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第2話 リデルとカイル
05 自覚



 じっと、カイルから受け取った茶葉の入った瓶を見る。そういえば、姫が遊びに来なくなってからはあまり減っていない。お客様にもお出したりはしているが、そう頻繁に来訪するお客様はいないので、どうしてもなかなか減らないのだ。そう、普通、姫ほど頻繁には訪れないし、やってきたとしても私相手に長々世間話をする方はいない。
 ……姫って本当に奇特な方ですよね。
 カイルに「しばらくお茶は必要ありません」とハンスさんに伝えてもらうことは決定事項として、問題はすでに家にある分だ。
 さて、どうやって消費しましょうか。
 考えたところで、目の前の人物の顔が視界に入る。
 彼といる時間は居心地があまりよくない。はっきりと嫌悪を感じるわけではないのだが、ひどく落ち着かない。けれど、お茶は溜まりっぱなしだ。どうにかして消費しなくてはならないが、私はあまり頻繁にお茶を飲むほうではないから一人ではどのくらいの期間がかかるかわからない。姫の来訪はしばらく期待できないだろう。かと言って、彼にお茶を出したところであまり量は変わらないかもしれない。が、減る量はまったくのゼロではないのだから……。
 それに、もしかしたら、胸に溜まっているこのもやもやしたものの正体を、それに繋がる手掛かりを知ることができるかもしれない。

「……お茶を飲む時間はありますか?」
「え?」
「余ってるんです。時間に余裕があるなら、減らす作業に協力していただけると助かるんですけど」
「おお、そういうことならおやすいご用だ!」

 こうしてカイルは、魔術師リデルのお客様から、ただのリデルの客人になった。
 カイルを応接間へ招き入れて、椅子をすすめる。初めて足を踏み入れたわけでもないのに、感心したように部屋の中を見回していたカイルは、遠慮なく椅子に腰を下ろした。

「そんなにおもしろいですか?」
「いやぁ、すげえ本の数だなと思って」
「普通ですよ」
「いやいやいや、絶対普通じゃないって。俺ん家にはこの四分の一くらいの数しかないぜ、本」

 カイルは笑いながら、一つの積み上げられた本の山を指差した。
 笑っているが、嘘や冗談を言っている様子ではない。それを感じ取り、カイルが示す冊数の少なさに呆れる前に感心した。
 もしかして、カイルの言葉が一般の基準値なのでしょうか。思えば私の中の基準というものは全て先生によるものであって、先生は国一番の魔術師と謳われるような方ですから当然一般とは画している存在であるわけであって。
 ……絶対ずれてますよね、私の基準……。今さら気がついてしまった。
 気づいたところでどうしようもないことなので即座に思考を切替え、キッチンへ向かって一番古い茶葉の入った瓶を手に取った。すると、一度は椅子に座ったくせに後ろからついてきたらしいカイルが驚きの声を上げた。

「……それ、全部お茶なわけ?」
「ええ」
「なんか、多くねえか?」
「ですから困っているんですよ」

 今私が手に持っているのと同じ瓶があと二つ、中に茶葉がいっぱいつまった状態で置いてある。さらに先ほどカイルから渡されたものもある。今手にしている分は残り四分の一ほどだ。姫は一回の訪問で何杯もお茶を飲まれるので、以前はそれでも順調に消費されていたのだが……。
 もっとはやく、ハンスさんに「しばらくいらない」と伝えておくべきでしたね。すっかり失念していました。

「なんでそんなに溜まっちまったんだ?」
「花の季節の半ばくらいまで、頻繁にいらっしゃるお客様がいたんですけど、最近ぱったりと来られなくなってしまって」
「へぇ! それ、女の子か?」
「ええ、まあ」
「おお!」

 なにがそんなに楽しいのか、カイルはさきほどからずっと笑顔だ。しかもなんだか意外そうな声に聞こえるのは気のせいでしょうか。そんなカイルを不思議に思いながら、とにかくお茶を用意する。
 というか、姫がいらっしゃらなくなったのはあなたのせいですからね。なんて、そんなことをわざわざ言ってやる義理はありませんが。しかし、カイルの反応には少々腹が立つ。腹いせに、すぐには飲めなさそうな温度のお茶でも用意してやりましょうか……。

「ってことは、ふられちまったんだな、リデル」

 茶化すように投げられた言葉に衝撃を受け、茫然とした。返す言葉が思い浮かばなかった。作業をしていた手が完全に停止した。
 ふられた。
 その言葉の意味がわからないわけではなかった。私の中に根付く常識の基準が多少ずれている可能性は認めるが、そこまで世間知らずなつもりはない。かつ、カイルとしてはちょっとからかっているくらいのつもりなのだろうしそこに悪気はなく、状況的にも間違いはない。
 なにも、間違っていない。
 私はふられたのだ。
 今、姫は私と言葉を交わすことよりも、カイルを眺めていることに夢中になっている。私の存在は姫の中においてカイル以上のものにはなり得なかった。私は事実、ふられたのだ。そこに、間違いなど欠片もなかった。

「……ああ」

 ようやく、得心がいった。
 シルヴィア姫の笑顔に大きく跳ねた心臓だとか。真剣にカイルを見つめるシルヴィア姫の横顔に小さく疼いた胸の痛みだとか。カイルと話をするほどに積もり積もっていくもやもやとしたなにかだとか。
 すべて繋がっていた。私が気づいていなかっただけで。
 それが、答えだったのだ。

「ん? リデル? ……おわ!? なに、なんで泣いてんだ!?」

 動きを止めてしまった私の顔を横からのぞき込んできたカイルが慌てる。カイルの言葉によって初めて、私は自分が涙を流していることに気がついた。
 泣いている。
 私は、悲しいのか。
 ……悲しいのだ。
 自覚した途端、ぶわ、と涙が次から次へと溢れてくる。乱暴に目元を拭ってみたが、止む気配はない。ぼろぼろ、ぼろぼろ、大雨のように塩をはらんだ雫が床を目指してこぼれていく。それを止める術がわからない。そんな自分があんまりにも情けなくて、自分の顔を両手で覆った。すでに気づかれているとしても、これ以上見られたくなかった。特に、カイルには。

「リ、リデル? おい、……」
「あなたのせいです……」
「へ!?」
「君のせいだ! ああ、もう!」
「え、なに、ちょ、え……えぇ!? まさか本気でアタリなのかよ!?」

 カイルとしては茶化しただけのつもりだっただろうに、なんとそれが冗談抜きの図星で、それが原因で私は泣いている。顔を青くしておろおろしていたカイルは、やがて困ったように、優しく私の背中をたたき始めた。親が子どもをあやすような仕草に、余計涙が止まらない。
 手のひらで受け止め切れない涙がぼたぼたとこぼれおちていく。鼻の濡れた感覚が気持ち悪くて右手で軽く拭ったが、状況は改善しなかった。鼻をすすってみると、もう詰まっていて空気が入り込む隙間がなくなっていた。呼吸もままならなくなり、ひっ、ひっ、と喉が引きつった音を出す。
 カイルはそんな私の背を、落ち着かせようと撫でていた。なにかに縋りついて外聞もなにもかも気にせずぶちまけてしまいたい気分だったが、そこにいるのはカイルだと思えば、私はその衝動を容易に飲み込んで消し去ってしまえた。
 私は、シルヴィア姫が好きだった。
 いつでも明るいシルヴィア姫が好きだった。彼女の話を聞くのが好きだった。彼女とお茶を飲むのが好きだった。私の作ったお菓子を嬉しそうに食べる姿を見るのが好きだった。先生以外とのつながりをほとんど持っていなかった私にとって、彼女は光であり、風だった。
 好きだった、のだ。
 気づいていなかっただけで、ずっと。
 いまだに私の背中を優しく撫でている手のひら。すべて、この手のひらの持ち主が気づかせてしまった。私の気持ちも、私の立場も、すべて。気づかずにいたかった、目を向けずにいたかった真実へと、導かれてしまった。
 私にとって特別だったシルヴィア姫。シルヴィア姫にとって特別なのは、私ではなくカイルだった。シルヴィア姫はもう気づかれているのだろうか。自身の気持ちをあらわす言葉を。幼少の頃、たった一度だけ逢った少年に、恋をしていることを。
 好きだと気づいた時にはとっくに失恋していたなんて。しかもそれを気づかせたのが恋敵で、なおかつその恋敵に今現在も慰められているなんて。
 一体どんな喜劇ですか。
 自分を胸の内で罵った。それでも、涙は止まらない。
 ぎゅう、と閉じた瞼の裏に浮かぶのは、シルヴィア姫の笑顔。私の大好きな、シルヴィア姫の笑顔だ。
 その笑顔のためなら、なんだってできるような気がする。だから、シルヴィア姫には言わない。「好きです」なんて、絶対に伝えない。それは彼女を困らせるだけだということを、私はちゃんと理解している。彼女の困った顔も、泣いた顔も、見たくなどない。
 ここで行き止まり。どこにも行けずに立ち尽くすだけ。

「……悪い」

 ぶっきらぼうに落とされた謝罪は不器用に響くのに、いやにあたたかくて、どう受け止めていいかわからなくなる。
 もう泣きたくないのに、涙は一向に止まらない。
 涙というのもはいつになったら枯れるのでしょうか。
 私は泣きながら、ぼんやりとそんなことを考えながら、心の中だけで、想いを告げる。何度も、何度も。
 好きです。
 あなたが好きです、シルヴィア姫。
 あなたの声が好きです。あなたの瞳が好きです。あなたの長い髪が好きです。あなたの白く細い指が好きです。あなたがされる他愛のない話が好きです。あなたの幸せそうにお菓子を頬張る顔が好きです。あなたの強くあろうとするその姿勢が好きです。あなたの一途なところが好きです。あなたの笑った顔が大好きです。
 だからこそ。
 私はただ静かに、この声を殺しましょう。



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