第1話 リデルとシルヴィア
05 雪の記憶
* * *
雪の季節になり、天から降り注ぐ雪が景色を白く染めるようになってからも、姫はかまわず私の元へ訪れた。
「リデルは雪が好きなの?」
「……え?」
窓から外を眺めていた私に、姫が笑顔で尋ねられた。
一体なぜ、そのようなことを聞かれているのでしょうか。
私が戸惑っているうちに、姫が続きを述べられる。
「だってリデル、最近いつも外見てるんだもの。雪が好きなのかなって。なんなら外で遊ぶ? 寒いけど」
「……遠慮します」
想像したら少しだけ体が震えた。家の中は、暖炉に火をつけてあたたかく保っているが、窓の外では雪が踊るように舞っている。その事実だけで十分寒そうだ。
私自身は、特に意識したことはなかった。しかし思い返してみると、確かに雪が降るとどうしてもそれに目を奪われがちになっていた気がする。今も、姫が目の前にいらっしゃると言うのに、失礼なことに視線も意識も窓の外だった。姫に指摘されて初めて気付いた。
再び窓の外を見る。空から地上へとふわふわ舞い落ちてくる白いもの。好きか、嫌いか。そんなことは考えたこともなかったので、唐突に問われても答えられない。
ただ、この季節は、私にとって思い入れが深い。
「……雪の季節にはどうしても、昔のことがよく思い出されるんです」
「昔?」
「先生と出逢ったのが、この季節でしたから」
「あ……」
私はかつて、両親に捨てられた。
それは雪の季節の出来事で、その日はしんしんと雪が降り続いていた。偶然にも通りがかった先生が拾って治療してくれなかったら、私はあのまま凍えて死んでいただろう。
両親に捨てられ、凍え死にそうになった雪の日。けれど、同じ日に先生に拾われ、一緒に暮らそうと言われた日も、やはり同じように雪が降っていた。
雪が好きか、嫌いか。これまで一度だって考えたことがなかった。好きだろうか。よくわからない。嫌いだろうか。よくわからない。そう考えてみたら、おかしくなった。かつて雪に殺されかけたというのに、嫌悪どころか恐怖すら抱いていない。悲しくて冷たい記憶は、どうやらそのあとにやってきた優しくてあたたかい記憶に塗りつぶされてしまったのかもしれない。
……いえ。そういえば、死にかけていたあの時でさえ、降り止まない雪に恐怖を覚えはしなかった気がします。なにぶん幼い頃のことなので定かではないですが。それを考えると、単に頓着していないだけとも言えるかもしれない。……これが一番有り得そうですね。
「……ごめん」
「はい?」
「やなこと、思い出させて……」
姫の沈んだ声に、私はきょとんとして姫をまじまじと見てしまった。なぜ謝罪を受けているのか理解するのに時間がかかり、理解してからは静かに狼狽してしまった。
私が先生と出逢った季節。それはそのまま私が両親に捨てられた季節だ。姫はそれを承知していらっしゃる。もちろん私も承知の上で答えた。だが、それが姫の表情が曇らせてしまうことになるなど、思いもしなかったのだ。
「あ、いえ……すみません、そんなつもりではなかったんですけど」
「……なんでリデルが謝るの?」
「え、いえ、だって、その……なんだか姫のほうが泣きそうな顔してらっしゃったので……」
「……ぷっ」
「……だからってこの状況で笑われてもですね……」
さきほどまで泣きそうな顔をしていたはずの姫は、今度はおかしそうにくすくすと笑う。私はそれにどう反応を返していいかわからず、口を閉じた。
「だ、だって……っ、こっちは本気でしまったーって思ったのに、リデルってば全然気にしてないんだもの!」
「は、はあ……申し訳ありません……?」
「疑問形だし!」
笑い続ける彼女にやはりどうしていいかわからず、ただ収まるのを待った。しばらくそのまま待っていると、少し落ち着いたらしい姫が、少しさびしげな笑顔で言った。
「すごいね、リデル。寂しいとか、悲しいとか、思わないの?」
「……そう、ですね。あまり、思ったことがないかもしれません」
「すごい! リデルは強いんだね!」
すごいすごい、と繰り返す姫に苦笑する。
「そんなことはありませんよ。思ったことがないのは、たぶん、先生がずっと傍にいてくれたからです」
「リデルは先生が大好きなんだね」
「……ええ」
先生は私にたくさんのことをしてくれて、たくさんのことを教えてくれて、たくさんのものを与えてくれた。そんな先生との日々に夢中で、幼い記憶の中の家族のことなんて、ほとんど思い出すこともなかった。時折思い出すのは、あの日見た雪の白さばかり。
両親に捨てられたという記憶は、悲しい。なのに、今はそのことを思い出すことさえ苦ではない。捨てられた悲しみが色あせるほど、先生との出逢いや一緒に過ごした日々が、私にとってとても大切なものになっていた。それほどまでに、彼は私にとって大切な存在になっていた。
「あーあ、一瞬でも落ち込んで損しちゃった」
「……落ち込んでらしたんですか」
「ちょ、リデル私をなんだと思ってるの!? 私だって落ち込むことくらいあるよ!?」
「え、あ、いえ! そうではなくて、……」
うっかり口から出た言葉に、私は慌てて言い繕おうとする。
落ち込むことなんて、誰にだってある。姫だって例外ではない。そんなことは改めて指摘されずともわかっている。
以前から、姫は意図して落ち込んだそぶりを見せないようにしているところがある、と私は感じていた。
身内から蔑まれて、辛くないはずがない。私は姫が実際に受けている扱いについての詳細は知らないのだが、快いものではないはずだ。傷ついてもいるはずだ。それは、最初の頃、姫が見せた泣き出してしまいそうな表情からわかっていた。けれど姫は、以降そんな素振りをちらりとも見せたことはない。私にされる話は他愛のないものばかり。私に限らず、その胸に抱えているだろう蔭を他者に見せようとはしないのだろう。だから、本当に落ち込んでいるのか、見ただけでは判然としない。
それを本人に向けて言っていいものかどうか、判断に迷い、私は開いた口を再び閉ざした。私は姫に対して、そんな踏み込むような真似をしてもいいのでしょうか……。
「……リデルー」
「…………」
「思うことあるなら、言ってよ。それじゃ気になっちゃう」
「……、……」
姫が下から覗き込むようにして、大きな瞳を私に向けた。
どうすべきか、それでもずいぶん迷ったが。そんな真っ直ぐに向けられる瞳を避けることのほうが失礼なのかもしれない、と考えを改めて、再び口を開いた。
「……姫は、いつも明るく振舞おうとしてらっしゃるように見えるので……私には時折、姫の本音が見えなくなるんです」
「……あー……あはは」
私の正直な言葉を受けて、姫は苦く笑われた。
「うん、そうだね。そういうところは、あるかも。私、落ち込まないように努力してるから」
「努力、ですか?」
「うん……。嫌なの。なんだか、弱い人間みたいで。落ち込んだり、迷ったりしたくないの。ほら、私、魔術使えないしさ……《力》も、なんに使えばいいのかよくわかんないし。《開いて》、《閉じる》ことができる力って言われても、なにそれって感じじゃない。そういった方面では、お兄様やお姉様には絶対勝てないからね。だからせめて、心の強い人間でありたいの」
私は、姫のその言いように首を傾げた。
それではまるで、落ち込んだり迷ったりするシルヴィア姫には価値がないかのようではないですか。なんだか釈然としません。
そんな私を見て、姫は「なに?」と先を促した。私は少し迷って、「いいえ」と首を横に振った。先ほど、ある意味失礼ともとれるようなことを指摘したばかりだ。言っても許されるだろうが、意味はないだろう。それは姫の価値観の問題であり、第三者であり出逢ってそれほど時間も経っていない私などがただ言葉を並べたところで……。