幕間
拾い上げた誓い(1)
目を覚ますと、嫌になるほど白色が目につく空間にいた。鼻につくようなつんとした匂いは、消毒薬の臭いだ。そう認識はできても、意識はまだどこか寝ぼけていて、五感から取得する情報のすべてがあいまいで、まるで夢の中にいるような気分だった。
しばらくぼんやり横たわっていると、様子を見に来たらしい看護師がばたばたと慌ただしく走って行った。その後すぐに白衣姿の男がやってきて、いくつかの質問をしていった。夢心地のまま、その質問に応えていったような気がする。正直、どんな質問をされたのかは覚えていない。おそらく、気分が悪くないかなどのお決まりの内容だろう。
夜を一つはさんで、ぱりっとしたスーツに身を包んだ男が二人訪れた。相変わらずの夢心地で彼らの問いに答える。どうやら警察関係者らしく、少女の両親について色々と尋ねてきた。
どうやら彼らは少女を重要参考人と捉えているらしい。しかしそれは形だけのことで、事件の犯人である可能性については真剣に考えているわけではなさそうだった。すべては小さな可能性として話を進められた。
仕方がないことだろう。少女の両親は無残な殺され方をし、その傍らで意識を失っていた少女は擦り傷程度で済んでいる。疑われることも、なにか特別な理由を考えられることも、彼らからしてみれば当たり前だった。
それでも少女が犯人である線が薄いと思われたのは、凶器となりうるものが周辺から発見されていないからである。少女は十四歳。同じ年頃の女子平均から考えると少々小柄で、明らかに腕力はない。なにかしかけを利用しない限り、少女に犯行は不可能だと思われた。
すべての問いに覇気なく答える少女に憐憫の目を向けて、「また日を改めます」と言って二人の男は出ていった。
少女は夢を見ていた。現実世界に覚醒しながら、眠っている間に流れ込んだ膨大な量の記憶をひとつひとつ、つぶさに確認していった。
やがて、記憶と現実がリンクする。
ゆるやかに開いているのみだったまぶたがぱちりと開く。
最初に自覚したのは、焦燥による衝動だった。
ベッドから飛び降り、備え付けのロッカーを開けて自分の服と靴があることを確認すると、病院の関係者が着せたのだろう前合わせの浴衣以上に簡単な衣服を脱ぎ捨て、着慣れた私服に着替え、靴を履く。
真正面から出ると止められるかもしれない。
窓の外を見ると、すでに夜空が広がっていた。警察は日が暮れる前に帰ったはずだ。どれほどの時間を無駄にしたのかと歯噛みする。
窓を開け、身を乗り出す。少なくとも三階よりは上の階層らしく、少し前の少女であれば地上までの距離にめまいを覚えただろう。しかし今、少女は欠片のためらいもなく、窓枠に足をかけた。
記憶の中から「出現」を意味する力を持った単語を引っ張り出し、声に乗せれば、右手には冷たくたしかな感触。また「風」を意味する言葉を吐き出せば、少女の体は重力に逆らってふわりと宙に浮く。少々不安定さがあるが、この程度はしかたがないときっぱり割り切る。
無人の屋上に出て、しばし目を閉じて風を感じる。冷たい空気の中、二つのぬくもりを感じ取れた。
ひとつはほど近い場所、もうひとつはずいぶん離れているようだ。
少女は屋上の床を蹴った。まずは自宅に向かう。
玄関には鍵がかかっていたが、羽織っている上着のポケットに鍵はちゃんと入っていた。
数日ぶりに帰宅した少女は、自分の部屋からあまり使用率の高くないサイフを持ち出した。大した額は入っていない。顔をしかめて、両親の部屋へ向かう。月々必要なお金を、少し多めに予算を組んでしまってある場所を少女は知っていた。
寝室のベッドわきにあるチェストから籐で作られた箱を出し、蓋を開ける。銀行やらなにやらの封筒がいくつもしまわれており、そこには「新聞代」やら「医療費」やらと几帳面そうな母の字で書かれている。少女は少しだけ考えて、「交通費」と書かれた封筒からお札を一枚抜き取った。
普段は触れることのないような高額な紙切れを眺め、これで事足りるだろうと静かに頷いた。
自宅を出て、丁寧に鍵をかける。それから、近くの気配の発信源から向かう。
並ぶ建造物の屋根を伝いながら導かれるままに進むと、あたたかな明かりが灯された一軒の住宅に辿りついた。
斜め向かいの家の屋根からじっと十秒ほど見つめ、そこにいるのが《彼》であると悟る。
おそらく《彼》に関しては心配ないだろう。《彼》には狙われるほどの理由がない。
少女は再び移動を開始した。
「孝弘ちゃーん、なに窓開けてんだよー。閉めろよ、さみーだろー」
「うっせークソ兄貴! 『ちゃん』付けすんな! 蹴るぞ!」
「おわ!? ちょ、言いながら蹴るなよ! てかお前の蹴りマジ痛いからやめて!」
少女はコンビニでポケットタイプの地図を購入し、自分の現在地と探し人の方角を確認した。地図を見ているだけでは正確な相手の位置はわからないが、だいたいの方角なら把握できる。
適当な額で切符を購入し、電車に乗り込んだ。がたんごとんと揺られ、数分のうちに県の境界線を越えてしまう。徐々に気配が強くなってきた。適当な駅で下車し、乗り越し精算をして改札を抜ける。駅に掲げられている時計に目を向けると、十時を回ったところだった。明らかに未成年の少女が一人で外を出歩くのは注目を集めかねない。
少女は素知らぬ顔で駅を離れ、人目がないことを確認してから近くの雑居ビルの屋上へとのぼった。初めて足を踏み入れた土地を高いところから見下ろしつつ、気配を辿って移動する。
駅からそこまでは、意外と距離があった。少女はとあるアパートの屋上で足を止め、縁に腰を降ろした。探し人はどうやらこのアパートの三階に住んでいるようだ。
フェンスのない外縁から足を垂らし、顔を空に向ける。雲はあまりなく、高い空の中で小さく輝く星がせいいっぱい自己主張している。
(……なにやってんだろ、私)
少女はふと我に返った。このアパートの中で暮らしている探し人は、少女を知らない。少女も、まだ相手の顔を知らない。
こんなわけのわからないことに引きずられて、余計な苦労を背負い込むのは御免だ。
どうしてこんなことに巻き込まれなければならない。
自分はなにもしていない。ただ与えられた生を安穏と生きてきただけなのに。そうして生きていきたかっただけなのに。
そう嘆いても手遅れで、すでに過去思い描いていた未来を取り戻すすべはない。今の少女には寄る辺というものがない。
なにもない。
だからこそ、記憶の中の想いに縋ってしまったのかもしれない。
……それで、どうなるというのだろう。その想いは、決して少女のものではないのに。
冬の寒さに体が震えた。
いっそ雪でも降ればいいのに、と思った。それがどうしてかはわからない。雪が降ったら、あきらめがついて帰ろうとでも思えただろうか。
なんにしても、雪が降る気配はなく、少女はそこを動かなかった。
* * *
「……ほんと、なにやってんだ、私」
無人で閑散として、寒いばかりの屋上で、少女はもそもそとコンビニでゲットしてきたクリームパンを頬張る。とある中学校の校舎の最上階からは、グラウンドを含んだ景色がよく見えた。
パンを食べながらも、少女はグラウンドの上で動くひとりの少年から目を離さなかった。
その少年は走っている。いわゆる走り込みの真っ最中だ。遠目だが、服装は野球部の練習用のユニフォームのようだ。少女は野球に明るくないが、クラスメートに野球部所属の男子が何人かいる。秋ごろまで練習でへとへとになっていた彼らが、秋の終わりごろからサッカーをやるくらいの余裕を見せ始めていた。どこの野球部も、ハードなのは春から秋までなのかもしれない。
少女がなぜその少年を見ているのか。簡単だ。少女の探し人はその少年だったのである。
――そう、《少年》なのだ。
何度見直しても、頭痛がする思いだ。
(まったくもう……せっかく身分とか関係ないのに。なんで男の子なの。……って、いやいやいや、私別に関係ないし! 気にしたってしょうがないし!)
ぶんぶん、と頭を水平方向に振り回していると、ぐちゃ、と右手の中で音がしたので動きを止めた。視線を向けると、無残に潰れてクリームを溢れさせたクリームパンの姿。こぼれたクリームはとろりとした緩慢なスピードで少女の右手まで垂れてくる。
なんともいえない複雑な気分を抱えてそれを三秒眺め、ため息をついてもきゅもきゅと口の中に押し込めていく。手に零れたクリームも残さず舐め取る。
再びグラウンドを見る。部員たちが整列して、腹が出っ張っている男と向き合っている。顧問か、監督か……まあどちらでもいい。
どこをとってものどかな、変わったところなど一つも存在しない、普通の練習風景だ。
「……アホらし」
そんな光景を、唯一の出入り口には鍵がかけられている、名前も初めて聞いたような中学校の屋上から眺める。非日常から日常を眺める。
その事実が、途端に心を寒くした。
つい数日前まで自分も所属していたはずの世界が、やたらと遠くへ行ってしまったような気がした。
いや、確実に遠のいてしまったのだ。少女が愛した日常は、二度と戻ってくることはないのだ。
今の状態は、それを思い出させ、そして思い知らせてくる。知りたくないのに。
耐えかねた少女は、そっとなるべく音を立てないようにしてその場を離れた。
* * *
それでも結局少女は少年のいる町を出なかった。
学校のすぐそばにある、いわゆる裏山の中に踏み入り、枝が太そうな木を選び出してその上に上った。木登りなんて初めてしたな、と思いながら。もっとも、普通にするように幹をよじ登ったわけではなく、《風》でふわりと浮かんで登っただけなのだが。
枝の根本に座り、木の幹に背中を預けて、ぼんやり考える。
もういいのではないか、と。
あの魂の無事は確認した。本来なら義理もなにもないところ、こうしてわざわざ足を運んで様子を見たのだ。探していた相手はちゃんと無事だったし、ちゃんと平和だった。これ以上、自分がなにかをする理由があるだろうか。
だからと言って、ではどこへ行こうと言うのだろう。
少女にはもう、帰る場所などないのに。
それでも、これ以上あの少年を見ていたくなかった。自分が失った日常を、なにも知らず甘受して生きている少年の姿を見続けていたら、どす黒い感情に支配されて、なにをしでかすかわかったものじゃない。そんな気がした
病院へ戻ろう。誰にも言わず、書置きもせずに出てきたから、ちょっとした騒ぎになっているかもしれない。どこに行っていたのかと聞かれたら、なんと答えよう。「お父さんとお母さんを探してた」とでも言ってやろうか。頭がかわいそうなことになった子供を演じて見せようか。
体勢を直して木から下りようとした、そのとき。
がさがさと、生い茂る草を踏み分けてくるひとの影があり、少女はぴたりと動きを止めた。じっと下を見守っていると、その影の主はちょうど少女がいる木の根元にやってきて、ちょこんと座り込んでしまった。
――《彼女》だ。いや、もう《彼》と呼ぶべきだろう。
こんなところに座り込んで、なにをしているのだろう。下を眺めていると、
「……ひっ……う、うぇっ……ふぐっ……」
少年は泣き出してしまった。少女は少年の頭上であんぐりと口をあけた。
(ちょ、ちょっとちょっと! 君、男の子でしょ! なに泣いてんのこんなところで……)
こんな、人気のないところで。
ここは裏山だ。人の出入りが禁じられている様子はなかったが、しかし好んでやってくる者の数は少ないだろう。誰かに見咎められることなど、滅多にないはずだ。
――だから、泣いているのだ。
誰かに見られることがないから。それを知っているから。知られないように、彼は泣いている。
反射的に、傍に寄って声をかけたくなった。その衝動を耐えるように、体を支えていた腕に力が篭る。
それがよくなかったのかもしれない。
めき、と鈍い音がした。「ん?」と思ったときには遅かった。枝の一部が弱っていたのだろう、めりめりと裂け始め、そこに座っていた少女は重力に従って地面へと向かう。
「っ、《アーラ》!」
咄嗟の判断だった。そしてそれは大きな間違いだった。
落下地点を調節する程度なら、よかったのかもしれない。けれど少女は咄嗟にやってしまったのだ。
先ほどまでよりも目線が近くなった少年の瞳が驚きでいっぱいに開かれた。少女は青い顔をして、だらだらと冷や汗を流しながら、少年のすぐ傍で、ぷかぷかと浮かんでいた。