幕間
拾い上げた誓い(2)
とにかく、と少女は地面に足をつけた。浮かんだままというのも少々居心地が悪かった。
そのまま少年と見つめ合った。
そして、
「よ……よーせい、さん……?」
少年の発言に激しい頭痛を覚えた。
まさか現代日本に中学生にもなって妖精などという幻想の生き物を信じる者がいるとは思わなかった。これが仮に女であったあらば「夢見がちな子だ」と呆れるだけだったろうが、今少女の目の前にいるのは男なのだ。その内に《彼女》の魂を有しているとはいえ、この少年自身はれっきとした男だ。……まあ、少々中性的な顔立ちではあるが、それは関係ないだろう。
もしや《彼女》がそういったものを信じていて、その影響でも受けているのだろうか。《彼女》がそういったものにどれほど興味を持っていたかなどは一切知らないし、もう知りようもないが。
通りすがりの魔法使いとでも訂正しようかと思ったが、そうする意味を見いだせなかったのでやめた。どちらにしろ非現実的なものに違いはないのだから。
少年の目じりには、いまだに涙が留まっている。
見て見ぬふりをするか、しないか。二つの選択肢を前に、少女は一秒悩んだ。しかし答えは出せなかった。一秒後に、少年の腹が空腹を訴え、少女の思考を中断させたのだ。
少年は部活帰りなわけだし、泣くという行為も体力を使う。
少女は一つため息をついた。それは降参と諦念で構成されていた。
「ちょっと待ってて」
* * *
裏山から一番近いところにあったコンビニであんまんを二個購入して、第三者に見咎められないよう気を遣いながら、しかしできるだけスピードを出して少年のもとに戻り、ほかほかと白い湯気を立ち上らせるそれを一つ、少年に差し出した。
少年は戸惑ったように、また遠慮するように差し出されたものと差し出す少女を見比べる。
「食べて。私、二つも食べられないから」
なら二つも買ってくるな、と言われれば、そんな気分だったのだ、と答えを用意をした。しかし、それは不要な準備となる。少年はおずおずと手を出し、あんまんを受け取った。
少女は少年の隣に、少しだけ間を開けて座り込んだ。
「い、いただき、ます」
律儀に、しかしどこか落ち着かない様子で口から出た食前の挨拶の後、少年は控えめに口を開けてあんまんにかぶりついた。二口、三口くらいそれを繰り返した後、一瞬ためてがぶりと大口を開けた。もっふもっふと、まだあたたかいあんまんをおいしそうに、幸せそうに頬張るその姿は、妙に笑いを誘った。
「……あんまん、好きなの?」
「す、好き! おいしい!」
「そっか」
おいしいものが好きなあたりは共通しているらしい。
そういえば、と最後に《彼女》と一緒に食べたものを思い出す。バンと呼ばれたあれは、少女の知識からするとあんまんなどの中華まんに使われる蒸しパンとよく似ていた。あんまんの中身をさつまいものペーストに置き換えれば、きっと似たような味になるだろう。
少女ももふっと自分の分にかぶりつく。途端、ふわりとしたぬくもりが体内に充満する。そのあたたかさが、心に沁みる。それがなにに起因するものなのかはわからない。だが、少女の目じりにはじわりと水分が溜まりだした。
少年がそれに気付き、慌てて顔を寄せてくる。
「ど、どうかした、の? どっか、痛い……?」
「……ううん」
体が痛いわけではない。だから少女は首を横に振った。
「ちょっと、思い出してただけ」
あの瞬間の痛みが甦る。連動するように、つい最近の痛みまで引きずり出される。
失ったこと、守れなかったことを、思い出す。
ずきずきと、傷口が化膿したような痛み。あるいは、古傷を再び鋭利な刃物で傷つけられたような痛み。自分のものじゃないはずの痛みも、間違いなく自分のものである痛みも抱えて、吐き出し口を探している。
「あ、あの、ね!」
少年が引きつったような声を上げた。
「妖精さん、には、話せるひと、いる?」
「え?」
「う、や、やなこと、とか……そういうの、全部、話せるひと」
先ほどから、少年の言葉はところどころで突っかかることが多い。人見知りでもしているのか、はたまたそれで素なのかは、会ったばかりではわからない。
しかし、その拙い喋り方で、少年は一生懸命に語りかける。
「話したら、大丈夫なんだ、よ! やなこと、も、かなしいこと、も……そのひとと、半分にするんだ! そしたら、すぐ元気になれるんだ、よ! おばー、ちゃんが、言ってた! だから……だからっ……」
少年は必死だ。必死すぎて、今にも涙をこぼしてしまいそうになっている。
「笑って」
思うままに言葉を紡いだ。紡がれた相手はきょとんとしている。
やがて少年は、ふにゃりと、情けなく笑って見せた。
――《笑って》。
それは、かつてこの世界で存在を消したひとりの魔術師が、先に旅立ってしまった友人二人に向けて、最期まで願っていたこと。
「……ところで」
「う?」
「いない場合はどうしたらいい?」
尋ねると、少年はかわいそうなほど挙動不審にうろたえ出した。興味本位で出た言葉ではあるが、話せる相手がいないのは事実だ。たとえ両親が生きていたって、話さなかっただろう。
泣きそうになっていた少年が、はっとなにか思いついたらしい表情を浮かべ、顔を上げた。
「お、おれ、がっ!」
今度は少女のほうがきょとんとした。短い言葉だったがわかる。少年が、少女の話を聞く、と言っているのだ。
瞬間、湧き上がった感情に、名前は付けなかった。代わりに、冷淡な言葉が口から出る。
「……初対面の相手に愚痴れと?」
「あ、あうぅ……」
少年は目尻に涙を溜めてかくんと頭を落とした。
よく泣く子だ、と少女は少年を観察した。そういうところは、《彼女》とは違う。
……いや、もしかしたら、違わないのかもしれない。《彼女》はずっと強がっていたのだから。《彼女》は強くあろうとしていた。涙は弱さの象徴だ。だから、そう簡単に流せるものではなかっただろう。
この少年が泣き虫なのは、そんな《彼女》が流せなかった涙まで、流しているからなのかもしれない。
なんて。そう考えると、少しだけ泣きたくなった。
「いくらなんでも会って数分の相手に愚痴やら弱音やらを吐く気にはなれないし、マナー違反だからね」
「うぅ……」
「……だから、次ね」
「ふぇ……?」
涙目のまま顔を上げる少年。少女は目をそらさずに、言葉にする。
「次、また逢えたら、聞いてくれる?」
笑って、と願う。
「その時は、君の話も聞かせてね。それで、《お相子》でしょう?」
ぽかんとしていた少年は、くしゃりと、泣き笑いの顔をになって、大きく頷く。
「う、うん! 約束、だよ!」
そんな少年の表情にふっと口元をゆるめて、少女はそっと、少年の額に右手をのばす。
そして、………………。
* * *
ふと気付くと、少年は見慣れた裏山の中で、ひとりだった。少しばかり眠ってしまっていたらしい。右腕を持ち上げて、軽く両目の涙をぬぐう。
少年は、悲しいことがあると必ずこの場所を訪れて、泣く。家で泣くと、両親が気付いて心配してしまうからだ。ここなら、誰も少年のことを気にかけない。それはほんのりとさびしくて、けれどどうようもないほど安心できた。
今日も、誰とも言葉を交わせなかった。同級生たちは積極的に少年を無視し、下級生たちは消極的に少年を避けた。
どうしてこうなったのだろうと、過去を振り返る。
始まりは一年生の頃のクラスメートだった。少年の、色素の薄い髪の毛が気に食わないのだと言った。
運の悪いことにその相手もまた少年と同じく野球部の所属だ。さらにこれまた運の悪いことにこの地域において親が幅を利かせている。親のことは子供には関係ない、とは言い切れないのだった。「誰それがああしたこうした」とよくない話が(たとえそれが誇張された話であっても)彼の両親へと伝われば、影響は周囲の大人へと及ぶ。それを恐れる親の気持ちを汲み、また下手に少年を庇えば次の標的になる可能性も否めず、あえて彼に逆らおうとする同級生はいなかった。
喋り方も気に障ると言われた。少年は、昔から喋るという行為があまり得意ではなかった。言葉が意味なくつっかえたり、言葉が前後してしまって相手にうまく伝わらなくなってしまうことは、よくあった。それでも、そんなことを言われたのは初めてで、少しショックを受けた。
最初は嫌味を言われるだけだった。それは、悲しかったけれど耐えられた。
そうして耐えているうちに、相手の態度はエスカレートした。ある日、彼は毛髪用の染料を学校に持ってきたのだ。少年の髪を、日本人らしく黒に染めてやる、と言ってきた。
少年は、抵抗した。初めて、大きな声で、「嫌だ」と叫んで暴れたのだ。
少年は、この髪の色が好きだった。誰がなんと言おうと、どう言おうと、自分の髪の色が好きだった。
これは祖母の色なのだ。
少年は生まれつき人見知りをする性質だったことで、初孫が可愛くて可愛くてかまいたくてしょうがない、という様子の祖父母が基本的に苦手だった。しかし、異国の生まれである母方の祖母だけは別だった。彼女は少年から近寄ってくるまで、じっと、辛抱強く待ち続けてくれたのだという。当然、赤ん坊だった頃のことなど少年は覚えていない。だが、両親からその手のエピソードは散々聞かされたので、まるで赤ん坊の自分を知っているかのように、その頃のことを知っている。
うんと幼い頃、少年は金に近い色をした自分の髪が嫌いだった。瞳の色も黒でも茶色でもなく、肌の色も今よりずっと白かった。それは周囲の目を引き、それを理由にからかわれることも多かった。そして、人目を気にすることもなくよく泣いていた。
そんな少年に、両親が言ったのだ。それはおばあちゃんの色なんだよ、と。
祖母は西洋の国の生まれだった。彼女の色が、少年まで引き継がれていったのだ。それを聞いた少年は一転、自分の色が大好きになった。
年を重ねるごとに、不思議と少年の色は日本人的なものへと近づいていったが、やはり中学生の集団の中にいると目立つくらいには全体の色素は薄いままだ。
色は少々変わってしまったが、それでも祖母から受け継いだものだという事実は少年の中に残った。また、少年が中学校へ上がる直前に祖母が他界したことで、少年はなおのことその色を大事に思ってきた。
それを否定されようとしていたのだ。ここで抵抗しなければいつするのだと、少年の心が叫んだ。
結局、少年が暴れたことによって事の次第は明るみになり、親を呼び出されるような事態に発展した。少年の両親が、少年の髪の色はもともとのものなのだとアルバムまで持ち出して証言し、子どもの本来あるべき姿を否定するのかと学校側を強く問い詰めた。先生たちは苦く笑い、答えを濁していた。
それからだ。彼が少年の存在を無視するようになったのは。
自分の思う通りにならなかった上、あの後さすがに親から叱責を受けたらしい。その鬱憤の蓄積が、少年を無視することにつながったのだろう。
完全な逆恨みだが、無視されるのは辛い。これが彼だけならばまだ耐えられただろうが、クラスメートたちも、部の仲間たちも、彼につられるように少年を無視するようになった。
自分はたしかに存在しているはずなのに、まるで自分という存在がなくなってしまったのではないかという気がした。
野球が好きなのに、野球部の練習に参加することも息苦しくて、やめてしまおうかと思ったことは一度や二度ではない。けれど、それでもなお、二年生の終わりである今まで在籍し続けたのは、野球がどうしても好きだからだ。
というよりも、ボールを投げて、それを受け取ってもらえるという、この一連の流れが好きなのだ。それがなによりの、自分の存在の証明のように思えるのだ。
部活中は、たしかに基本的に無視されてはいるけれど、少年は投手として一定の評価を受けているし、顧問の決定で試合にも出させてもらっている。だからか、実際の練習や試合に支障があったことはない。キャプテンである彼と顧問の先生がさだめた通りに投げるだけではあるけれど、それでも投げたボールはキャッチャーに受け取ってもらえるから、それでいいのだ。
少年には、夢がある。
友達を作ること。
それはあまりにささやかで、聞く人はみんな笑うだろう。けれど少年は真剣だった。
辛いことや悲しいことを分けあえて、楽しいことや嬉しいことを共有できる。そうしてずっと、一生付き合っていける友達。
どんなことでも打ち明けられて、どんな状況でも信頼しあえる。馴れ合って互いを堕落させるのではなく、時に厳しいことを言いつつも、互いを思いやれる関係。
そんな相手がいることがなによりも幸せなのだと、少年は誰に教えられることもなく知っていた。
現状からは、遠い夢だ。
空を見上げると、朱色が差し始めていた。直に日が暮れる。もう帰ろう、と少年は立ちあがって。
ふと、隣を振り返った。
忘れ物がある気がした。しかし、なにを忘れているのかは思い出せない。五分くらいそこに立ち尽くしていたが、結局思い出すことはできなかった。
なにか、とても大事な約束をしたような気がするのに。
* * *
裏山を抜け、家路についた少年の背中を見つからないように少女は見送った。少年が無事に帰宅するまで見守り、ぱたんと玄関のドアが閉まったことを確認すると、少女はくるりと踵を返して駅に向かい、電車に乗った。
「……ずっるいよなぁ」
呟き声はとても小さく、電車の揺れる音にかき消された。しかし、少女の脳内ではしっかりと響いた。
少年の言葉は少女を揺るがし、少年の笑顔は少女に願いを抱かせた。
――どうか笑って。そのためなら、なんだってできるから。
それは少女ではない、別人の願いだった。しかし今、少女自身がそれを心から願っている。
少女と、少女の中の魂の気持ちが繋がってしまった。少女の選ぶべきものが決まってしまったのだ。
しかし少女は、「来なければよかった」とは思わなかった。
そもそも、と少女は小さく苦笑を浮かべる。
少女の選択は最初から決まっていたのかもしれない。ここまで足を運んだのは、それを揺るぎないものにするためだったのかもしれない。
なぜなら、少女の中には最初から、自分の内にいる魔術師を恨む気持ちなど欠片も存在していなかったのだから。
最初からして卑怯だった、とは思う。少女は自分の内に存在している魔術師になりきって、魔術師の記憶を追いかけていた。魔術師の感じたことは、そのまま少女が感じたものだった。残ったのは同情でも憐憫でもなく、深い共感、ただそれだけだった。
そして、今、少女の胸に宿る誓いの炎は、魔術師の願いに一致する。
その誓いは決して未練を残して死んだ魔術師のためではなく、少女が望んだものだ。
思い出せば息が詰まるような痛みを癒す方法は知らない。けれど、それを踏まえたうえでやるべきことはわかっている。
いずれ、数日前に少女と両親に向けられた爪と牙は、あの少年に向けられるだろう。あの少年の命を、あの少年の中で眠っている魂を奪うために。
父と母の無残な死に様を思い出す。あんな死に方をしなければならないほどの業などあるはずがない、善良な二人だった。大好きな二人だった。そんな二人の、恐怖に満ち、かつ生気の削げ落ちた顔を思い出す。目には見えない傷口が疼き、衝動的に涙がこぼれそうになるが懸命に堪える。膝の上に載せていた手が拳を握る。
……あんなものを見るのは、もうたくさんだ。
少女は少年に封印をかけた。《彼女》の魂とともに、自分と出逢った記憶も少年の奥の奥に沈めた。この出逢いは少年のためにならない。今回のことをきっかけに、少年が自分の中の自分以外の存在を自覚しないとは限らない。わかっている不安要素はあらかじめすべて取り除くべきだ。
電車を降りる。たった一日離れていただけの地元の景色が、なんだか妙に懐かしく、それでいて新鮮なもののように感じる。昨日までとは心の在り方が違うせいだろうか。
病院への道をたどりながら、静かに過去を想う。
魔術師は友人を失った。少女は両親を失った。どちらも、それぞれにとって、大切な、かけがえのないひとたちだった。痛みと悲しみが胸から溢れ、無力な自分を強く嘆いた。その時の想いは、きっと一生忘れることはないだろう。
なにを選んでも失ったものを取り戻せないのなら、せめて同じことを繰り返したくはない。
だから、
「……守ってみせる、今度こそ」