第4話 願いと魂
04 鳥と剣
翼をはためかせて低空飛行していた《ゴル・イーグル》が、ばさりと一際大きな音を立てて上空へと舞い上がった。一定の高さで上昇を停止し、高みからちっぽけな俺を見下ろす。その瞳には、怒りの炎がちらついているように見えた。
俺が斬り落としたほうの足は、その間に空気に溶け込んでいった。逆に本体のほうは、傷口から流れ出る黒い煙が形を持ち、数秒のうちに新たな足が誕生する。
……なる、ほど。前に城井が《ゴル・ウルフ》について、「腕をもぎ取ってもすぐに再生してしまう」と言っていたが……こういうことか。
急所がはっきりしてるからいいけど、それを知らずに闇雲に攻撃してちゃ勝ち目はないだろうな。
上空の《ゴル・イーグル》が体勢を変えた。頭部を下げ、逆に尾部を上げる。そして、風に乗るようにとてつもないスピードで俺に向かって落ちてくる。鋭い嘴が俺の身に迫る。突き刺すつもりかと思いきや、数メートル先でその嘴が上下にでかく開いた。
食べる気か!
狼はともかく、鳥が人間を食べるという発想はなかった。しかし、そういえばワシなんかは肉食の鳥として知られている。日本の高校生にとって、ワシはあまり身近な鳥じゃないから、咄嗟には思い至らなかった。
逃げようと思えば逃げられただろう。しかし、そういうあまり意味がありそうにないことを考えているうちにその機を逃してしまった。
まあ、いいか。
目前に迫った、よだれを振りまく口から目を離さない。ひきつけ、ひきつけ、……そして、横に軽く飛びながら、下から少し斜めに剣を振り上げた。
直後、耳障りな悲鳴が空気を振るわせる。《ゴル・イーグル》の嘴の一部が地面に落ち、その傷口が目の下まで届いたのを着地しながら確認した。
頭は落とせなかったか。
本当は、この一撃で頭をぶった切りたかったんだけど。まあ、できなかったものは仕方がない。……とはいえ、ちっとまずいかも。
やつは再び空高くへ逃げ、滞空する。いくら《風》の補助があったって、体が軽くたって、あんな高さまではさすがに跳べないだろう。空に逃げられると、俺には手の出しようがない。城井が「井澄くんには厳しいかもしれない」と言っていたのは、おそらくこういうことだ。遠距離攻撃ができない俺に、飛行能力のある敵の相手は難しい。
どろりとしたものが顔の輪郭を辿るような、心地の悪い感触がした。ぐっと手の甲で拭ってみれば、赤い色が付着する。どうやらさっきの接触の際に、《ゴル・イーグル》の嘴の先がかすったらしい。痛みはないから、集中力を損なうこともないけど……これ、あんまり酷い怪我をした場合とか、逆にやばいんじゃないだろうか。気づかないうちに血を流しすぎたら失血で死ぬんじゃね?
「井澄、上!」
「っ!?」
真嶋の声に誘導され、反射的に上空を見上げる。傷がすっかり回復した《ゴル・イーグル》が、再生したばっかりの嘴をがぱっと開き、その間に黒く丸いものが浮かんでいる。
嫌な予感がした。
直後、《ゴル・イーグル》の口からその球体が俺に向かって放たれた。
やばい、と直感した。
受け止めるという選択肢を脳内から削除し、右斜め後ろに大きく跳ぶ。
球体が地面と接触し、鼓膜が破れそうなほどの大きな音と砂埃が発生した。
砂埃が視界を邪魔したのは一瞬、それはすぐさま不自然に発生した風によって散らされた。
……俺は特に呪文を唱えたりしてないはずなんだが、「邪魔だ」という思考に《風》の魔力が反応したのか。
開けた視界に映りこんだものに、ぞっとした。
グラウンドに、穴が開いていた。さっきまで俺が立っていた場所がその中心だ。つまり、それだけの威力があの球体にはあるらしい。受け止めることを選択していたら、少なくとも無傷じゃ済まなかっただろう。
ちらりと、部室棟前で避難している真嶋の姿を見る。ぎりぎり壁から出ないラインに立っていて、まるで試合中のような真剣な顔つきで俺を……いや、今眼前に広がっている状況を見ている。
真嶋がはっきりと俺を見て、声を張り上げる。
「井澄ー! ぼさっとすんなー!」
「っ、お、おう!」
その声に、慌てて体を動かす。
あの球体による攻撃は、破壊力がすさまじい。あんなのがうっかり部室棟のほうに向けられたら……城井が作ってくれた壁も、あまり意味がないだろう。抉られた地面の破片がぶつかるだけでも、壁は損傷して魔晶石に込められた魔力は消耗されていく。とにかく、あそこから離れることが先決だ。
跳んで距離を稼ぎながら、滞空中の《ゴル・イーグル》の様子を確認する。その視線は相変わらず俺ひとりに注がれていて、真嶋たちに意識を向けている様子はない。音を立てて翼を動かしながら、それ以上上昇することも下降することもない。
充分離れた、と思ったところで足を止めると、見計らったように《ゴル・イーグル》が再び唇を開き、そこに球体を生む。
……なんか、球体ってかっこつかねーな。技の名前とかなんかないのか。
球体は黒いが、その輪郭は《ゴル・イーグル》と同様に炎のようにゆらゆらと揺らめいている。
よし、ひとまずあれを《火炎黒球》と名づけよう。火炎黒球(仮)だ。正式名称があるかどうかは、あとで城井にでも聞くことにする。
そんな馬鹿なことを考えながらも、意識はそこからそらさない。《ゴル・イーグル》の口から火炎黒球(仮)が放たれると同時に、俺はその場所を離れる。しかし、相手のほうもそれを見透かしたように、俺を視線で追いかけて続々と攻撃を放った。最初の一撃に比べれば規模は小さい。その分、準備から攻撃開始までのスパンが短く、小さな火炎黒球(仮)が俺の背後を追いかける。
……このくらい小さけりゃ、いけんじゃねーか?
急ブレーキをかけると、砂埃が舞い上がる。しかしそれは瞬時に俺の周囲から離れ、俺の視界を邪魔するものはなにもない。
頭上には小さな火炎黒球(仮)が迫っていた。
素早く剣を掲げると、そこに火炎黒球(仮)が接触した。いや、正確にはそこに数ミリメートルの隙間があった。そして、剣に斬られるように、火炎黒球(仮)は真っ二つになり、俺の左右に別れ、斜め下へと落ち、地面を軽く抉る。
――いけた!
そう思った次の瞬間には、次の攻撃が迫っていた。《風》をまとっているらしい剣で、連続して襲い掛かってくる火炎黒球(仮)を切り捨てていく。
ふいに、視界の上端で《ゴル・イーグル》の嘴からカスのような弱い黒色の炎のようなものが上がったのを見た。
ピンとくる。ガス欠だ。どうやらあの火炎黒球(仮)、連続して放出するには量に限りがあるらしい。
最後の一球が落ちてくる。俺は剣を握りなおした。野球のバットでも握るように。球を見ながら立ち位置を少し右にずらし、両手で握った剣を左上に掲げる。それから少し下方に移動させる。
空に飛ばれたままじゃ、俺にやつを攻撃する手段はない。体や剣は《風》が勝手に補助してくれるが、俺は城井みたいに魔術を使えるわけじゃない。
なら、そこにあるものすべてを利用する。
目を見開き、火炎黒球(仮)をギリギリの一点までひきつけて。
構えた剣を、斜め上へと振り上げる。
通常、野球でボールを打つ場合、これほど極端に上方を目指して打つことはない。しかし、今目指す場所は自分の頭上、はるか上空だ。打ったためしのない姿勢で、球を打つためのものではない剣の平らな面で、炎の塊のような球体を打ち返す。
上手くできる確証はなかったが、今俺に取れる唯一の攻撃手段だ。
「ぐっ……!」
剣とそれがぶつかった瞬間、強い抵抗が肩まで伝わってきた。さっきまでは斬り捨てるだけだったが、こうして受け止めてみると、小さくても充分重い。
けれど、ここで押し負けるわけにはいかない。
城井。きっとあいつ、泣いてた。《姫》を狙う魔獣を逃したこと、部活真っ最中の俺に頼るしかなくなったこと。巻き込みたくないと、何度も何度も繰り返していた。誰よりもあいつがこの事態を悔いてるはずだ。
起こってしまったことは取り消せない。なかったことにはできない。
でも、まだ、できることはあるだろ。
守ること。
魔獣は俺達の目の前に現れた。そして《姫》を連れて行こうとする。けれどまだ、《姫》は無事だ。まだ、手遅れなんかじゃない。
連れて行かせやしない。絶対守るんだ。それがあいつの何よりの願いで、同時に俺の望み。
――俺は、《ナイト》だ!
「ぅおおおおおおおおおおおぉぉぉぉぉっ!!」
重い腕を、力任せに振り切った。
打ち返した火炎黒球(仮)は風に乗り、実は空に向かって落ちているのではないかと思うほどとんでもないスピードで上昇し、逃げ遅れた《ゴル・イーグル》の腹部と衝突した直後、大きな爆発を起こした。
爆風は地上まで届き、反射的に目を閉じて顔を背け、腕で顔をカバーする。
風の力が弱まったと同時に、再び上空を見上げる。《ゴル・イーグル》は、まだそこに浮いていた。あちこちから黒い煙と立ち上らせているところ見ると、それなりにダメージは受けているらしい。しかし、そのダメージは急所までは至っていないらしく、力を失う様子はない。急所にダメージを与えなきゃ意味がない。
思わず本気で舌打ちをした。本当に、俺にとってはやりづらい相手だ。
「あれでもダメなのかよ!?」
驚愕と緊迫に満ちた間壁の声が耳に届いた。視線を移動させ、不安と緊張に彩られたみんなの顔を遠目に見る。そこには、俺が見慣れた日常の姿はないような気がした。《ゴル・イーグル》が現れたことで、俺が《ナイト》の剣でやつと戦うことで、これまであった日常は壊れてしまった。
すう、と大きく息を吸い、それをそのまま飲み込んだ。四肢に力を込める。
日常なんて、必要なものがあれば何度でも作れる。でも、必要なものがなくなったらそれもできない。
俺は失いたくないんだ。なにも失いたくない。傲慢だ。欲張りだ。そんなの自分でわかってる。でもしょうがないだろ。失いたくないんだ。全部大事だから、全部失いたくない。そんなの願って当然だろ。
それを叶えるために戦わなきゃならないってんなら、やってやるさ。
幾分回復したのだろう、《ゴル・イーグル》が再び嘴を大きく開いた。またアレか。なら、最初の一撃は避ける。その後また連続して放ってくるようなら斬り捨てるか、打ち返す。
そう決めた、瞬間。
「――《ザキ・クレスタ》!!」
耳に慣れた呪文が聞こえ、四本の氷の刃が飛来し、《ゴル・イーグル》を襲った。氷の刃は《ゴル・イーグル》の右翼を貫き、その衝撃からか嘴の中にできつつあった球は弾けて消え、やつは甲高い悲鳴をあげながら、右側に傾いて落下し始めた。
自転車特有の、耳に痛いくらいの金属質なブレーキ音が滑るように響き、ついでがしゃん、どしん、と二つの種類が異なる倒れるような音が上がった。
後ろを振り向いた。
フェンスの向こう、学校の傍を走る道路。ぼさぼさになった髪の毛、土と血で汚れている顔と服。冬だって言うのに汗をぼたぼたと滴らせ、荒い呼吸を繰り返し、地面に転がりながら杖を掲げている。
「城井!」
「お、おまた、せっ……!」
城井は苦しげに、それでも安心させるように、笑って見せた。