TopText姫とナイトとウィザードと ~ナイトの章~

幕間
世界が変わる音



 少女は走っていた。
 吐息が白く存在を主張する。冷えた空気が喉に張り付き、刺激し、呼吸の邪魔をする。
 肺が痛い。そう思っても、少女は足を止めなかった。
 雪が降っていた。初雪、というやつだった。
 少女は、雪が好きだった。少女はすでに中学二年生で、もう小学生のようにはしゃいで回ることはないし、吹雪なんて論外だが、しんしんと、ゆるやかに舞い踊るように空から降りてくる、そういう光景が好きだった。ちらちらと雪が舞う日には、必ず散歩に出かけていた。
 少女の母も、少女と同じく雪が好きで、雪を理由に少女が散歩に出るときは、夜はもちろん日中であっても同行してきた。
 今日は週末ということもあり、少女の父も、「最近運動不足だから」と言ってついてきていた。
 その母と父と姿は、今はない。
 一番に異変に気が付いたのは、父だった。
 ひらひら踊る白結晶に意識を向けていた少女や母を見守るように二人の後ろをゆっくり歩いていた父が、ふいに足を止めて振り返った。それから五秒ほどして、父が立ち止っていることに気付いた母が振り返り、少女は母と一緒に数歩分引き返した。
 どうしたの? 母が尋ねた。
 音が聞こえるんだけど……なんの音だろうな。父が答えた。
 少女も母も、父の疑問に首をかしげた。そもそも二人には、父の言う音がまったく聞こえていなかった。
 その応酬の直後だった。
 今度は、少女にもわかるほどの音が低く響いた。空気を振動させて伝わってきた……というより、地面を這ってきたような音だった。
 その音が、ほぼ一定の間隔で響いてくる。足元に意識を向けると、微弱ながら震動を感じられた。
 なんだ、あれは。
 父が力のない声で呟いた。
 父の視線の先を少女が追いかけると、そこには、黒い塊がぽつりと存在していた。
 それがなにかわからず、三人でそれをじっと観察している間に、音と連動するようにそれが大きく……いや、近付いてきているのがわかった。徐々にその姿がはっきりと視認できるようになってきた。炎のようにちりちりと揺らめく輪郭。足が二本、腕が二本。そして、白く、ぎらぎらと光る、大きな歯。
 本能による危険信号が脳裡に瞬いた。逃げなければ、と思考するより先に、身をひるがえした父と母によって体を押された。
 逃げろ、と言ったのはどっちだったか。
 父と母の手に不思議な力でも宿っていたかのように、考える間もなく少女の体は前へと突き進んだ。
 ただ走った。そのために必要なもの以外の感覚をすべて遮断した。
 しかし、疲労ばかりはどうしようもなかった。もともと、少女はそれほど持久力があるほうでもなかった。だんだんと足が上がりきらなくなり、雪で地面が濡れていたこともあり、靴底が滑り足がもつれるように転倒した。
 手のひらと膝から沁みいるような痛覚が脳に届き、息苦しさから咳き込むように呼吸を繰り返し、自覚した疲労からすぐさま立ち上がることもできなかった。
 じりじりとした痛みが、少女の意識を現実に引き戻す。先ほどまではなかった涙が目じりに浮かぶ。
 父と母のことが浮かんだ。自分が走ってきた方向を振り返るが、二人の影すら見つけられない。
 少女は俯き、ただ深く荒く呼吸を繰り返した。
 二人の声に導かれるようにがむしゃらに走ってきたが、二人はどうなっただろう。どうしてここにいないのだろう。
 疑問の片隅で、逃げろ、逃げろと警鐘が鳴り響く。しかし、一度座り込んでしまった体を再び引き上げるだけの気力と体力が、少女には残っていなかった。
 じっとして、ぼんやりと、心の声で両親を呼び続けた。
 そうしているうちに、音と震動が再び少女に迫り、やがてそれがぴたりとやんだ。立ちあがるほど回復できていない少女は、肩越しに背後を振り返った。
 数メートル先に、その姿があった。
 炎のようにちりちりと揺らめく輪郭。父の倍ほどはありそうな身の丈。ぴんとたった犬のような耳。漆黒に輝く瞳。全身を覆う毛は黒一色。
 闇そのもののような獣が、そこに立ち、少女が自身を視認したことを理解したかのように、口を裂き開いて鋭い牙を覗かせた。獣の表情などわかるはずもないのに、少女にはそれが、嗜虐性溢れる笑みのように思えた。
 がんがんと頭の中で警鐘がわめき散らすが、それを上回るような得体の知れない恐怖を眼前にした少女は、もう動くことも目をそらすことも出来ず、ただ体を小刻みに震わせて見たことのない生き物を見つめた。
 獣が左腕を振り子のように振った。鋭い爪を持ったその手からなにかが放たれ、少女の真横にどしゃりと音を立てて落ちる。
 強張った首が、ぎこちなく動く。なんだろう、と思ったわけではない。今の少女に、思考を行うような精神的余裕は存在しない。獣が、まるで「見ろ」と言わんばかりに放り投げたそれに、誘われるように体が勝手に動いていた。
 右の肩から腹部にかけてをごっそり食いちぎられたように失い、左半身がどす黒い赤色に染め上げられている男。
 腹部に大きな孔を穿たれ、そこを中心にして、衣服がどす黒い染みを作り始めている、女。
 それは、父と母だ。
 苦痛のための歪みか、人相はいくから変わっているが、それは間違いなく、間違うはずもなく、少女の父と母だった。
 それを認識した途端、焦点がぶれた。体が芯から震え、奥歯が何度となくぶつかり合って耳触りの悪い音を立てる。吐息のような喘ぎが断続的にこぼれだす。視界が歪む。
 ゆらり、ゆらり、滲むような世界の中。
 生気をそぎ落とされた父と母の顔に、見知らぬはずの少年と少女の姿が重なった。

「あ、あ、あああああああぁぁぁぁあぁあぁぁあぁあああぁぁああぁぁぁぁあああぁぁ!!」

 それは悲鳴であり、咆哮だった。
 全身の熱が右手に集中していく。少女は視点を闇の獣に固定した。一瞬の後、鋭利な先端を持った氷の塊が獣に襲いかかり、十以上あるそれが獣を一切の容赦なしに貫いた。ハリネズミのように棘だらけになってしまった巨体は、頭部から後方へと体を傾げ、大きな音を立てて地面へと倒れ伏した。
 体から力が抜け、少女もまた、冷えた地面に横たわった。視線を動かし、自分の右手に握られているものを見る。見覚えがないはずのもの。けれど手に馴染む感触。
 ブラックアウトしていく中で、少女は一つだけ理解した。
 それは、当たり前にあった日常が、もう戻ってはこないということ。



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