TopText姫とナイトとウィザードと ~ナイトの章~

第2話 ナイトとウィザード
01 残ったもの



 視界はぼやけていた。どこか異国風の街並みだということだけ認識できたけれど、それ以上の細かいことは一切わからない。
 俺の目の前には、ひとりの女の子がいた。
 その女の子は寂しそうに笑っていた。ぼやけていて、顔はよく見えないのに。それでもどうしてだか、年に似合わない大人びた笑い方だと思った。
 笑ってほしいと思った。
 そんな寂しい笑顔じゃなくて、もっと心からの、幸せで幸せでどうしようもなくてこぼれるような、そんな笑顔を見せてほしいと思った。
 小さな手、小さな体、寂しい笑顔。
 ただひたすらにその身を守ってくれる誰かがほしいと言うのなら、俺がなってみせよう。俺が、君を守ってみせる。
 ――だから君は、どうか笑っていて。


 * * *


 気がつくと、自分の部屋のベッドの上に寝転がっていた。
 目覚めた直後は、仰向けの状態で、はっきりしない頭で、しばらくぼんやりとしていた。
 ようやくまともに思考が動き始め、まず考えたのは、「なんで俺は自分の部屋で寝ているんだろう」ということだった。本来なら疑問に思うこと自体おかしいことなんだろうが……昨晩、無事に帰宅したという記憶がどうにもすっぽり抜け落ちている。というか、まったくない。
 次に、「あれは夢だったのだろうか」と考えた。寝て、目覚めてみれば、あんなにリアルに感じていた出来事もどこか遠い世界のことのように思えた。
 もぞもぞ動いてうつぶせになり、枕元の目覚まし時計に目を向ける。いつもより二十分ほど早い朝だ。まだ寝ていたいとも思うが、二度寝なんてしたら遅刻確定。監督に怒られる。……それは嫌だ。監督に頭ぐりぐりされるとすっげー痛んだよ。
 高校生になって、初めて覚えた「休みたい」という気持ちにフタをするように、のそりと体を起こす。
 重い。だるい。マジで休みたい。でも練習を休むのは嫌だ。
 ……大概、野球馬鹿だな、俺も。
 苦笑して、気分を切り替えるために精一杯伸びをした。残念ながら全然すっきりしなかったが。

「……シャワーでも浴びるか」

 少しくらいすっきりするかもしれない。……昨日の晩、風呂入った記憶ねーしな。
 ベッドを降りてから、ベッド脇にスニーカーが揃えてあることに気づいた。五秒くらいそれをじっと眺めてから、軽く息を吐き出してそれを拾い上げ、部屋を出る。
 ギシギシと階段を踏み鳴らし、一階へと降りる。リビング・ダイニングにはすでに明かりが灯っている。おふくろはもう起きているんだろう。なるべく気付かれないように気を遣いながら、玄関に向かった。部屋から持ってきたスニーカーを玄関にそっと置き、それから風呂へ向かう。
 洗面所に入って鏡に映る自分の姿を見て、今更ながら制服を着ていることに気づく。……制服を着たまま寝ていたわけだ。上着は結構頑丈な生地だから問題ないけど、その下のシャツはちょっとしわしわしてる。……ま、いっか。普段からピシッと整えてるわけじゃねーし。
 それを脱ごうとして、両手に残っている擦り傷に気付く。

「…………」

 観察してみると、赤黒いかさぶたができていて、血はしっかり止まっている。屋外で負った傷ならもっと汚れていそうなものだが、不思議なほど、ちゃんと水で洗ったみたいに綺麗な状態だ。
 制服を脱いで、それを一通り検めてみるが、多少皺になっていること以外に変わったところはない。不思議なくらい、汚れていない。
 後頭部を軽く掻いたが、それでなにが浮かぶわけもない。
 脱いだものを適当に畳んで置いておき、風呂場に踏み入る。十一月後半に突入しているこの時期、冷えきったタイルを踏みながらシャワーヘッドからお湯を引き出す。水のほうが頭の中がはっきりすっきりするような気もするけど、この季節になれば水はものすごく冷たくなる。軟な体をしているつもりはないけど、うっかり風邪をひくのはいただけない。

「っ……」

 背中にお湯が染みた。でも、耐えきれないほどじゃない。いくらかぴりぴりする程度だ。多分、両手みたいに多少擦り傷ができているんだろう。色も、青くなったり黒くなったりしているかもしれない。わざわざ無理して背中を確認するつもりもないが。
 それなりにさっぱりして、脱いだ制服を再び着込む。多少汗のにおいがするが、夏に比べれば断然マシだ。
 リビングに入ると、台所に立っているおふくろの姿が視界に入った。おふくろは俺に気付いて、手を止めて顔を見せてくる。

「おはよ、孝弘」
「おはよ」

 朝の挨拶だけして、また作業に戻る。律儀な母親だ。

「なぁ、おふくろ」
「んー?」
「俺、昨日何時頃帰ってきた?」
「えぇ? ちゃんと時計見てたわけじゃないけど……でも九時過ぎには帰ってきてたと思うわよ」
「牛乳、買ったと思うんだけど、ちゃんと渡した?」
「もらったわよ。ちょっとパックが潰れてたけど。あ、後でお金渡すから」
「……晩飯食ったっけ」
「食べてないわよ。すぐ寝ちゃったじゃない。お風呂も入らないで」
「へぇ……」
「なに? 寝ぼけてるの?」
「んー……」

 覚えがねーんだよ。……とは、さすがに言えないか。
 重ねまくった質問に返ってきた答えからすると、おふくろの中では俺がちゃんと玄関から帰ってきて牛乳も渡して自室に入ったことになっているらしい。自分の記憶とおふくろの記憶の食い違いに小さくため息をついた。
 とりあえず、腹減ったな。

「晩飯残ってんの?」
「残ってるわよ。食べる?」
「食う」
「じゃあ温めなくちゃね」
「そんくらい自分でするよ。冷蔵庫?」
「ええ」

 飯をあっためてる間に、一応手のひらの傷に黄色い消毒液をかけ、絆創膏をぺたぺたと貼った。そのままにしとくのも気になるし、擦れると痛そうだし、と思っての行動だったけど、すぐに後悔した。手のひらって、絆創膏が定着しにくいんだな……。すぐはがれそう。余計気になるな、こりゃ。でも、もう貼っちまったし、とりあえず完全にはがれるまでは放っておくことにする。
 昨日食わなかった晩飯を朝飯として平らげ、おふくろが用意してくれた弁当をかばんに詰め込み、いつも通りの時間に家を出た。
 自転車はガレージの前に置かれていた。いつもならガレージの中に収めるんだけどな。
 ざっと点検してみたところ、壊れているということはなさそうだった。何事もなかったかのように、元のままだ。
 五秒くらい考えてみたが、考えたところで答えが転がってくるわけもない。あきらめて自転車に乗り、学校に向かってペダルを踏んだ。
 通い慣れた道の途中で、少しだけ足を止めて、ざっと周囲を見回した。
 いつも通りだ。おかしなところはなにもない。もっとも、普段からそんなに気をつけて周囲を見ているわけじゃないから、ちょっとした変化じゃ気付かないだろうけど。とりあえず、違和感を覚えるほどの変化は存在しなかった。
 周囲に誰もいないことをいいことに遠慮なくどでかいため息をつき、再びペダルを漕いだ。
 学校に到着し、自転車置き場に自転車を置きに行く。そこには先客――御端がいて、ちょうど自転車のロックをしていた。

「はよ、御端!」
「お、おはよ、井澄くん!」

 声をかけると、御端はこっちを見てぴっと背筋を伸ばした。
 御端の自転車の隣が空いていたので、そこに俺の自転車を停め、ロックをする。その間に御端のほうはロックし終わっていたが、律儀に俺が作業を終えるのを待っていた。先に部室行けばいいのに、と思いながら、御端から寄せられる好意の空気がくすぐったくて、嫌ではなかった。
 なにせ御端は、当初はひどい対人恐怖症だったのだ。原因は中学時代のイジメだろうが、ひとに嫌われることを極端に恐れて、返す言葉は途切れ途切れで(あ、これは今もそんなに変わらないか)、おまけに目が合わない。そんな御端が、こうして誰かを待って一緒に部活へ行こうとするっていうことは、なかなかの成長だと思う。
 人間、懐かれて嫌な気分になるやつはあんまいないだろう。

「あれ……井澄くん、怪我……?」

 見ると、御端の視線は俺の両手に固定されていた。手のひらの傷自体は大して見えていないが、絆創膏の端が横にはみ出している。

「ん? ああ。ちょっとな……昨日の帰り、自転車ですっ転んでさ」
「えぇ!? だ、大丈夫!?」
「へーきへーき。こんくらいなんともねーって」

 なんでお前のほうが痛くて泣きそうな顔してんだよ。
 御端の顔があんまりにも情けなくて、だから俺はなおさら笑顔で絆創膏だらけの手を振って見せた。

「ほ、ほんとに? ほんとにへーき……?」
「おう。御端、手出してみ?」
「う、うん……?」

 不思議そうに、だけど素直に両手を差し出してきた御端。俺はなに食わぬ顔でそのタコだらけの手に両手を伸ばし、ぎゅう、と力いっぱい握りしめてやった。「い!?」と御端が痛そうに声を上げ、俺は成功した悪戯に笑った。

「い、痛いよ、井澄くんっ……」
「ははっ、悪い悪い! でもほら、御端が痛がるくらいには平気で物握れるしさ」
「う、うん。よかった!」

 一転して、御端は笑顔。俺の怪我が大したことないってわかって安心したらしい。
 ……ま、ちょっとぴりぴりすっけどな。部活は体作りのメニューがメインだから、支障出るほどのもんでもないだろ。

「うっし。行くか」
「うん!」

 自転車をロックし終えたので、御端と一緒に部室を目指す。途中、ふと気になって、聞いてみた。

「なぁ、御端。昨日の帰りさ、俺と別れてから、変な音聞いたりしなかったか?」
「へ、へん、な?」
「ずしんっつーか、どしんっつーか……ええと、すっげー重たいなにかが歩くみたいなさ」
「う、んと……なかったと、思う、けど……?」

 少し自信なさげに、ふるふると首を振る御端。
 ……ま、あれは御端と分かれただいぶ後だしな。

「だよな。悪い、なんでもねぇ。気にしないで」
「う、うん……?」

 不思議そうな御端にそれ以上のフォローはしないで、俺たちは部室に入った。部室の中には真嶋や仲町もいて、一応真嶋にも御端に聞いたこととまったく同じことを聞いてみたけれど、返事は御端と大差なかった。仲町には聞かなかった。こいつは俺らとは家の方向がまったくの逆だから、聞く意味がない。
 しつこく「なんで? なんで?」と食い下がる真嶋と仲町に「うっせぇなんでもねぇっつってんだろ!」と返して、俺たちはグラウンドに駆け込んだ。体のあっちこっちが鈍い痛みを訴えてきたけど、無視できるレベルだ。
 ……残ったのは体の傷と痛みだけ、か。



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