と言うたな』
「っ、はい!」
布貴は咄嗟に姿勢を正し、少女に相対した。ここまでかちこちになっている布貴を、千里は初めて見た。
『……汝を含め、皆に迷惑を掛けたな。すまぬ』
「いいえ……貴方様のご帰還、悦びの限りであります! 先代たちも同じ気持ちでございましょう! ……ですが、この状況は一体……?」
『色々疑問はあろうが、まずはあれをどうにかせねばのう。そろそろひめの体も限界が近かろう』
「っ、なに!?」
少女に言われて顔を上げると、着物の袖からちらりと見えているひめの指先から赤い水が滴っているのが見て取れた。
『本来《巫子》でもない者が神を降ろすなど、とんだ無茶をするものだ。ひめが唯人(ただびと)であれば降ろした瞬間に肉体が粉々になっておってもおかしくない。しかしまあ……』
言っているうちに、雷撃が押し寄せて来た。しかし、千里たちが逃げの態勢を取るよりも早く、少女が突き出した右手の延長線上でそれは霧散してしまった。後には熱を持った風が通り抜けるだけだ。
千里の眼には、雷撃が見えない壁にはじかれたかのように見えた。あれほどの猛威を奮っていたはずの稲妻が、一瞬で無力化されたのだ。
『ミカヅチの力をこれほどまでに抑え込むとは……なかなかやりおるではないか。都への被害は格段に減っておるだろう。まずまずと言ったところかの』
「御託はいい! どうにかできるのか!?」
『さっきまでへばっておったくせに、まるで水を得た魚だのう。――できるとも。それには汝の力を借りねばならんが』
「何だってやる!」
『言うと思ったわ。どれ、力は落ちるだろうがその刀を使うか』
そう言うと、少女はふわりと空気の中を及び、千里が腰に下げていた刀へと手を伸ばす。小さな手が触れた瞬間、少女は光となり、光は刀へと溶けていった。
千里と布貴が言葉なく見守る中、光を受けた刀はひとりでに鞘から抜け出し、千里の眼前まで浮かび上がる。
『手に取れ、千里』
抜き身の刀から聞こえた声は、紛れもなくあの少女のものだった。千里は促されるまま、その柄を握り締める。瞬間、どくりと、まるで生き物かのように刀が脈打ったような気がした。
『これでひめを斬れ』
「――――――は?」
信じがたい言葉が耳に届いた。
千里は刀を凝視する。
『何でもするのだろう? ならばひめを斬るのだ、千里』
「なっ、……ふざけるな! 俺はひめを助けたいんだ! なんでそのひめを斬らなきゃならないんだよ!?」
『しかしひめを救う手段はそれしかない。斬らずに事を収める事はできんぞ。汝が斬らねばどうなるか……それがわからぬほど、想像力貧困ではなかろう』
「っ!!」
ひめを見る。血の流れはすでに腕のみではなく、ひめの愛らしい顔にまで生まれている。ひめでなければ神を降ろした瞬間に体が粉々になっていただろう。先程の少女の言葉が聴覚にこびりついたように繰り返される。
また、都にいるだろう知人たちの顔も浮かぶ。奈津、慧斗を始めとする鳴上神社の面々、団子屋の店主。活気ある町で働き、笑顔を浮かべ、生きている人々……。そして、そこにいる布貴も。
このままではひめだけでなく、全員に危害が及ぶ。それを見過ごしていいのかといえば、当然否だ。
――でも、ひめを斬るなんて……!
誰よりも、何よりも守りたいと思ってきた存在だ。千里が戦うのはいつだって何より彼女を守るためだった。そんなたった一人の命と、大勢の人の命。双方を天秤に掛けろと言われて、すぐさま答えを出せるほどに理性的にも、感情的にも、千里はなれない。
わからなくなる。
何が正しいのか。どうすれば正しいのか……。
「――千里をいじめている暇はございませんでしょう、フツヅチ様」
斜め下から布貴の声が届き、ぐるぐると廻り始めてた思考の渦を断ち切る。緊迫した中にも呆れを含まれたような声だった。
『むう、そうであった』
「千里、心配無用です。その刀でひめさんが傷つく事はありません」
「え……?」
布貴の言に、千里はぽかんとした顔を見せる。
「フツヅチ様が宿った刀であれば、斬りたいものだけを斬る事ができる。裏を返せば、斬りたくないものは絶対に斬れません」
「……そう、なのか?」
「はい。……難しい事は必要ありません。ただ、強く願ってください。ひめさんの無事を」
『ついでに、他の者たちの無事もな』
千里の手にあるのは、刀。紛れもなく、人を傷つけるための道具。殺すための道具。いくら不思議な力が宿ったところで、振るった先に立つ者を斬らないなどと、そのような奇跡を起こし得るものなのだろうか。これまで散々千里をからかって面白がっていた様子の不可思議な少女はともかく、布貴の真剣な表情を疑うつもりはない。しかし、そういった現象に免疫があまりない千里には、目の前で実演でもしてもらわなければ迷いなく信じる事が難しい。
相変わらずひめから稲妻が放たれているが、その全てはもはや千里たちに届いてはいない。これは、フツヅチと名乗る少女の仕業なのだろうか。
ぴしり、と耳障りな音をさせて、ひめの頬に一筋の傷が走った。ざわり、と千里の心が逆立つ。
発想を変える。免疫がないのだからこそ、あれこれと考える事は無意味なのかもしれない、と。
考えたところで、千里にはわからないのだから。
「……フツヅチ、とか言ったな、お前。一つだけ答えろ。――ひめは、助かるんだな?」
『助かる』
即答。そして断言。その声には、不思議な力が込められているようにも感じられた。
千里の腹も決まる。千里の内に常にある炎。先程まで勢いが落ちていたそれが、再び燃え盛る。
「もしひめになんかあった時は、お前の事へし折るからな!」
「せ、千里!?」
『……っく、あっはははは! へし折るとな! そのような事を人間に言われたのは初めてだ! 面白い! いいだろう、好きにせい!』
それはあり得ないという余裕からなのか、それとも別の理由があるのか、千里にはわからない。そもそも布貴の言通り、ただ刀に宿っただけなのであれば、その刀をへし折ったところで少女は痛くも痒くもないのかもしれない。それでも、そうとでも言わなければ踏ん切りがつかなかった。
改めてひめを見つめる。神が降りている証である金の瞳が千里を射抜く。しかしその奥で、ひめが千里の名を呼んでいるような気がする。
千里を求めて、その手を伸ばしている姿が見える。それは着物姿のひめではなく、あの日、あの時、千里の目の前で連れ去られようとしていたひめの姿だった。
――その手を取るために、ここへ来たんだ。
ぐっと柄を握る手に力を込め、構え。
そして、強く大地を蹴り飛ばす。右足が痛む。しかし千里は顧みない。脚がなくなったわけではない。痛いだけだ。ならば耐えればいい。
ひめの体に入り込んだ異物が千里を射抜く。金色に輝く瞳は、ただそこにあるだけで途方もない威圧感を放っている。千里の背中をぞわぞわしたものが走り抜ける。しかし、それは千里の足を止めるまでには至らない。
ひめの傍らで、光が爆ぜた。
『薙ぎ払え、千里!』
今は刀に宿る不思議な少女に促されるまま、正面から襲ってきた雷撃を刀で斬り払う。激しい衝突の音が響き、次いで破裂するような音がした。刀を振り切った時には、雷撃の影すら残ってはいなかった。
千里は駆ける。脳裏には布貴が、奈津が、慧斗が、鳴神の人たちが、団子屋の店主が次々と浮かび、消える。
――守りたい。みんなの暮らす世界を……生きる場所を!
――そして……
続いてもう一撃、稲妻が襲い掛かる。狙いが脚元だと即座に気付き、千里は跳躍する事でその攻撃をかわした。
ひめの顔が千里を追いかけて動く。
――ひめ……!
金色に侵食された眼から溢れる涙が風に散る。時間の経過とともに増える傷口から血が滴る。しかし、悲哀も苦痛もその表情には出ていない。今、ひめの表面にいるのはひめではない別のもの。
だが、眼前まで迫った千里へと、その両手がゆるりと伸ばされた。
何度も伸ばされた手。取れなかった手。
取り戻すと、誓ったもの。
「っあああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!!」
千里は気勢の声とともに、ひめに向かって、刀を振り下ろした。
× × ×
風が優しくなった。
ひめは空を見上げていた。残念ながら青い空などではなく、夜の帳に散りばめられた小さな宝石たちが輝いている、そんな空だ。
とても綺麗で、穏やかな空の姿だ。
雷雲が立ち込めていたとは、とても思えない。
ふと、どうして雷雲などというものが頭を過ぎったのかがわからなかった。そもそも、何故自分が空を見上げているのかがわからなかった。背中には冷たい地面の感触。どうやら横たわっているらしいが、どうしてそうなったのかもわからなかった。
何もわからず、ただぼんやりとしていた。
そうっと、横から伸びたぬくもりが、ひめの頬に触れた。よく知っているものだ。
ひめはのろりとわずかに首を動かし、見た。
「……せん、ちゃ……?」
そこにいる幼馴染の姿に、名前を呼んだ。声は掠れていたが、彼にはきっとわかっただろう。
しかし不思議な光景だった。
彼は泣いていた。ひめを見下ろして、瞳を潤ませて、ぼろぼろと。
彼の泣いているところを、久しぶりに見た。最後に泣いていたのは、怖い顔の男たちにぼこぼこにされた小学生の頃の事。あの時もやっぱりひめもわんわん泣いていたものだが。以来彼は強くなり、一度も泣く事はなかった。ひめは相変わらず泣き虫のままなのに。
けれど、あの時の涙とは、どこか違うように見える。痛みによる涙じゃない。もちろん、痛みもあるだろうけど。
もっと優しい。もっとあたたかい。嬉しくなるような。笑顔が思わずこみ上げるような。そんな涙。
その涙があまりに綺麗で。空の星なんて目じゃないくらい綺麗に思えて。ひめは重たい腕をそろっと持ち上げた。けれど、腕に鋭い痛みが走り、上がりきらない。
気付いた千里が、その手を取った。あまり力のない手だし、いつもより小さいような気もするけれど、そのぬくもりは間違いなく千里の手だった。
――そっか……あたし、戻ってこれたんだ……
千里から離れ、呪文めいた言葉を唱えた後からの記憶が思い出せない。
ひめの中に残っているのは、壮絶な痛みと、圧倒的な恐怖と、わずかなあたたかさ。
千里はまた傷を増やしているように見える。ひめは宿した神を抑えきれなかったのだろう。
それでも、戻ってきた。
千里の手のぬくもりが、じんわりとひめの全身に伝っていく。どこか夢うつつだったひめの意識を、はっきりと現実に連れ戻す。
あまり力の入らない指で、きゅっとその手を握り返す。すると、千里の手がさらにぎゅうっと力を込めて来た。
今、確かに千里の手を握っているのだと、実感が湧き上がる。
「……や……っと、とどい、た……」
嬉しくて、言葉が出た。
何度も何度も伸ばして、その度に届かなかったり、引き離されたり、自分から離したりもして、それでも伸ばし続けていた、手。求めていた、千里の手。
千里は少しだけ目を丸くすると、すぐにふっと笑った。
「ああ……届いた。やっと」
千里が無事で、千里が笑ってくれて、千里のあたたかい手に触れられる。
その幸せだけが、ひめの全てを満たしていった。