第1話 黒い獣と謎の少女
06 後悔
傷を負った少女は、その光景をただじっと眺めていた。より正確に言えば、目が離せなかった。
少女に圧し掛かっていた《敵》は少女の脇に音を伴って倒れ、徐々にその存在を黒い煙へと変化させていき、やがて完全に存在しないものとなった。その光景を見届ける度に湧き上がる感傷をやり過ごし、一つ息を吐き出した。
地面に倒れている少年へと視線を移動させた。
一刀両断。
少年が見せたものは、そう表現するにふさわしい光景だった。
少年は軽く地面を蹴り、《敵》の頭上へ跳び上がり、振り上げた剣を振り下ろした。そこに込められていたのは、無意識ゆえの全力。その一連の行動こそが、少年の内に秘められてきた《力》だ。
剣の出現は予想の範囲内だったが、少年が見せた異常なほどの跳躍力には思わず目を剥いてしまった。しかし、よくよく冷静になってみれば、それは意外でもなんでもなかったのだ。
「……そりゃ、そうか。私の中に《風》の力は、ほとんどないもん、ね」
少女は意識のない少年の顔を見ながら、小さな声でたしかめるように呟いた。
少女は《魔術》なるものを操ることができる。本来ならばそれは、少女が死んでも表に出てくることはなかったはずの《力》だが、少女の内に眠っていたそれが呼び覚まされて以降は、むしろ少女の一部として馴染んでいる。
魔術には基本属性とされる属性が四つ定められている。少女はその四つの属性の魔術をすべて扱えるはずだ。……本来なら。現実として、少女がまともに扱えるのは四つのうち三つ、つまり一つの属性に関してはほとんど魔術が使えない。そのたった一つが、《風》属性だ。
まったく使えないわけではなく、風を起こす程度のことは可能だ。しかし、少女が起こした風でできることは、物体を遮ることと物体を動かすことで、攻撃性は皆無と言っていい。
その《風》はどこに行ったのか。
少女は今更のように、その答えを実感した。
少年は眠っている。疲れているのだろう。ハードな部活動の後の出来事だ。この《力》は、解放している間は平常時より体が軽いし、怪我をした際の痛みも薄い。大抵のことでは疲労を感じることもないし、傷の治りも速い。けれど、通常状態に戻った途端、どっと疲れが押し寄せてくる。少年が眠ってしまうのも無理はなかった。
少女は静かに意識を研ぎ澄ませた。少女が張ったアンテナに、新たな《敵》の気配は一つも引っかからない。今しがた、目の前で眠る少年が両断したもので今日は最後らしい。随分と都合のいい――
ふと、不快な想像が浮かぶ。
自分は遊ばれているのではないか、と。
《敵》の考えの、根本的な部分は読み取れる。しかし、細部に関しては少女にはさっぱり理解不能だ。直接顔を合わせたことも言葉を交わしたこともないのだからそれも仕方がないのだろうが、今日ばかりは《敵》の不気味さが気にかかる。
この怪我では、立ち上って普通に歩くくらいまでは今晩中になんとか回復できるかもしれないが、戦闘となると相当厳しい。それを理解しているように、一切の干渉を断った敵。良心的だ、などとは思わない。
――そんな状態のお前を攻撃してもつまらない。
そう、笑われているような気がしてきて、ものすごく不快だ。
そうである確証がなければ、そうでない確証もない。そうは思っても、腹の底が煮えるような感覚を消し去ることができない。
しばしの間、両目と閉ざして静かな呼吸だけを繰り返す。徐々に体内の熱が平常に戻っていくのを自覚し、少女は開いた目を改めて少年へと移した。
考え方を変える。たとえ遊ばれているのだとしても、今の状態においては間違いなくありがたいことだ。今襲いかかられて困るのは他でもない自分なのだ。負傷した身で他者を気遣いながら戦う余裕はない。
今は甘んじるしかない。しかし、いつか絶対その足元を掬ってやる、とまみえたことのない《敵》に向けて反撃を誓う。
少女は気持ちを切り替え、立ちあがろうと試みた。しかし、右足がぴくりとも動いてくれない。「あれ?」と思い、次いでずきずきと神経に訴えかける痛みを自覚し、足の方に目を向けてみる。血が出ている様子はないが、集中しなくても芯に響くような痛みを感じ取れる。とっさに《風》でガードしたことで、潰されるという最悪の事態は回避できたが、与えられた衝撃を完全に無効化することはできず、骨に影響を与えてしまったようだ。あの瞬間は他のことに集中していたのであまり気にしていなかったが、そういえば「みしっ」という嫌な音がしていた気がする。ヒビくらいは覚悟しなければならないだろう。こうして《力》を解放したままもう数分じっとしていれば、なんとか動かせるくらいにはなるだろうが……。
肩と腕の傷も、血はすでにほとんど止まっているが、今晩中に痛みが消えるまでの回復は難しいだろう。通常状態に戻った後のことは、想像するのも嫌なので考えないことにした。
現時点で立ち上がることを断念した少女は、どうにか這いずって少年の傍に寄った。健やかに寝息をたてている少年を遠慮なく観察する。見たところ、手をすりむいている以外は、目立つところに傷はない。しかし、服の下はわからない。背中を塀にぶつけたりしていたようだから、すりむいてはいなくても打ち身にはなっているかもしれない。
なんにしろ、少女は傷を癒す手段を持っていない。
「……なんで、やっちゃったかなぁ……」
少女は、後悔していた。
巻き込んでしまった。本人が「かまわない」と言ったとはいえ、やはりしてはいけないことだったという気がした。
たしかに、少女の体は限界が近かった。右腕と左肩の負傷、さらに右足骨折の可能性。本来なら気絶したとしてもおかしくない状態だ。更に、《敵》を倒した後の後始末という仕事が、少女には残されていた。それを考えれば、余力を残しておく必要はあった。少年を巻き込んだのは、そういう意味では非常に合理的だ。けれど、無理を押してでも、巻き込むべきではなかったのではないだろうか。
いや、巻き込むべきではなかったのだ。
なにより、巻き込みたくはなかった。それは、少女が二年もの間、ずっと胸に抱き続けた願いだったはずだ。
何故、こうなってしまったのだろう。何故よりにもって、襲撃が今、このときだったのだろう。あと数分でも違えば、こうはならなかっただろうに。
いるかもわからない運命を操る神様に罵倒を浴びせたくなる。
いったい、どこまで抱いた願いを切り裂くつもりなのだろうか。自分の願いはそんなに難しいことなのかと、世界の理不尽さにやり場のない憤りが降り積もる。
恨み言を胸の内で呟きながら、しかし、少年に重なった《彼》の姿に涙がこぼれそうになったことは誤魔化しようがない事実だった。
切なくて。懐かしくて。……嬉しくて。そう感じてしまった自分に眉を寄せながら、それでも湧き上がってきた感情を振り払うことはできなかった。
ぐっと目を閉じ、気持ちを落ち着かせてから再び目を開ける。
少年は眠っている。なにも知らない、安らかな顔だ。その顔だけ見ていると、本来の年齢より幼く見えるのが不思議だ。
今、少年は《夢》を見ているのだろう。
少年が見ているだろう《夢》を想像して、悲しくなった。それは少年が知らなくていいことのはずだった。知らないまま、生きていけるはずだった。けれど、《彼》は《起きた》。そうなった以上、少年は《夢》を見る。きっと、あたたくて、けれど、とても悲しい《夢》を。
その《夢》の最後に、少年はなにを思うだろう。
「……後始末、しなくちゃ」
どれだけ悔んだところで、過去は変わらない。足を止めて振り返ることに意味がないことを、少女はとっくに痛感していた。
さしあたって、少女が今しなければならないことは、この場を何事もなかったかのように取り繕い、少年を家へと送り届けることだ。