第1話 黒い獣と謎の少女
05 覚醒
気がつくと俺は民家の塀に背中から衝突していた。コンクリートの壁は硬くて、叩きつけられた衝撃で肺が圧迫され、一瞬呼吸の仕方を忘れた。盛大に咳込んでからどうにか呼吸を取り戻すと、俺が立っていたはずの場所にはあの黒い獣がいて、そのでかい手に潰されそうになっている女がいた。
「ぐっ……く、このっ、……馬鹿力っ……!」
女の体は地面に倒れていて、胸の上に杖を載せている。黒い獣の前足は、杖の数ミリ上で留まっているように見える。ただし、その太く鋭い爪は女の体に食い込み、傷つけている。特に右腕は、爪が完全に貫通しているように見えた。
ぐぐぐ、と黒い獣が腕に体重を乗せる。女は厳しい顔つきでそれに対抗する。《目に見えないなにか》が邪魔をしているみたいに、黒い獣は女を押し潰すまでには至っていない。
女が被っていたキャスケットは襲われた衝撃で飛んでしまったらしく、隠されていた顔が見えるようになっていた。その顔に見覚えはないが、年齢は俺とあまり変わらないように見える。
女が瞳だけを動かして俺を見た。
「っ……なにしてんの!」
「え……」
「逃げて!」
それは、これ以上ないほど、正しい指示だった。
女を襲っている黒い獣は、さっき俺を襲おうとしたやつと同種のものに見える。人間の倍以上のでかさがある体に、狼みたいな顔。よく見たらその輪郭はまるで燃え盛る火のように揺らめいていた。
現状を考えて、あの女はおそらく俺には理解できない不思議な力が使えるのだろう。そうとしか考えられない。だから今、潰されずになんとか持ちこたえていられるのだ。
そこに、特別な力なんてなんにもない、ただの高校生が入り込んだら?
答えは簡単。やられておしまいだ。
だから、《逃げろ》って言う女の指示は正しい。なにも間違っちゃいない。死にたくなければ逃げるしかないんだ。あの黒い獣は意識をあの女にだけ向けているから、今ならきっと、逃げ切れる。
「っ……」
ぎり、と奥歯が鳴った。
ずるりと手のひらが地面を滑り、その指先が硬く冷たいものに触れた。自転車だ。少々形が歪んで崩れているが、俺の自転車がそこに倒れていた。黒い獣が飛びついてきた衝撃で吹っ飛んだせいだろう。
動こうとして、体が震えていることに気づいた。手も、足も、体全部が情けないくらい震えている。歯も上下でぶつかり合って、かちかちと小さく音を立てている。武者震い、だったらかっこよかったのかもしれないが、これは単純な恐怖によるものだ。危険が目の前に迫っている。それを理解した理性が本能と一緒になって恐怖を訴えているのだ。
恐怖の源に目を向ける。でかい図体の、闇そのもののような獣。鋭い牙を並べた口を開き、そこからあふれる呼気は白く染まり、こぼれた唾液が女の顔を汚した。
女の顔が歪んだ。そこにあるのが嫌悪か苦痛かは、俺にはわからない。
アスファルトの上にどろりとした水溜りのようなものが広がっていく。
……血だ。
そりゃ、女は怪我を負っているんだから、血が出るのは当然だ。しかも、あんな太い爪が右腕を貫通して、地面に縫い付けられる形になってるんだ。流れる血の量も半端じゃないだろう。想像もできないが、相当痛いはずだ。
それは、俺をかばった結果だ。他人をかばって自分が大怪我する。そんなん、馬鹿のすることだろ。
女は俺に「逃げろ」と言った。それは《正しい》。
……けど、《正しいこと》が《最善》だって、誰が決めたんだ……?
目を閉じて、息を大きく吸い込んで、ぐっと恐怖ごと飲み込んだ。一瞬、体の震えが止まった。俺は素早く立ち上がり、飛びつくように自転車を掴み、背中と左ひじから感じるちりっとした痛みを無視して、その自転車を持ちあげた。
「く、ぉんのぉ!!」
精一杯の力で投げつけると、自転車は黒い獣の肩にぶつかった。獣の視線が俺に向く。意識が俺に向かう。ごくん、と急激な緊張から口内の唾液を飲み込んだ。
女は生じた一瞬の隙を見逃さなかった。
「っ、《ザキ・クレスタ》!」
その声に呼応するように鋭い氷の刃がどこからか現れ、黒い獣の体を飾るように突き刺さった。黒い獣が驚いたように悲鳴を上げて体を引いて数歩分退き、必然的にその鋭い爪から女を解放することになった。その隙に女は這いずるように獣の下から抜けだそうとする。が、怪我のせいかその動きは決して素早いとは言えない。見ていられなくて、傍に駆け寄って半ば引きずるみたいに獣の下から助け出した。そのまま、黒い獣と距離を取る。
女が歪んだ顔で、俺の顔を見上げてきた。
「っ、……馬鹿じゃないの……逃げてって言ったじゃん……」
「うっせーよ……怪我してる女一人残してなんていけるかっつの」
「……馬鹿だ」
「馬鹿で結構だ! んなことよりお前、大丈夫か……?」
聞いてはみたけど、「大丈夫か」なんて聞く意味はないような気がした。獣の爪から解放された右腕からは今もだらだらと血が流れ出ていて、見ているとこっちまで痛いような気がしてくる。左肩も爪の餌食になっていたようで、服が裂け赤く染まっている。
上着を引きちぎって止血とかしてみるか、でもやり方詳しくは知らねーしな、とか考えていると、女が再び口を開いた。
「……今からでも遅くないから、逃げて」
「できるか!」
女はなおも「逃げろ」と言う。少しだけ体に震えが戻ってきたが、俺の口は俺の気持ちのまま動いた。
女は俺の問いかけに一切答えない。答える気がない。自分の言いたいこと言うだけで、俺の言葉なんて聞きやしない。
なら、俺だって聞いてやらない。やりたいようにやってやる。
「目の前で俺かばって怪我したやつがいるってのに、それを放っていけるわけねーだろ!」
「……馬鹿だ」
女の顔が、くしゃりと泣きそうに歪んだ。言ってることは可愛くねーけど……なんか、その顔見たら……「絶対助けてやんねーと」って、余計に強く思った。
とにかく、ここにいたって事態は好転しない。まずはあの黒い獣から離れねーと。
女の腕を肩に回し、立ち上がろうとする。俺の次の行動を察して、女が力なく言う。
「無駄だよ……人間の足じゃ、すぐあいつに追いつかれる」
「……戦って倒すしかねーってか……」
たしかに、あの巨体だ。一歩のでかさも半端じゃないだろう。走ったところで一瞬で追いつかれる可能性が高い。自転車ならまだ逃げ切れる可能性があるかもしれないが、あいにく俺の自転車はヤツに投げつけちまったし、女が乗っていた自転車は、まだ無事ではあるが、それを手に入れようと思うとヤツの横を通り抜けなきゃならない。
黒い獣がこっちを見た。動物の感情なんて生まれてこのかた理解できたためしがないし、普通わかるはずもないのに、とてつもなく怒っているように見えた。腕に刺さっていた氷の刃がずぶずぶとヤツの体内に飲み込まれていく。
……一刻の猶予もねーってか。
「……どうすりゃいい」
「へ……?」
「弱点とか、なんかねーのか、アレ」
「……え、まあ、ある、けど」
「はやく教えろ」
女の体を放し、その右手から杖を奪い取る。それ以外に武器にできそうなものが、手近にない。
俺は立ちあがって、女をかばうように前に出る。震える足は、左の拳を叩きつけて強制的に抑え込んだ。
「ちょ、……」
「……あんま動くな。痛いだろ、それ」
「…………」
押し黙ったのは、図星だから、か。
ずん、と黒い獣がこっちに向かって一歩踏み出してきた。俺は杖を剣に見立てて握り、その先端を獣に向けた。剣なんて、中学の体育の授業で剣道やったくらいだけど、まあ経験がまったくのゼロよりかはマシだろ。
「で、弱点は?」
「……頭、か……胸の、真ん中。そこに一定以上のダメージを与えられたら、勝てる」
回答を聞き、改めて黒い獣を見た。
……胸でも俺の頭より高い位置にありそうなんですけど。届くかな……。しかも一定以上の一定って、どのくらいを指すんだ。
でも、やるしかねぇ。やるしかねーんだ。
ぐっと杖を握る右手に力が篭った。手が震えている。……武者震い、これは武者震いだ。そうだろ、俺。
「……井澄くん」
「なんだ!?」
うわ、声裏返った! マジカッコ悪ぃ!
俺の情けない反応に気づいていないのか、気にしていないのか、女は続けた。
「……武器なら、他にもある、けど……」
「へ!?」
予想外の言葉に、思わず背後を振り返る。女は気まずそうに俺から顔を逸らしていた。
「……ごめん、今のなし。それを渡したら、君を完全に巻き込むことになっちゃうから。……それ、返して。やっぱり私がやるよ。だから君は早く逃げて」
「…………」
女が再び俺を見て、俺に左手を差し出してきた。杖を渡せ、ということだ。
俺は首を動かして、眼前の黒い獣を見た。隙だらけなはずの俺に飛び掛ってこないことが気味悪い。その見た目からして気味悪いってのに、その姿がどうやって俺たちをいたぶろうかと考えているようにも思えて、余計気味が悪い。
俺は大きく息を吸い込んで、冷たい空気で肺をいっぱいにして、盛大に吐き出した。
肩越しに、女を見て、答える。
「わかった。……巻き込んでくれ!」
女は呆然とした表情を俺に向けた。俺の答えが相当意外だったんだろう。
そりゃ、こんなわけのわからないことに巻き込まれるなんてごめんだ。その気持ちは否定しない。今この場を逃げだせば、逃げ切れれば、そうして夢ってことにしてしまえば、このふざけた出来事に関わらなくてすむのかもしれない。その時は、それでいいかもしれない。けど、あとで絶対考えるんだ。あれは本当に夢だったのか、あの時の女はあれからどうしたのか、どうなったのか……。考えてるうちにきっと、俺をかばって怪我をした女を見捨てて逃げ出した自分を、許せなくなる。
巻き込まれるのも嫌だけど、そんな気持ちの悪い、出口のなさそうな後悔に纏わりつかれるのはもっとごめんだ。
「……馬鹿」
「お前、それ何回目、……!?」
俺が言い返そうとすると、女は傷を負っているとは思えない素早さで立ち上がり、俺の体に体当たりをかましてきた。俺は再び道の端に投げ出されたが、今度はどうにか塀への激突は避けた。
なにかが潰れるような、嫌な音がした。
顔を上げると、さっきまで俺が立っていた場所には黒い獣がいて、その大きな手が女の右足を捉えていた。血が流れる様子はないけど、女の顔が辛そうにゆがんでいる。
「っ、おい!?」
また、かばわれた。
前方にあいつがいるって、いつ襲ってくるかわかんねーって、ちゃんとわかってたはずなのに。ちゃんと意識してたはずなのに。また、助けられた。
自分の情けなさに泣きたくなってくる。
泣いてる場合じゃないのは重々承知してる。でも、この感情をコントロールする方法がわからない。知っているなら、頼むから誰か教えてくれ。
涙ぐみ始めた目を女と獣から逸らせずにいると、ぐっと女が左腕を動かした。その手にはいつの間にか、俺の手から奪い返されていた杖。杖の頭が、俺に向けられる。
鋭く瞬く女の瞳が、俺をまっすぐにとらえていた。
「……"眠る魂よ"」
「っ!?」
女の声が不思議に反響すると同時に、どくん、と心臓が大きく鳴った。体中に血が巡る感覚が湧き上がってくる。
「"忘れえぬ誓い、置き去りの約束、その強き願いを具現せん"」
頭から足の先まで熱が充満していくような気がする。心臓の音が頭の中にまで響く。その奥で、なにかがなにかを囁いているような気がしたけれど、心臓の音がうるさくて、ちっとも聞き取れない。
なんだ……なんて、言ってるんだ、なあ。
「……起きろ、《ナイト》!」
――どん、と大きな音がした。
体の奥が鳴いた。
強い光に包まれて、自分の指先さえ見えなくなった。けれど恐怖は微塵もない。その光は熱くもなく、もちろん冷たいわけもなく、ただ俺を導く。
光が消える頃、俺の手には一振りの剣が握られていた。剣道で使う竹刀とか、木刀なんてものでもない。西洋の中世で使われていたような、あるいはファンタジーフィクションに出てくるような、剣。そんなもの、初めて握るはずなのに、まるでずっと以前から扱っていたように俺の手に馴染んでいる。
軽く地面を蹴ってみた。体が浮くように跳ねる。なんだろう、体がめちゃくちゃ軽い。
前方の黒い獣を見る。その片手はいまだに女の足をおさえているが、顔は完全にこっちを向いている。
あんなに恐怖心を掻き立てるような、見るからに凶暴そうな姿をしているのに、今は欠片ほども恐いとは思えない。
なぜだろう。確信できた。
――俺は、こいつに勝てる。
剣の存在を確かめるように、手の力をいったん緩め、再度握り直す。
そして、黒い獣に向かって、思い切り地面を蹴った。