TopText姫とナイトとウィザードと ~ナイトの章~

第1話 黒い獣と謎の少女
04 謎の少女



 動けずにいる俺の目の前で振り上げられた大きく太い腕が、俺めがけて振り下ろされる――
 ということは、なかった。
 《それ》がぐらりと斜め前へと傾いて、俺を避けるように倒れ伏した。……俺にぶつからなかったのはただの偶然だろうけど。
 なんで突然倒れたのか、俺にはわからなかった。でかい太鼓のように大きな音を打ち鳴らしている心臓の音を聞きながら、そろそろとぎこちない動きで緯線を動かす。視界の中に、《それ》から氷……というか、氷柱のようなものが突き出ているのが見えた。星も月もない夜の中、それは街灯の光を受けてきらきらとした輝きを溢していた。
 ……氷柱? なんで?
 たしかに、もうずいぶん外気は冷え込んできているけど。この地域は初雪もまだだ。氷柱なんてできるわけがないし、たとえ雪が降っていたとしても雪国でも雪山でもないこんな住宅街で氷柱を見ることはない。しかも、俺の腕より太くて長いものなんて。これじゃ氷柱なんて可愛いもんじゃない、凶器だ。
 こんなもの、いったいどこから……。
 考えようとするが、なにが起こったのかもいまいち理解できていない、突然降って湧いたわけのわからない恐怖のせいで少々麻痺を起こしている思考能力じゃ、たいした考えは浮かびようがない。
 そうして立ち尽くしているうちに、キィ、と聞き慣れた金属質な音が耳に飛び込む。これは、自転車のブレーキの音だ。
 視線を再び前方へと向ける。
 そこにいたのは、一人の女だった。
 キャスケットを深くかぶっているせいで顔はよくわからないが、キャスケットに収まっていない横の髪が肩ぐらいまであって、男にしては小さすぎて細っこくて、だから相手が女だとわかった。厚手の上着、細めのジーンズに履き古したようなスニーカー。服装に特別不自然なところは見えなくて、女がまたがっている自転車もごくごく普通のものだった。
 普通だ。
 その右手に、ゲームや漫画なんかに出てくる魔法を使うようなキャラクターが持っていそうな杖みたいなものを、握っていなければ。
 俺はしばし呆然と相手を見ていた。相手は相手で口をぱっかり開いたまま動かなかった。
 やがて、

「きゃー!?」
「わー!?」

 相手のほうが取り乱して大声を上げた。つられて俺も叫んだ。女は自転車にまたがったまま俺を見て、声を震わせた。

「ちょ、な、なななな、なん、なんで!? なんでここにいるの!?」
「なんでって……帰り道だよ!」
「帰り!? 遅っ! もうすぐ九時だよ! 不健康だよ! 不良だよ!」
「ちょ、なんでそこまで言われなきゃなんねーんだ!? 部活だ、部活! 不可抗力! 不良じゃねーっつの!」

 反射的に答えてから、部活は七時前に終わっていたのだからこんな時間になってしまったのは俺(と、真嶋と御端)の勝手だということに気づいた。まあ、訂正するほどのことでもないだろうから即座に忘れることにする。
 それより、目の前の女のほうが重要課題だ。
 女はキャスケットの下で驚愕の表情を浮かべ、次いで憎々しげに言い放つ。

「マジでか!? もうすぐ十一月半分過ぎたよ!? 大会も終わってるはずでしょ!? もうシーズンオフなんでしょ!? どんだけやる気!? ちくしょーなんなの野球部!」

 ……ん? あれ、俺野球部って言ったっけ?
 疑問が過ぎるが、それを振り払うように頭を軽く振った。
 それはとりあえずどうでもいい。とりあえず。そんな些細な引っかかりは後回しだ。

「なんでもいいけど、とにかく説明を要求するぞ! お前は誰だ! その杖みたいなもんはなんだ! そして《これ》は一体なん、……」

 視線を前方の女から、倒れている《なにか》に向けた。
 そこにはなにもなかった。
 言葉が中途半端になり、俺は十秒ほど無言のまま《なにか》が倒れていたはずの場所を眺めた。目をこすって再確認もしてみたが、そこにはやっぱりなにもない。

「……あれ?」

 いやいやいや、おかしいだろ。おかしいってば。あの黒い狼もどきはちゃんと音をたててそこに倒れたはずだ。俺はそれをしっかりこの目で見ていたのだ。それともなにか、俺はやっぱり夢を見ていたのか。
 視線を前方の正体不明の女に向け直す。女は困り果てた様子で「あー」と呻き、左手で顔を覆っていて、右手にはファンタジーなフィクションに出てきそうな杖が握られている。やっぱりある。
 もしさっきのが夢なのだとしたら、今のこの状態すら夢の中のはずだ。だってあんな杖、ありえるのか? 足腰が弱いひとが使うようなものとはまったく違うぞ。

「……いや、まあ、見られたもんはしょーがないよね、うん」

 女は勝手に納得し、自転車を道の端に置いて、歩いて俺に近づいてきた。俺のほうは自転車に乗ったまま、眼前に立った女に気圧されるように背筋をそらせた。女は俺の様子なんぞ気にした様子はなく、ただ俺の顔を見上げてきた。キャスケットが作る影のせいで、顔はやっぱりよく見えないが。

「怪我はない?」
「あ、ああ……」
「そう、よかった。私、怪我を治すことはできないから」

 自転車に乗ったままというのが居心地悪くて、とりあえずのそのそと自転車から降りながら返事をする。
 降りてみてはっきりわかったが、その女の背は俺より低かった。……認めたくないけど、俺はあんまり背が高いほうじゃない。女はその俺より小さい。小さい、という第一印象は間違っていなかったわけだ。百五十……はあっても百六十はないだろうか。まあ、男女で身長差がある程度存在するのは当たり前なんだけど……。
 そんなことを考えている俺のすぐ傍で、女は安堵したように頷いて、続けた。

「傷がないなら問題ないね。暗示かけてあげる」
「……は?」
「巻き込まれたくないでしょう?」

 キャスケットの影から覗く二つの目が、まっすぐ俺を見上げた。俺の返事を待たずに、女は俺に向かってその手の杖を掲げる。いや、だから、それがなんなのか、アンタはどこの誰なのか、さっきの狼のようで狼じゃないあれはなんだったのか。
 ……聞きたいことは山ほどあるってのに、女はなに一つ答える気はなさそうだ。問答無用、有無を言わさない、ってのは、こういうときに使うのだろうか。
 混乱する頭で考える。
 暗示って、つまりあれか。今見たことを忘れろとか、今見たものは夢だとか、そういうベタな方向か。そういうのって効果あんのかな。実際に見たこともやったこともやられたこともないし、よくわかんねーな。
 巻き込まれたくないだろうってのは、どういうことだろう。どういう事態にかかっているのだろうか。とにかく、不穏な言葉には違いない。たしかにさっき俺の目の前で起きた出来事はおかしい。おかしいところがありすぎて、どっからツッコミ入れりゃいいのかもわからない。このままだと、そのおかしいことに俺が組み込まれてしまうというのだろうか。……そんなのはたしかにごめんだ。当然だろ? 誰だって自分の身が可愛いさ。
 なのに……なんでだ?
 女の言葉に肯定を返すことができない。頭の中でがんがんとなにかが音をたてている。思考が一つもまとまらない。
 その中で、たった一つ、浮かぶこと。
 今、ここで、こいつの言うことに頷いちゃいけない気がする。その想いだけが、今俺を駆り立てようとする。

「ちょ、ちょっと待てって! お前、……」
「意見は聞きませーん。大丈夫大丈夫、怖いことなんてないからさ」

 女を止めようと口に出した言葉を、途中で切った。それは女に遮られたからじゃない。
 女の向こう側の街灯が、闇に食い潰されるのを見たからだ。
 それがなんなのか、考えることはなかった。考える余裕なんてものはなかったし、その必要もなかった。
 驚愕から目を大きく開き、短く息を吸い込み、唇が震えた。

「っ、後ろ!」
「えっ、!!」

 俺の声に女が後ろを振り返ったときには、もう遅かった。



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