第4話 願いと魂
13 仲間
日が落ち、雲の向こうで月が輝き始め、グラウンドで練習していた運動部に所属する生徒たちと教職員の姿はとうに消えた。学校敷地内に残っているのは野球部のメンバーに城井、そして宿直担当の教諭だけになった。宿直担当の教諭には眠ってもらっている。騒ぎになるのは喜ばしくないし、これ以上無関係の人間を巻き込むわけにもいかない。
御端と城井は屋上に立った。屋上には二人の姿しかない。他のみんなはグラウンドに立っている。そこで敵を迎え撃つ手はずになっている。
戦いに慣れていない彼らにとって、開けた場所での戦闘は酷かもしれない。グラウンドのような開けた場所では間違いなく混戦状態になるだろう。複数でかかってくる強敵を相手にするなら、一対一になれる狭い道などで迎え撃つのが定石。しかし、相手が人間ならまだしも、人間よりずっと大きい、ずっと力の強い魔獣だ。それも何体やってくるかわからない。狭い道に誘い込んだところで、周辺を破壊されてしまうのがオチだ。瓦礫が邪魔になり、かえって首を絞めることになりかねない。だからせめて、逃げ回る余裕が持てるような広い場所を利用することにした。
御端は空を見上げた。雲が月にぼんやりと照らされてうっすら白く見える夜空。その中に、くっきりと浮かぶ黒い円形。それが《道》だった。はっきり確認したわけではないが、城井があらかじめ「見ればわかる」と言っていたので、おそらくあれがそうなのだろう、と判断できた。なにせ、それだけが、夜の中にあって異質と思えるような闇色をしているのだから。
「見える?」
「う、うん」
徐々に大きくなってきているように感じるのは、はるか上空にあった《道》が地表に近付いてきているからだ。なるべく簡単に届くようにと、城井がゆっくりと移動させているのだ。
しかし、移動を開始してわかったことだが、どうも自由に移動させられるわけではなく、進
める方向というのが限られているようだ。それも一定ではない。座標によっては、もうどこにも動けず、後戻りしなくてはならない場合もある。目隠しパズルのようだ、と城井はため息とともにこぼした。
「……あ」
「し、城井、さん?」
「ああ、ごめん、大丈夫。またちょっと詰まっただけ。……うん、もう少し下げられそう。少々遠くても、通り道は作るから、大丈夫だよ」
「う、うん」
黒い穴。この世界と別の世界を繋いでいる《道》。きっとすぐに、あそこを通って、《あっち》から魔獣が押し寄せてくる。
黒幕……《姫》の魂を狙っている張本人は、来ないだろう。城井はそう考えていたし、御端もまた同じように考えていた。
冬のひんやりとした風が、二人を取り巻く。上着を着てはいるが、それでも寒い。手袋をしていない手はどんどん体温を奪われいく。
手袋は持っている。しかし、御端はそれを部室に置いてきている。「取ってこようか」と林田が申し出てくれたが、御端は首を横に振った。城井も、みんなも、手袋をつけた状態では杖や武器を扱いづらいだろうということで、手袋はつけていない。
みんなは「気にするな」と言ってくれたが、やはりそんな中で自分だけが手袋を着用することはできなかった。
城井を見る。城井は空を見上げている。ぼんやり存在が確認できる月ではなく、《道》を見つめている。漏れ出す空気は白く濁って大気に溶けていく。突き出た鼻や髪の毛の隙間から覗く耳はかわいそうに思えるくらい赤くなっている。
寒いのだ。御端も寒いと思うのだから、それは当然だ。
……でも、城井にとって寒いのは、体だけだろうか。
ふと浮かんだのは、《姫》の友人である魔術師の姿だった。城井と魔術師の姿かたちは決して似ているわけではない。それでも姿が重なって見えてしまうのは、彼女の中にその魔術師の魂が眠っているからだろうか。
魔術師は、さびしいひとだった。《姫》もさびしいひとだったが、その友人である魔術師も負けず劣らずさびしいひとだったと思う。もしかしたら、最初に二人を繋いだのは、そういうちょっとしたシンパシーのようなものだったのかもしれない。
さびしい思いをして死んだ女の子が、大切に想っていた友人へと遺せなかった言葉が脳を占拠する。伝えなければ。そう強く思った。
「……城井、さん」
「ん?」
「『ごめんね』、って」
「…………」
「《ウィザード》への、言葉……だったよ。届けられなかった、けど……。ひとりにして、置いていって、『ごめんね』って。泣いてた、よ……」
「……うん」
伝言に、城井は静かに頷いた。
「うん、わかってる。ちゃんとわかってたよ。《姫》が《ウィザード》を大事に想ってくれてたことも。それでもどうしようもないくらい、《ナイト》が好きだったことも」
「……ん」
覚醒直後、なにが起こったのか、御端にはわかっていなかった。なにが夢で、なにが現実なのかもわからなかった。自分がいる場所でさえ見失っていた。
ぐるりと周囲を見回して、その人を見つけて、誰なのかを理解したら、手を伸ばして、触れたくて、仕方がなくなってしまった。
それは、魂になっても、体も心もなくなってしまっても、求めて求めてやまなかった宝物、《姫》の一番ほしいものだった。ほしくて、けれどすり抜けて、消えてしまったものだった。
触れて、たしかめたかった。そこにいるのだということ。生きてるぬくもりを、たしかめたかった。
「キス、ね……やじゃ、なかった、よ……び、びっくりした、けど」
御端の望みは、自分の奥の奥のほうから響いていた声を聞くことだった。
それがいつからだったのか、明確にはわからない。しかし、響いているものが声だと気付いたのはほんの二週間ほど前だった。ひどく強くなにかを訴えているような声だった。そうと理解できるのに、どれだけ耳を澄ませても、その内容を聞きとることができなかった。
誰かに伝えたいのだと、なんとなく感じ取れた。だからこそより一層注意深く耳を傾けてみたが、やはり内容はわからなかった。
井澄からのキスを受けて、御端の中に流れ込んできた自分ではない誰かの記憶を最後まで経験して、ようやく理解できたのだ。
記憶は、かなしかった。思い出したらぽろぽろと涙がこぼれそうになる。つらいこととさびしいこと、そしてささやかな幸せを繰り返し、そしておしまいのときを迎えた。
あんな風に触れたかったわけじゃない。最初で最後のキスは、冷たくて、悲しいばかりだった。
けれど、そんな記憶を塗り替えてしまうのではないかと思うほど、井澄からのキスはあたたかくて、優しかった。
「……それは、井澄くんに言ってあげてね。きっと気にしてるから」
「う、うん……」
そうだ、と御端は気付いた。御端はあまり気にしていなかったが、井澄はそうではないかもしれない。日本では普通、男同士でキスなんて、頬にさえしないものだ。井澄は嫌だったかもしれない。後できちんと謝ろう、と決めた。
それから、「ありがとう」も、伝えたい。
《姫》から受け取った悲しくて凍えてしまうほど冷たい想いは、井澄からのキス一つにあっさりと塗り替えられたのだから。
どうしてあんなことになったのだろうか。《姫》の記憶を軽く反芻して、御端は考えた。
つらいことやさびしいこと、そしてささやかな幸せを繰り返し、生きていたのだ。あの日まで。あんなことが起こるまで。
その原因について、《姫》はなにも考えられなかった。思考力というものを根こそぎ奪われてしまっていた。大切な宝物が失われたという現実が、奪っていった。《姫》は耐えきれなかったのだ。そして、ただ《ナイト》だけを求めて、《ウィザード》を置き去りにしてしまった……。
いや、それだけではないのかもしれない。間際の間際まで、姫の脳内からは《ウィザード》への想いがごっそり抜けていた。《ナイト》を失った。ただそれだけしか考えられなかった。またひとりになってしまったと思った。生きる意味を失ったと思った。
そんなことはなかったのだと気づいたときには、手遅れだった。自分の傍にいて、自分を支えてくれるひとがちゃんといることを、《姫》は失念していた。そのことを知らないわけではなかった。しかし最後にならなければ思い出すことさえ許されなかった。
それほど《ナイト》を失ったことがショックだったのだろうか。それとも……別に理由があるのだろうか。
御端は考える。自分があまり賢くないことは自覚していたが、それでも考える。
《姫》の記憶を見ただけなら、なにも感じなかったかもしれない。けれど今、御端の目の前に、《あっち》に繋がる《道》がある。《あっち》にいる誰かが、《姫》の魂を求めている。
違和感があった。《ナイト》の死に続く、《姫》の死。まるでそれらが必然だったかのような。
城井に尋ねてみたいと思った。しかし、そんな余裕は与えられなかった。
ぱしん、という音が夜空の下で響き、ほぼ同時に城井の左手の甲に一筋の傷が生まれた。
「し、城井さん……!」
「……結界が破られただけだよ」
途端、《道》から形を持った闇色ものたちが雪崩れ込んできた。これほどの数の魔獣を一度に目にすることは、《あっち》でもないことだろう。簡単に言ってしまえば、これは有り得ない光景だ。
そんなにまで《姫》の魂が欲しいのかと思うと、なんとも言えない気持ちに包まれる。
魔獣たちは、屋上にいる御端と城井の存在には気付くことなく、真っ直ぐにグラウンドを目指す。あの大群を前に、井澄たちはどれほどの時間を持ちこたえられるだろうか。
ふる、と城井の手が震えた。その手に、御端が手を重ねる。どちらの手も冷たい。緊張している上に、冬風は容赦なく人体から体温を奪っていく。
城井の手は小さい。女の子の手なのだから、当然なのだけど。この手をあたためられたら、と御端は願った。
「だ、だいじょうぶ、だよ! みんな、いるから!」
「っ……」
「三人だけじゃ、ないんだ! みんないる! だから、あのときみたいには、ならないよ!」
三人だけだったあのとき。《ナイト》を失ったあのとき。
《姫》の心がどこかへいってしまった、あのとき。
もう、繰り返さない。
「……ずるい」
「ぅえ!?」
「ずるいよ……御端くんも、井澄くんも。いい仲間、あんなにたくさん……。私は、一人もいなかったのに……」
城井は、泣きはしなかった。けれど、泣き出しそうな顔をしていた。
二年前の事件から、城井はひとりだった。両親を亡くし、もともと頼れる親族もなく、巻き込むこととそれによって嫌われることを恐れて友人との関係を断った。
そんな行動を取りながら、誰か助けてと何度も願った。何故自分がと何度も呪った。それでも現実は変わらない。過去は修正されない。守りたいと思った以上、逃げ出すことさえできなかった。
御端には、正確には城井の想いは伝わらない。御端は城井のことを、ほとんど知らない。ただ、城井にはすでに両親がいないことは知っていた。いつだったか、部室でそんな話題が出ていたのを覚えていた。学校で見かける城井はいつも一人で、話しかける相手もほとんど井澄や井澄の周辺である御端たちに限られていた。
城井はひとりだった。頼れる誰かがいるわけでもなく、助けてくれる誰かがいるわけでもなく。ずっとひとりで、立っていた。
それはどれほど苦しかっただろう。どれほど寂しかっただろう。なにも知らず笑い合う御端や井澄を眺めながら、なにを思っていただろう。
「……じゃあ、おいでよ! 野球部!」
「え……」
「そしたら、仲間だ!」
ずっと、ひとりにした。《姫》が選択した、あの日から、ずっと。城井も、《ウィザード》も。
だから、もうひとりにしない。傍にいる。できることは多くないけど、できることは全部して、この人の心を守りたい。もう、さびしくないように。
城井の顔が、くしゃりと歪んだ。泣きそうな顔をしているのに、やっぱり城井はそれをこらえる。
「…………っ、はは……そ、だね……」
グラウンドから聞こえてくるもの。斬撃の音、破砕の音、魔獣の声。みんなの声。
みんなが、いる。
仲間がいる。
だからきっと、大丈夫だ。
「はやく、みんなのとこ、行こっ」
「……うん。さっさと終わらせよう!」
城井が杖をかざして、二人の周りにはっていた結界を、解いた。