第5話 それから
01 復帰
走るのが好きだ。
後方へと流れる風を全身で感じながら思う。ゴールとなるグラウンドの片隅にあるネット群だけを目指し、ひたすら走る。周囲の色も音も遠くなり、ただ走る。
勢いのまま、ネット群の前を滑るように通り過ぎてから徐々に減速し、ようやく息が上がっていることを自覚する。この息苦しさはあまり好きじゃないけど、走っている瞬間の爽快さはなににも代えられない。いつもは思わず顔をしかめるような冷たい空気も、今は火照った体に心地よく感じる。汗をかいたから、このままでいたら風邪ひきそうだけど。
足を止め、空を見上げる。雲の存在もわからない、目に痛いほど青い空が、どこまでも広く世界を覆っている。爽やかさ倍増だ。
「お疲れさま、井澄くん。はい、タオル。はやく汗拭かないと、風邪引くよ」
「おお、サンキュー高坂」
マネージャーの高坂が差し出してくれたタオルを受け取り、にじみ出てくる汗を軽く拭う。グラウンドの隅に用意されているドリンクで水分を補給し、ほうと吐息がこぼれる。
高坂は今俺がやってきた方向へと足を向けた。
「お疲れ様、真嶋くん」
「また井澄がイチバンかー!」
後方から追いついてきたらしい部活仲間の真嶋が悔しそうに声を上げた。俺は真嶋を振り返り、にやりと笑ってやった。
「お前に俺が抜けるかよ」
「ずっけー! 井澄あれだろ、魔力使ってんだろ!」
「使ってねーよ、意識的には」
「やっぱずっけー!!」
「ずっけくねー」
真嶋はぎゃーぎゃーと騒ぐし、俺だってちょっとずるいと実は思う。しかし仕方がないだろう。俺はいつもどおり走っている。少なくとも俺はそのつもりだ。その《いつもどおり》の状態で、《風》が勝手に補助してきちまうんだ。悪ぃけど俺、魔力のコントロールってほとんどできねーんだよ。
一応監督にもそういう話をしてある。そのときの監督の答えはこうだ。「まあ、それが井澄くんの一部になってるんじゃしょうがないでしょ、でもできる限り抑えるようにね」。
というわけで、とにかく意識しない、《いつもどおり》を保つことで話がついている。これ以上のコントロールを求められると、魔力コントロールのための訓練が別に必要になってくるわけだから……オフシーズン中はいいけど、また春がやって来たら継続は難しくなるし。
今まではこれでやってきてたんだから、このままでも大きな問題はないはずだ。もちろん努力しないわけじゃない。できる限りのことはするつもりでいる。が、今それを求められても困るってもんだ。
「真嶋くん、真嶋くん。はい、タオル」
「サンキュ!」
真嶋は一頻り騒いでから、高坂からタオルを受け取って汗を拭き始める。
その後方から白い息を吐き出しながらこっちに向かってくるもう一人の姿が見えた。
「お疲れ御端ー」
「お、おつか、れっ……二人、速い……!」
「御端も十分はえーよ。井澄はあれだ、キカクガイ!」
「……なんでだろう、わかってんだけどたしかにその通りなんだろうけどお前に言われるとなんかイラっとすんな」
そりゃ俺のスピードはたしかに一般レベルじゃねーけど。それ言ったら真嶋のスポーツセンスだって一般から頭ひとつどころかふたつくらい飛びぬけてる気がするし。これが他の奴ならそんな気しないんだけど。やっぱ真嶋にだけは言われたくねえ。
「お疲れさま、御端くん。はい、タオル」
「お、あ、ありが、と!」
「あと、真嶋くんも御端くんも、ちゃんと水分取ってね」
「あ、忘れてた!」
「忘れんな」
ぞくぞくと仲間たちがゴールにたどり着いてくる。順番に高坂からタオルを受けとり、水分を補給して休憩に入っていく。
繰り返される日常を眺めながら、またその一部となりえる幸せをそっと噛み締めて、再びドリンクのボトルに口をつける。
と。
「元気だね~」
のんびりとした女の声が、すぐ傍で聞こえた。
驚いて反射的に跳ぶように身を引いた。視線を向ければ、
「城井ー!?」
「城井、さん!」
「や、一週間ぶり」
俺と御端の驚きの声に、城井は笑って応えた。そのノリ、なんかデジャブだ。
各々休憩を取っていた仲間たちも、「え? 城井?」「城井来たの?」と視線を集中させてくる。
城井とはクラスメートである林田が一歩前へ進み出た。
「城井、もう大丈夫なの?」
「うん。明日からは本格復帰。あ、林田くん、ノートちゃんと取ってるよね。今度見せてもらえないかな?」
「いいよ。役に立つかはわかんないけど」
「板書が写してあればいいよ」
「気にすんな林田、こいつ基本は教科書丸呑みだから」
「その表現ちょっと嫌なんですけど! なんか私教科書食べてるみたいじゃん!」
「えー!? 城井教科書食えんの!?」
「食べないよ!?」
真嶋の本気なんだか冗談なんだかよくわからない発言に力いっぱい否定を返す城井は、もうすっかり元気な様子だ。
一週間ぶり。
城井がそう言ったとおり、俺たち全員、城井と顔を合わせるのは一週間ぶりになる。
このグラウンドで、《あっち》から送り込まれてきた魔獣の大群とやりあったのがちょうど一週間前だ。
すべての魔獣を排除し終えた直後、城井はぱったりと倒れてしまった。施設まで送り届けたコバセンが言うには、過労っぽい、ということらしい。
まあ、当然の結果だろう。朝から《ウィザード》の力を解放しっぱなしで夜まで過ごしたんだ。激しい戦闘もあったわけだから、それだけ消耗も激しい。むしろ、最後まで倒れなかったことのほうが奇跡に近い。
あの日は日曜日だったから、次の日は月曜日で、当然通常授業があった。みんな、重い体を引きずってなんとか授業には出たけど、さすがに野球部の練習まで通常運転じゃ倒れかねない状態だった。特に、部員の中じゃ俺が一番消耗していて、もう立って寝ないでいるのがやっとなくらいだったのだ。監督とコバセンもそのあたりを考慮して、みんなは軽めに走り込みだけして、俺はそれすらなしで、その日は帰った。そのまた次の日である火曜日には、みんなはもちろん、俺もある程度回復していた。そんな俺らを見て、コバセンが「若いなぁ」と笑っていた。コバセンはなにも言わなかったし、顔にも出さなかったが、どうも相当ひどい筋肉痛に襲われていたらしい。……コバセン、明らかに運動し慣れてないもんな……。
木曜日あたりに、みんなで城井の見舞いに行こう、という話が持ち上がったりもした。しかし、そのことを城井にメールしたら拒否の返事が届いてその案は流れてしまった。だからこの一週間、本当に城井の顔を見る機会がなかったのだ。
「本当は昨日くらいにはだいぶ回復してたんだけどね。チビどもが束になって『休んでなきゃだめー』って言うもんだから、大人しく寝てたの」
「そりゃ、チビどもに今度ご褒美やんねーとな」
「お菓子だとみんな喜ぶよ」
わざわざ確認は取らないが、チビどもっていうのはおそらく城井が現在世話になってる養護施設の子供たちのことなんだろう。事情がわからないらしい仲町や梶なんかは顔を見合わせて「チビ?」「兄弟かな」とかなんとか言い合っているが、わざわざ教えてやるべきことでもないだろう。
「で、なんだよ」
「え?」
「わざわざ休日に学校来たってことは、なんか用事あんだろ? 御端か?」
きょとんとした表情を浮かべていた城井は、そのままふるりと頭を振って「や、井澄くん」と言った。
俺か。
「もーあとミーティングだけだし、ちょっと待っとけ」
「はいはーい」
タイミングよく――もしかしたら見計らっていたのかもしれない――監督から号令がかかり、城井を置いて走る。
監督の周りに集まって、監督の話に耳を傾けながら、城井の用事について考える。
……まさか、また《道》が繋がっちゃいました、なんて言わないだろうな……。