第4話 願いと魂
03 守りたいもの
どすん、と。とても重たいものが落下してきたような音と、地面の振動を体感した。
俺の体の下には、御端と間壁が仲良く転がっている。俺が二人まとめて押し倒したんだから当然の光景だ。乱暴な行動だったと思う。手とか、擦りむいてるかもしれない。御端は投手だし、素手でボール投げたりするから手はすっごい大事だから、いつもだったら真っ先に気にかける点だ。しかし、今はそのための余裕なんてない。
「っ、てぇ……おい井澄! なにすんだ!」
間壁が怒った顔で俺を見る。俺はそれに答えず、素早く体を起こして振り返った。
まず視界に入ったのは、鋭い爪を持った脚。ふさふさに見える羽毛は、想像に違わず闇の色。くちばしの色まで黒色で、ぎょろついている大きな瞳は攻撃的にぎらついている。全体の輪郭は、《ゴル・ウルフ》同様、炎のように揺らめいている。
……こいつが、《ゴル・イーグル》……!
「な、なん、だ、ありゃ……」
間壁の声は呆然としていた。これが普通の反応だろう。十一月、初めて《ゴル・ウルフ》に遭遇してしまったときの俺も、そうだった。未知のものを目の前にしたとき、俺たちはその対応策を瞬時に考えることができず、現実を受け止めきれないでただ呆然としてしまう。
けれど、今の俺は、あの時の俺とは違う。
この《ゴル・イーグル》とかってのを見るのは初めてだが、同じく魔獣である《ゴル・ウルフ》とは何度も対峙してきているのだ。
この場で、俺ひとりが。
ばさり、と《ゴル・イーグル》の羽が広がり、風が生み出される。
「……逃げろ」
「は……?」
「立って、逃げろ! 早く!」
《ゴル・イーグル》が、大きな音と風を起こして再び上空へと舞い上がる。その視線は、俺に……いや、俺の背後に固定されたまま動かない。
「っ、くそ!」
いまだに状況を掴みきれず呆然としている間壁と御端の腕を引っ張り上げ、無理やり立たせる。俺よりでかい男と、俺とそう変わらない男、二人いっぺんだとさすがに腕の筋肉がみしみし鳴ったけど、構っているような余裕は一秒だってない。
「走るぞ!」
背中を押し、促す。その間に、《ゴル・イーグル》は再び上空から脚を突き出して急降下してきた。駆け出した数秒後、直前まで俺たち三人がいた場所に、《ゴル・イーグル》が再び派手な音とともに着陸する。一瞬遅れて硬さのある地面の破片が飛び散った。
無関係なやつがいてもお構いなしかよ、ちくしょう!
……そりゃそうだ。向こうはこれまでにも二人、城井の両親も含めれば四人、関係ないはずの人間を殺している。
向こうからしてみれば、《姫》さえ手に入れば、どれだけの人間を巻き込もうが関係ないのだ。
「間壁、御端、井澄! こっち!」
真嶋の声に振り向くと、部室棟の前で真嶋が両手を上げていた。隠れることなんてできそうにないその場所、しかも関係ないはずの部活仲間たちを巻き添えにしてしまう可能性が高い。
迷っていると、真嶋がもう一度声を張り上げた。
「城井が、ここにいろって!」
「っ!」
爆弾発言がきっちり耳を通り脳へと届いた。
どーいうことだよ、一体! いや、考えるのは後だ!
俺たちはアイコンタクトすら取ることもなく、とにかく真嶋の下へと走り抜いた。転がり込むように部室棟の前に到着する。
「城井さん、井澄くんたち来たよ!」
高坂の澄んだ高音が響く。
直後、それを追いかけてきていた《ゴル・イーグル》は、部室棟の端の延長線上で、見えない壁に衝突し、苦痛を訴えるための、耳を劈くような奇声を上げた。
なにも見えない。そこには、なにもないようにしか見えない。けれどたしかにそこが境界線となり、《ゴル・イーグル》を阻んでいる。
比喩じゃなく、そこには目に見えない壁があるのだ。
「……城井が、なんだって……?」
上がった呼吸を整えながら、真嶋に先ほどの発言の詳細を問いかける。
「なんか、城井がさ、ここならひとまず安全だって」
真嶋の視線が高坂へと向けられる。高坂は俺が放り出したケータイを握り締めて、戸惑った表情を浮かべていた。
俺はそれを放り出す際、通話終了のボタンを押さなかった。おそらく、その通話を高坂が引き継ぎ、部内で一番声量のある真嶋が俺たちに声をかけたのだ。
視線を少しずらして確認すると、野球部一同、監督もコバセンも、みんな揃っている。
みんな、とりあえず無事だ。
そのことに、ひとまず安堵の息をこぼした。
「つか、なんだあれ……? 鳥、だよな……」
「あんな種類の鳥、見たことないですけど……」
寺本が戸惑ったように呟き、国枝もやっぱり戸惑った調子で続く。それを聞いて、《ゴル・イーグル》には何か特定のモデルでもいるのだろうか、と思った。一口に鳥と言っても、種類は色々あるわけで。まあいたところで俺は《あっち》の動物事情なんざ知らないからわからないんだろうけどさ。
「それも気になるけど、どうしてあいつがここまで入って来れないのかも気になるわね……」
監督の発言に、はたと気づく。
《ゴル・イーグル》は、見えない壁の存在を確かめるように、とがったくちばしでがつんがつんとそこを叩いている。
ここにいろと言ったのは城井で。俺たちが駆け込んだ直後、高坂は城井に報告をしていた。
部室棟の前は、当然人が通れるような道になっている。道の反対側には、俺の膝程度の高さがある低木が植えられている。
俺はそこに飛びつき、部室棟の端の真正面のあたりの葉を掻き分けた。
「井澄、あぶねーぞ!」
寺本の慌てたような声を無視して、探す。
「……あった……!」
それは思った以上にあっさり見つかった。
茶色い土に半分ほど埋まっている、白い水晶。しかし、よく店頭なんかで見かけるような一般的なものじゃない。そういうのは、ほんのりとした光を放ったりはしない。
間違いない、城井の魔晶石だ。おそらく、部室棟のほうにも魔晶石がしかけられているのだろう。今俺たちを守っているのは、この魔晶石を利用した城井の魔術だ。
少し落ち着いてみれば、簡単にわかる。四方、プラス上方から。城井の気配……魔術の気配だ。俺たちがいるこの場所は、四角いバリアでも張られてるようなものなんだろう。
ふと、その色と光が徐々に、しかし確実に弱々しくなっていることに気づく。
がつん、がつんと音がする。その度に。
……消費してるんだ。城井の魔力を。
《ゴル・イーグル》がその鋭いくちばしをぶつければ、壁が損傷する。それを修復するために、《魔力》を使う。結果、魔晶石に込められた魔力はどんどん減少していく。考えてみれば当然の現象だ。
このままじゃ、そう長くはもたないだろう。
自分になにができるか、考えてみる。しかし、考えなくても答えは明白だった。この状況下で俺にできることなんて、ひとつしかないんだから。
それでも考えようとしたのは、迷っているからだ。この場で、その手段をとることに迷いを感じている。
見られたくない。
俺が俺にできることをすれば、みんなは必ず俺に奇異の視線を向けるだろう。距離を置かれるようになるかもしれない。それを想像すると、なかなか踏ん切りをつけられなかった。
「ひっ、……」
引きつった声が耳に届いた。
肩越しに振り返る。視界に映ったのは、青い顔をして、涙目になって、小動物みたいに体を震わせている姿だった。
……あーもー。このビビリめ。
苦笑した。でもってさっきまで迷っていたのが嘘みたいに腹がすわった。
たったこんだけで踏ん切りつくとか、俺も大概単純だ。真嶋や御端のこと笑えねーな。知ってたけど。
立ち上がって、そのまま壁へと手を差し出してみる。俺の手はなんの抵抗も感じず、壁の向こう側へと突き出た。こっちから出るのは簡単そうだ。
城井は俺に、「持ちこたえろ」と言った。この仕掛けを使うにしても、これだけじゃ自分がここにたどり着くまでもたないことがわかっていたんだろう。あいつならそのくらいの予想は当然のようにしてみせるはずだ。だから俺に頼んだんだ。自分が到着するまで、時間稼ぎをしろ、と。
どんな気持ちで言ったんだろう。俺がみんなに知られたくないと思ってることはわかっていただろうし。多分、相当悔しい思いをしているんじゃないかと思う。あいつ、ふざけたことも結構言うけど、本質は真面目すぎるくらい真面目なやつだから。
……後で言ってやんなきゃな。気にするな、って。
みんなを肩越しに振り返る。
「……全員、こっから前には出るなよ。あと、これ、この白い水晶みたいなの。多分他にもあるだろうけど、これには触るな。いいな?」
「……井澄?」
「俺が出て時間を稼ぐ。絶対なんとかなっから、ここでじっとしててくれ」
「井澄、なに言ってるの!?」
林田の静止の声が聞こえる。
ここを一歩出れば、もう戻れない。この壁はおそらく、俺たちが到着した直後につくられたものだ。高坂が城井に俺たちの到着を報告していたことから、そう考えられる。
出るのは自由、しかし再び入るには術を一旦解除しなきゃならないってところか。
まあいいさ。戻るつもりなんてねーからな。
「……このままじゃ、この壁、そのうち壊れちまうからな」
「だからって、君になにかできるの?」
監督から鋭い声が飛んだ。俺は体半分振り返って、監督を見る。まるで試合の時のように緊張した、真剣な雰囲気をまとった監督の視線とぶつかる。いや、試合以上だ。今ここにいる全員は、それだけで命の危機にさらされているんだから。
緊張で手が震えた。こんなことは久しぶり……多分、魔獣とのファーストコンタクト以来だろう。
それを握りつぶし、笑った。
「今この場じゃ、俺にしか、できないんです」
言って、壁へと向き直ろうとした。
「い、いすみ、くん!?」
震える声で呼ばれた。顔の向きを変えると、青い顔をした御端。その姿を見て、俺は盛大にため息をついた。御端がびくっと肩を跳ねさせる。
いや、御端が悪いんじゃねーんだけどな。むしろ、そう……無茶を言ってくれたことはともかく、この件については城井に二言、三言文句を言ってやりたい気分だ。
苦笑して、不安たっぷりの目でこっちを見る御端の前髪を、くしゃりと撫でる。御端の目が細められる。
守りたいと、思った。
かけがえのない日常。普通に学校行って、授業受けて、部活して、こいつらと笑っていられる毎日。
「……んな顔してんなよ」
「井澄くん……?」
だから、笑っててくれなきゃ、意味がない。
「絶対守ってやるから、安心しろ!」
「あう!?」
最後にデコピンを一発かますと、御端の上半身が反動で後ろに反れる。赤くなった額を押さえて痛がる御端に小さく笑って。
「あ、い、井澄くっ、」
背中を向けて。
「井澄! 馬鹿、戻れ!」
壁を飛び出す。
寺本の静止の言葉が耳に届いたが、もう振り返らない。
迷わない。
「……《アリオ》」
小さく呟いた直後、右手には馴染んだ柄の感触。
それを握り締め、目の前の鋭い爪を持った脚に対して、横に一閃。剣を振り切ったときにはすでに、《ゴル・イーグル》の左脚は本体からすっぱり切り離されていた。どしん、と音を立てて分離した脚が地面に落ち、双方の傷口から黒い煙が噴出す。
ぎらぎらした目が、初めて俺へと向けられた。ぞくりと背中が粟立つが、気後れなんてしてやらない。数歩分横に跳び、《ゴル・イーグル》と少しだけ距離を取る。
みんなの、驚愕に染まった顔が見える。
……そうなる、よな。この後の反応が、やっぱりまだ少し恐い。
けれど、俺は決めたんだ。
「……渡すわけにはいかねーんだよ、そいつ」
剣の切っ先を《ゴル・イーグル》に向ける。《ゴル・イーグル》の視線は動かない。俺に固定されたままだ。
そうだ、それでいい。
俺を排除しにきやがれ。
ただし、俺は負けない。絶対。意地でも。
「俺の、《守りたいもの》だからな」
守ってみせる。
大事なもの、全部。